ナンバープレートから見えるアメリカの州メリーランド州・Old Line State

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メリーランド州(Maryland)のナンバープレートです。州のニックネームである「憲法に署名した由緒ある州」という意味の「Old Line State」とか「自由を求める州)」(Free State) 「チェサピーク湾を護れ」(Protect the Chesapeake)などが記されています。デザインもさまざまでカラフルなプレートです。州名の発音が心地良い響きもっています。

License Plate of Maryland

メリーランド州は、首都ワシントンD.C.(Washington D.C.)のすぐ北隣りにあります。ペンシルバニア州(Pennsylvania)やデラウエア州(Delaware)とも境をなしている大西洋岸の州です。州都はアナポリス(Annapolis)、最も大きな町はボルチモア(Baltimore)です。

紀元前10,000年頃、氷河期後期の狩猟民族が最初に居住します、その後ナンチオケ族(Nanticoke)とピスカタウェイ族(Piscataway)が居住しました。1608年、イギリスのジョン・スミス少佐(Capt. John Smith)がチェサピーク湾(Chesapeake Bay)の海図を作成します。ヴァジニア州(Virginia)の北に隣接するメリーランド州は、株式会社ではなく個人経営者によって管理された最初の英国植民地でした。

最初メリーランドにやってきたのはイギリス諸島(British Isles)出身の白人でした。1700 年代にドイツ人(German)の農民や職人がペンシルベニア州からメリーランド州西部に移住し始めました。こうした人々の流入は、1840年代のアイルランドのジャガイモ飢饉(Potato Famine)によって加速し、続いてドイツ人やドイツ系ユダヤ人(Russian Jews)が徴兵から逃れ、その後、ポーランド人(Poles)、チェコ人(Czechs)、イタリア人(Italians)、ギリシャ人(Greeks)などが、19世紀の主要な移民センターであるボルチモア(Baltimore)に流入し田園地帯に広がっていきます。

Map of Maryland

Corn Field

こうしたメリーランド州の民族の多様性は、ポトマック川(Potomac River)以南の地域には見られない特徴の1つでした。南北戦争直後、この多様性は、敗北し荒廃した祖国での生活に絶望した南部人の流入によって様変わりしていきます。多くの元奴隷は北のボルチモアに移住し、数世代にわたって自由で確立されていたアフリカ系アメリカ人のコミュニティに加わっていきます。

メリーランド州のアメリカ先住民の人口動態です。1700年頃までに先住民のほとんどは絶滅するか西に押しやられてしまいます。何世紀にもわたって先住民が住んでいた場所として残っているのは、今でも発掘されるキャンプ場の遺物や湾岸にある有名な湾岸のカキ塚、そして理解力のない白人によって改名されチェサピーク(Chesapeake)、パタプスコ(Patapsco)、ポトマック(Potomac)、ウィコミコ(Wicomico)、パタクセント(Patuxent)、ピスカタウェイ(Piscataway)、サスケハナ(Susquehanna)などの地名だけです。

ボルチモア卿(Lord Baltimore)であるジョージ・カルバート(George Calvert) は、1632 年に国王から土地の補助金を与えられるまで、数多くの植民地化計画の投資家でした。彼はイングランドの法律から逸脱しない限り、植民地の貿易と政治システムを支配することができました。

ボルチモアの息子セシリウス・カルバート(Cecilius Calvert)は父親の死によりこのプロジェクトを引き継ぎ、ポトマック川(Potomac)沿いのセント・メアリーズ(St. Mary’s)での入植地を推進します。メリーランド州の入植者たちは、ヴァジニア州からも一部供給を受けて、当初から控えめなやり方で入植地を維持していました。しかし、ヴァジニア州と同様、メリーランド州でも 17世紀初頭の入植地は不安定で洗練されていないことが多かったといわれます。入植地は極めて若い独身男性で構成されており、その多くは期間限定の契約で雇われ、荒野での生活の厳しさを和らげる安定した家族を持つことがありませんでした。

アフリカ人奴隷は、投資家であったカルバート家の時代からメリーランド州で働いていました。多くのメリーランド州民、特にクエーカー教徒の良心は奴隷の存在や扱いに対し疑問を抱いていました。1783年から誘拐されてきたアフリカ人の輸入には重税が課されていました。メリーランド州は1864年まで奴隷制を正式に非合法化しなかったのですが、奴隷制が終わりに近づくとともに、他のどの州よりも多くの自由黒人の自由を保護していきました。こうして南北戦争後、黒人はメリーランド州が旧南部連合の州よりも居心地が良いと捉え、1900年までに、白人による黒人を生涯にわたり所有する権利が剥奪されていきます。

メリーランド大学(University of Maryland)の法学部への黒人学生の入学が認められるには、1934年の連邦最高裁判所の判決が必要でした。メリーランド州がバルチモアを含む区域から黒人代表を連邦議会に送るのは1970年のことです。この理由は、バルチモアの人口の半数以上がアフリカ系アメリカ人となった事情を反映しています。

University of Maryland

21世紀初頭、州の総人口の約3分の2を白人が占め、約3分の1をアフリカ系アメリカ人が占めていました。残りの大部分はアジア系アメリカ人で、少数のネイティブ・アメリカンもいました。現在同州にはヒスパニック系人口も少ないのですが増加の傾向にあります。

メリーランド州は、宗教の自由を確立した最初のアメリカ植民地となります。ペンシルベニアとの境界紛争は、1760年代にメイソン・ディクソン線(Mason-Dixon Line)が引かれたことで決着します。1788年、メリーランド州は合衆国憲法を批准した7番目の州となります。

メリーランドは、1791年に連邦首都の建設地としてコロンビア特別区(District of Columbia:D.C.)を割譲します。さらに1812年戦争(War of 1812)といわれた米英戦争に参戦します。この戦争は、イギリスがアメリカとフランスの貿易を妨害したことなどに対して、アメリカの反発から起こったといわれる戦です。この戦の勝敗はつかず。1814年に講和します。

Annapolis

1845年にアナポリス(Annapolis)に海軍士官学校(海軍大学)(Naval Academy)が設立されます。南北戦争中もメリーランド州は連邦に残りますが、南部からの強い影響によって戒厳令(martial law)が敷かれたりします。戦後は南部と中西部への消費財の重要な中継地として栄えていきます。20世紀には首都ワシントンDCに近く、人口増加に拍車がかかります。

メリーランド州の経済は主に政府サービスと製造業に基づいています。人々の一人当たりの平均収入は2007年から連続全米一となっています。これは、ワシントンD.C.に通う人々が多いこと、ハイテクの産業が多いことなどが理由となっています。350余りのバイオテクの企業が多いのも特徴です。そしてメリーランド大学が科学者や研究者などの専門家を輩出する中心となっています。

US Naval Academy

農業が盛んなのがアメリカのどの州にも共通する特徴です。メリーランド州もそうです。キュウリ、スイカ、スイートコーン、トマト、マスクメロン、カボチャ、梨などが採れます。

アナポリスの海軍士官学校は、ほれぼれするほど綺麗なキャンパスと街並です。ニューヨーク州のウェストポイント(West Point)にある陸軍士官学校(陸軍大学)(US Military Academy)と並び、合衆国の幹部将兵を育てるこの海軍士官学校は、長い歴史を有しています。1976年からは女性の入学も認められています。私と院生がここを訪れたのは2003年でした。D.C.での学会のついでに立ち寄って麦酒を片手に生牡蠣(oyster)を楽しみました。大西洋に抱かれるチェスピーク湾は人々の憩いの場となっています。

Francis Scott Key Bridge

2024年3月26日にボルチモア郊外にかかる全長およそ2.5キロのフランシス・スコット・キー橋(Francis Scott Key Bridge)の支柱に、シンガポール船籍の大型コンテナ船が衝突し橋の大部分が崩れ落ち、複数の車が川に落ちて死者がでました。コンテナ船の電源が切れ操縦がきかなくなり、SOS信号を発信しますがすでに遅しという状態だったようです。1977年開通の橋で半世紀近く経つ橋の老朽化や補強不足の可能性もあると指摘されています。
(2024年4月30日)

ナンバープレートから見えるアメリカの州メイン州・Vacation Land

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メイン州(Maine)のナンバープレートには「Vacation Land」とあります。「The Pine Tree State」とも呼ばれ観光と森林の州を謳っています。多くの州立公園があり、キャンピングなどアウトドアでも盛んなところです。豊富な海産物を背景に観光客には、必ず立ち寄るのが海産物を提供しているレストランとなります。

License Plate of Maine


メイン州は合衆国本土の最東北部に位置する小さな州です。北、東、西側はカナダと長く国境線を有し、南は大西洋がひろがる州です。州の内部には森林が広がり、海岸線は観光地として知られています。メインはニューイングランドの一部です。州都はオーガスタ市(Augusta)です。州の海産物はなんといってもロブスター(lobster)そして貝類(clam)。その他、家禽及び卵、乳製品、牛、ブルーベリー(blueberry)、リンゴ、そしてメイプルシロップ(maple syrup)です。他にも産業生産で高いのは材木及び製紙です。合衆国の海軍基地を控え造船も盛んな地です。

Augusta, Maine

現在メイン州となっている領域には、アルゴン族Algonquian)インディアンがこの地域の最古の住民だったいわれています。ヨーロッパからの入植者たちは、ペノブスコット族(Penobscot)とパッサマクオディ族(Passamaquoddy)が川沿いと海岸に住んでいるのを発見します。最初の開拓地は、1604年にフランス人ピエール・デュギュア・シュール・ド・モン(Pierre Duguy Sur de Monts)がサンクロワ島(Saint-Croix Island)に設立したものでした。フランスは1603年にメイン州をアカディア州(Acadia)の一部とし、イギリスは1606年にプリマス社(Plymouth Co)に領有権を与えます。プリマス社はポパム植民地(Popham Colonyをつくりますが、短命に終わります。17世紀にはイギリスが散在する入植地を築きますが、1763年にイギリスがカナダ東部でフランスを征服するまで、この地域は常に地元インディアンとの抗争の地となります。

Map of Maine

メイン州は1652年から1820年のミズーリ妥協により連邦の23番目の州として承認されるまで、マサチューセッツ州の一地区として統治されます。カナダとの境界は1842年に定められました。19世紀には南北戦争と産業革命によって労働者と資本がメイン州から流出しますが、20世紀には南西部の沿岸地域を中心に緩やかながら着実に経済成長を遂げていきます。経済は農業と天然資源に基づいています。

アメリカ独立戦争(War of Independence)や米英戦争(War of America)のとき、アメリカの愛国者とイギリス軍がメインの領土を巡って争います。これはアルーストック戦争(Aroostook War)と呼ばれます。メイン州と英国系カナダ人のニューブランズウィック州(New Brunswick)の間で係争中であった境界線を巡る無血紛争です。

Pine Trees in Fall

アメリカ独立戦争に締結された1783年の平和条約では、2つの地域を分ける「高地」(highlands)、つまり分水嶺の位置が不明瞭なままになっていたのです。その後数年間、イギリスとアメリカの交渉は合意に至らず、この問題はなぜかオランダ国王(Netherlands)に付託され、1831年にオランダ国王が決定を下しますが、メイン州国民はそれに激しく反対し合衆国上院(Senate)も否決をすることになります。さらに、ニューイングランドからの入植者とカナダからの製材業者が係争地域アルーストック地域に移住し、1838年から1839年にかけて紛争は激化します。双方の役人や集団が「不法侵入者」を逮捕して捕虜にします。

Frenchman Bay

1839年3月、ケベック州(Quebec)のイギリス軍がアルーストックのアメリカ地区であるマダワスカ(Madawaska)に到着すると、メイン州議会は直ちに80万ドルを計上し、1万人のボランティア民兵を招集しアルーストックに派遣します。アメリカ議会も5万人の兵士と1,000万ドルの拠出を可決し、ウィンフィールド・スコット(Winfield Scott)将軍はマーティン・ヴァン・ビューレン(Martin Van Buren)大統領によってメイン州オーガスタ行きを命じられます。1839年3月、彼とイギリスの交渉官ジョン・ハーヴェイ卿(Sir John Harvey)とスコットは、満足のいく解決が得られるまで停戦することと、係争中の領土を共同で占拠することに合意します。後の1842年にメイン州とイギリスの植民地であったカナダ・ニューブランズウィック州の境界線の位置を巡る紛争は、ウェブスターアッシュバートン条約(Webster-Ashburton Treaty)によって解決されます。

1820年まではメイン地区としてマサチューセッツ州(Massachusetts)に属していましたが、1820年の住民投票でマサチューセッツ州からの分離を決め同年の3月15日にアメリカ合衆国23番目の州に昇格します。

Lighthouse in Maine

メイン州は19世紀の緩やかな成長を経て、20世紀後半に25万人近くという前例のない人口増加を経験します。この成長の大部分は、特に州の沿岸部と南西部への移民の結果でした。しかし、アルーストック郡(Aroostook)は実際に人口の10分の1近くを失い、人口は減少し続けています。

メイン州の人口は均等に分布していません。住民のほぼ4分の3が、メイン回廊(Maine Corridor)として知られる州の南西5分の1に住んでいます。州の北西部と東部内陸部にはメイン州の人口の1% 未満が含まれていますが、面積の5分の2を占めています。

メイン州の住民の約半数は都市中心部に分類される地域に住んでいますが、人口が25,000人を超える都市は3つだけです。都市中心部のほとんどはメイン回廊内にあります。メイン州最大の都市圏は、ポートランド(Portland), サウス ポートランド(South Portland),ビデフォード(Biddeford)などです。ポートランドは、キャスコ湾(Casco Bay)とその周辺の内陸に広がる大都市圏の中心です。州の商業と交通の中心地であり、その経済は成長し多様化した産業基盤を持っています。ポートランドの南にあるビデフォードは、かつては繊維の中心地でした。繊維と靴の重要な製造の中心地であったルイストン(Lewiston)とオーバーン(Auburn)の双子の都市は、州内で2番目に大きな都市圏を形成しています。

Village in Maine

現在、この地域は多様な製造業に依存しており、アンドロスコッギン(Androscoggin)渓谷とオックスフォード(Oxford)郡東部の両方にサービスを提供する重要な商業拠点となっています。バンゴー(Bangor)は、ペノブスコット川(Penobscot River)の航行の始点にある古い製材業の町で、メイン州の北部と東部を含む広大な後背地の商業の中心地です。

Camden, Maine

州都オーガスタはケネベック川(Kennebec River)の航路の先端にあります。州政府が主な雇用源でオーガスタはメイン州中西部の重要な貿易の中心地でもあります。オーガスタの北、ケネベック川沿いにあるウォータービル(Waterville)は、隣接するコミュニティとともに、20世紀後半に製造業へと転換し、小規模で多様な産業が集積し、オーガスタと同様に地域貿易の中心地となっています。

Augusta, Maine


(2024年4月27日)

ミネソタの伝説的人物・ポール・バニヤン

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ポール・バニヤン(Paul Bunyan)は、巨大な木こり(lumberjack)で、アメリカの森林キャンプでの神話上の英雄であり、大きさや強さ、みなぎる活力を象徴する架空の人物です。 ポール・バニヤンの伝説を形成する物語や逸話は、辺境のほら話(folk tale)の伝統であり、その典型とされて子ども達から大人まで親しまれています。

Paul Bunyan and Babe the Blue Ox

バニヤンには二人の仲間がいます。ベイブ・ザ・ブルー・オックス(Babe the Blue Ox)という巨大な雄牛とジョニー・インクスリンガー(Johnny Inkslinger)です。インクスリンガーは聡明な記者で詩人でもあり、彼は材木キャンプの食事を美味し作る料理人ですが、落ち着きがなく、自分にとってキャンプよりも人生の方が重要であると考える人物です。

三人は何ヶ月も続く雨、巨大な蚊、悪天候にも動じません。この物語は、湖や川を思いのままに造るバニヤンがどのようにしてワシントン州(Washington)のピュージェット湾(Puget Sound)、コロラド州(Colorado)のグランドキャニオン(Grand Canyon)、ノースダコタ州(North Dakota)のブラックヒルズ(Black Hills)を創造したかを語っています。

Paul Bunyan Land

彼らは製材業者の驚異的な食欲に驚きます。そのためバニヤンの森林キャンプ用ストーブは4047平方メートルですから、サッカーグラウンド1つ分の大きさで、ホットケーキの鉄板は非常に大きいため、スケート靴の側面を使用して油を塗るという按配です。そうして製材業者の食欲を満たすのです。といったように奇想天外なストーリーが展開します。

口頭伝承から記録されたポール・バニヤンのいくつかの逸話は、最初のバニヤンの物語がジェームズ・マクギリヴレー(James MacGillivray)によってデトロイト・ニュース・トリビューン(Detroit News-Tribun)上での「ザ・ラウンド・リバー・ドライブ」(The Round River Drive)で紹介されます。マクギリヴレーは、ポール・バニヤンはすでにペンシルベニア(Pennsylvania)、ウィスコンシン(Wisconsin)、および北西部の製材業者に知られていたことを書いています。

プロの作家によって、バニヤンは職業上の人物という描写から国民的な伝説に変わっていきます。バニヤンは、ウイリアム・ローギード (William.Laughead)というミネソタ州の広告マンよって初めて一般聴衆に紹介されます。彼は、1914年頃に材木会社の製品を宣伝するために使用した一連のパンフレットにバニヤンを登場させるのです。

Paul Bunyan

やがて作家のエスター・シェパード(Esther Shephard)に影響を与え、シェパードは1924年にポール・バニヤンの神話上の英雄についての本を書きます。こうした本は幅広い大衆向けにバニヤンのイメージを一新していきます。こうした作家によるバニヤンにまつわるユーモアは、製材技術の知識ではなく、バニヤンの巨大さに焦点を当てて読者を魅了します。

やがて バニヤンの伝説は、数多くの児童書や観光客を誘致するために1950年にミネソタのブライナード(Brainerd)造られた「バニヤンランド」とか、同州北部にあるベミジ(Bemidji) にあるバニヤンと雄牛の像が、1988年以来国家歴史登録財(National Register of Historic Places)に登録されて、市民フェスティバルなどによってさらに有名になります。
(2024年4月18日)

ナンバープレートから見えるアメリカの州ミネソタ州・10,000 Lakes

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ミネソタ州(Minnesota)のナンバープレートには「10,000 Lakes」と印字されています。無数の湖があることでも知られています。昔、氷河がミネソタ全体を覆っていたようです。氷河はゆっくり移動しますが、そのとき大地を削っていきます。それが基で湖が出来たというわけです。あまりに沢山の湖があるので、目的地に着くには大分迂回しなければならないということを友人から聞いたことがあります。ホリネズミ(Gopher)が生息することから「Gopher State」というニックネームもあります。

License Plate of Minnesota


カナダと国境を接し、ウィスコンシン州の西隣に位置する州です。州都はセントポール(St. Paul)。その隣は最も大きな都市、ミネアポリス(Minneapolis)です。この二つは隣合わせなので「双子の都市」(Twin Cities)と呼ばれています。

Twin Cities

19世紀初頭に最初にミネソタに定住したのはイギリス人(English)、スコットランド人(Scottish)、スコットランド系アイルランド人(Scotch-Irish)の子孫であるカナダ人やニューイングランド人(New Englanders)でした。やがてこうした人々のほとんどが起業家(entrepreneurs)となり、ミネソタ歴史協会(Minnesota Historical Society)、ミネソタ大学(University of Minnesota)、立法問題を議論するためのコミュニティの集まりのための討論会やタウンミーティング(Town meetings)のための公開フォーラムの利用など、ミネソタ州で今も重要な機関や多くの伝統の確立に貢献しました。1858 年にミネソタ州が州となる前から、いくつかのコミュニティでタウンミーティングが開催されていました。

Minnesota Lakes

19世紀後半の最初の主要な移民グループは、伐採、鉄道建設、農業、貿易を行ったドイツ人(Germans)、スウェーデン人(Swedes)、ノルウェー人(Norwegians)でした。 ドイツ人入植者がミシシッピ川の沿岸部を支配し、州の中央部と中南部まで続きます。ノルウェー人入植者は郡の南層を越えて西に移動し、ミネソタ州中西部とレッド川(Red River)渓谷に主要な民族グループを形成します。 スウェーデン人入植地の主な地域は、ツインシティのすぐ北にあるいくつかの郡と、ミネソタ州中西部および北西部に点在していきました。

ヨーロッパ人が入植する以前、この地域にはオジブワ族(Ojibwa)とダコタ族(Dakota)が住んでいました。17世紀半ば、フランス人探検家たちが北西航路(Northwest Passage)を探しにやってきます。ミネソタ準州(Minnesota Territory)となった北東部は、フレンチ・インディアン戦争(French and Indian War)後の1763年にフランスからイギリスへ、そして独立戦争後の1783年にアメリカへ渡り、1787年に北西準州の一部となります。

Missouri River

かなりの数のフィンランド人(Finns)がミネソタ州北東部に定住し、ポーランド人(Poles)がミネソタ州南東部と中央部に定住します。ツインシティズ地域の南にボヘミアン人(Bohemians)が、南部全域にアイルランド人、ツインシティズのすぐ北とミネソタ州北西部にフランス人およびフランス系カナダ人(French Canadians)も定住します。一部にオランダ人(Dutch)およびフランドル人(Flemish)が住んでいます。ミネソタ州南西部にはアイスランド人、ミネソタ州北西部にはアイスランド人、そして州内に点在するデンマーク人(Danes)、ウェールズ人(Welsh)、スイス人(Swiss)が住んでいます。

1890年までに、ミネソタ州の生産的な農地のほとんどが所有権を主張されていました。したがって、その後数十年間に到着した移民のほとんどは、雇用の機会が拡大していたツインシティ地域または鉄山地帯で生計を立てようとしました。これらの後の移民グループには、イタリア人(Italians)、スロバキア人(Slovakians)、クロアチア人(Croatians)、セルビア人(Serbs)、ギリシャ人(Greeks)、ウクライナ人(Ukrainians)、ロシア人(Russians)が含まれ、さらに北ヨーロッパ人(northern Europeans)も引き続き流入しました。特にツインシティ地域は急速に成長し、州の主要なるつぼとなりました。しかし、元の民族クラスターの多くは、特に移民がほとんど定住していない農村部では、ある程度の均質性を保っています。

Map of Minnesota

1970 年代半ば以来、ヒスパニック系(Hispanic)、アジア系(Asians)、アフリカ系の移民が州の都市部や地域の中心部に到着しています。ミネソタ州のヒスパニック系人口は1990年代初頭から2004年頃までに 3倍に増加し、現在では総人口の約4パーセントを占めています。ベトナム人(Vietnamese)、ラオス人(Laotians)、カンボジア人(Cambodians)、モン族(Hmong)の難民は、1970年代後半からツインシティ地域に移住しました。実際、ミネソタ州にはアメリカで最大のモン族人が住んでいます。

南西部は1803年にルイジアナ購入(Louisiana Purchase)の一部としてアメリカが獲得し、北西部は1818年に条約により英国からアメリカに割譲されます。1819年にフォート・スネリング(Fort Snelling)に合衆国最初の永住地が建設されます。1849年に設立されたミネソタ準州には、現在のミネソタ州とノースダコタ州およびサウスダコタ州の東部が含まれていました。

ミネソタ州は1858年にアメリカ合衆国32番目の州となります。1862年にミネソタ州南部でスー族の反乱が起こり、500人以上の市民、兵士、ダコタ族が死亡する事件が発生します。1884年に商業的な鉄鉱石生産が始まり、1890年に州北部のメサビ山脈(Mesabi Range)の巨大な埋蔵鉄が発見されると、ダルース(Duluth)の人口は急速に増加します。

Nature of Minnesota

ミネソタ州は政治的に活発な市民が多いことで知られています。人々が政治に関わるという意識が高いのです。そのせいか、ミネソタ州の投票率は常に高いことで知られています。2008年の米大統領選挙では、投票権を持つミネソタ州民の78.2%が投票しています。これは全米平均の61.2%に対して全米で最も高い割合となりました。現在も民主党の牙城となっている州の一つです。

ミネソタ州からは二人の民主党員の副大統領がでています。1964年、合衆国大統領選挙で第38代副大統領となったハンフリー(Hubert Humphrey)で大統領はリンドン・ジョンソン(Lyndon Johnson)でした。1977年、大統領選挙で第42代副大統領になったのはモンデール(Walter Mondale)で、大統領になったのはジミー・カーター(James Carter)でした。

現代のミネソタ州ではサービス業が主な経済活動です。農業、特に穀物、肉、乳製品は依然として重要であります。鉄鉱石のほか、花崗岩や石灰岩などの鉱物資源にも恵まれています。

Cliffs and Fall

双子の都市ではプロ野球球団のMinnesota Twinsがあります。フットボールではMinnesota Vikingsが知られています。精密機器などの産業でも有名です。穀物の集散地であります。穀物メジャーで穀物市場を支配するカーギル(Cargill)がります。穀物のみならず精肉・製塩など食品全般及び金融商品や工業品に営業範囲を広げています。ミネソタ州には、3Mという世界的化学・電気素材メーカーの本社もあります。この会社には経営手法として「15パーセントカルチャー」(15% Culture) というのがあります。従業員が勤務時間の15%を日々の仕事にとらわれない研究活動にあてることを許すという興味ある不文律です。その他、合衆国内で最大のショッピングモール「Mall of America」は日本人の観光客も立ち寄るところです。

私事ですが、ミネソタ大学の友人が多く住んでいて何度もミネアポリスを訪問しました。私に洗礼を授けてくれたルーテル教会の牧師先生のご家族もここに住んでおられます。北米やカナダに伝わるおとぎ話に登場するのが巨人ポールバニヤン(Paul Banyan)です。西部開拓時代にミネソタ州でも活躍した怪力無双の木こりの物語です。次回ではこの人物を取り上げます。
(投稿日時 2024年4月月13日)

ナンバープレートから見えるアメリカの州ミズーリ州・Show Me State

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ミズーリ州(Missouri)のニックネームは「Show Me State」となっています。これは、「俺は疑い深いのだ、証拠を見せてくれ。」という意味です。少々のことでは納得しない、という気概が感じられます。このフレーズがナンバープレートにプリントされています。

License Plate of Missouri

ヨーロッパ人が征服する前、ミズーリ州となる土地は多様な先住民族の本拠地でした。古代クローヴィス(Clovis)やフォルサム(Folsom)の文化複合施設の多くの遺跡から、人類は紀元前 9000 年頃からこの地域に居住したことが明らかになりました。最も著名な古代社会は「ミシシッピ文化」(Mississippian culture)と呼ばれ、現在の最大の先史時代の都市であるカホキア(Cahokia)の彫像(effigy)と古墳(burial mounds)で知られていました。

Map of Missouri

「ミシシッピ文化」とは、住居や墳墓などを建設するために、人工のマウンドを構築したインディアン文化です。およそ800年から1500年まで、現在のミズリー州などの中西部、東部および南東部に広まりました。墳墓の技術からみてヨーロッパの銅器時代にあたるされています。ミシシッピ文化の生活様式はミシシッピ川渓谷で発展し始めます。これらの遺跡からはヨーロッパ白人による遺物がほとんど見つかっていないので、白人との接触以前のものとされています。

ミズーリ州の先住民は一般に、北東インディアン文化(Northeast Indian)と平原インディアン文化(Plains Indian)として知られる2つの大きなカテゴリーに分類されます。北東インディアンの人々は、州の森林の多い東部全域に分散して集落や村に住んでいました。彼らはトウモロコシ農業、野生植物食物の採集、狩猟、漁業を組み合わせて生計を立てていました。州名は、このグループの最も著名な地元部族であるミズーリ族(Missouri)の名前から由来しています。平原インディアンは州の西部に住んでいました。オーセージ族(Osage)やクアポー族(Quapaw)などの人々のことで、この地域の川の谷に住み、東部の人々と非常によく似た生活をしていました。

この地域にはもともとさまざまなインディアンが居住していて、そのうちの1つであるミズーリ族(Missouri)が州名の由来となっています。1735年、フランス人猟師と鉛鉱夫によってセント・ジュヌビエーブ(Ste. Genevieve)に最初のヨーロッパ人定住地が作られます。やがてセントルイス(St. Louis)が1764年に設立されます。もともとの開拓には、フランスから移民としてやってきて、カナダでフランス植民地をつくった人々がミズーリにやってきたとあります。そのせいか、フランスの名前が目立ちます。

Lake Ozark

それから約30年後、ニューオーリンズ(New Orleans)出身のフランスの毛皮商人ピエール ラクレード リゲスト(Pierre Laclède Liguest)がセントルイス(St. Louis)を設立します。1803年のルイジアナ(Lousiana)買収当時、この地域の約10,000人の住民のほとんどはイリノイ州からのフランス人入植者でした。この地域の白人人口のごく一部はケンタッキー州 (Kentucky)とテネシー州(Tennessee)からやって来ており、ヴァジニア州(Virginia)とともに19世紀前半を通じて直接の入植者の主要な供給源となりました。

他方、特に18世紀前半に、新たな先住民集団がミズーリ州に流入してきます。これらのグループには南東部インディアンの小さなコミュニティが含まれており、彼らは北アメリカ南東部でヨーロッパの植民者との紛争を避けようとして、現在のミズーリ州東部に移住し始めました。ミズーリ州西部では、平原の人々の多くが馬を利用できるようになり、スー族(Sioux)などの騎馬遊牧民が存在するようになりました。

アメリカは1803年にルイジアナ購入の一部としてこの地域の支配権を得ます。1805年にはルイジアナ準州の一部となり、1812年にはミズーリ準州となります。1812年の戦争後、アメリカ人入植者の流入が起こります。ミズーリ州は1821年にアメリカ24番目の州となりますが、ミズーリ妥協案(Missouri Compromise)によって奴隷州として認められた後でした。1857年のドレッド・スコット(Dred Scott)判決に見られるように、ミズーリ州は奴隷所有者と奴隷廃止論者の間で多くの緊張に見舞われます。南北戦争中もミズーリ州は連邦に属し、市民は両陣営で戦うという有様でした。

ドレッド・スコット判決とは、合衆国における黒人奴隷制をめぐる賛成派と反対派の激しい論争で起こった裁判です。1857年、合衆国の連邦最高裁判所がミズーリ協定を憲法違反とし、自由州での奴隷所有を認めた判決です。カンザス・ネブラスカ法とともに奴隷制拡大派の民主党の主張に沿ったものでした。その結果、奴隷制度に反対するリンカーンらの勢力が反発し、共和党に結集し南北戦争の引き金となります。

戦後、ミズーリ州の経済成長は拡大し、1904年のセントルイス博覧会で賞賛されます。第二次世界大戦後、経済は農業から製造業に移行していきます。主にオザーク(Ozarks)地方を拠点とする鉛の生産では全米トップとなっています。

ミズーリは、合衆国中西部のミシシッピ川沿いの内陸にあります。8つの州にまたがるところでもあります。州都はジェファーソン・シティ(Jefferson City)。同州を代表する都市はなんといってもセントルイス(St. Louis)です。ミシシッピ川に面するこの町は、開拓時代より西部への玄関口として発展し、現在では中西部きっての観光地となっています。ミズーリ州出身の小説家にマーク・トウェイン(Mark Twain)がいます。『トム・ソーヤーの冒険』(The Adventures of Tom Sawyer)の著者として知られ、数多くの小説やエッセーを発表します。当時最も人気のある著名人の一人で、ユーモアと社会風刺に富んだ作品で知られています。

Mark Twain

ミズーリ州の発展は人や物の流通、電力の供給をささえているミズーリ川(Missouri River)にあります。その流域面積はアメリカ合衆国本土のおよそ6分の1に達する規模です。20世紀には上流に洪水防止、灌漑、水力発電用のダムがいくつもつくられます。フランクリン・ルーズベルト(Franklin Roosevelt)大統領が1944年洪水調整法(Flood Control Act of 1944)に署名した後、ミズーリ川を北アメリカ最大の貯水システムに変えたのです。

ミズーリ州は、大理石の生産で知られています。その他、鉛、石炭、採石が生産されています。ミズーリ川とミシシッピ川(Mississippi River)がこうした資源を運ぶ大動脈となっています。川には大小多くのバージ(barge)と呼ばれる運搬船が往来しています。ミズーリ川はミシシッピ川の最長の支流であり、北米で2番目に長い川です。この川は、モンタナ州南西部のロッキー山脈(Rocky Mountains)地域にある、海抜約1,200メートルのジェファソン川(Jefferson)、マディソン川(Madison)、ガラティン川(Gallatin)の合流点によって形成されています。ミズーリ州本土の総コースは3,726kmです。ミズーリ州とレッドロック川 (Red Rock River)水系の全長は約 4,090 kmで、アメリカで3番目に長い水系です。この川は カンザス州カンザスシティ(Kansas City)で川は再び東に向きを変え、ミズーリ州中西部を東に蛇行してセントルイスの北約16kmでミシシッピ川に合流します。

Missouri River

セントルイス市内には「Gateway Arch」アーチがそびえています。頂上からの眺めは、ミシシッピ川をはさんで360度の景色が楽しめます。ここには、Gateway Archが建設される様子の資料が展示されています。あの壮麗なアーチが出来上がる様をつぶさに映像で説明しています。ミズーリの主要産業は、航空宇宙産業、輸送設備、食品加工、化学工業、印刷/出版、電気設備、製造業など多彩です。農業生産品は、牛肉、大豆、豚肉、乳製品、干し草、トウモロコシ、ニワトリなどの家禽、及び 鶏卵です。特に豚や牛の生産が盛んです。近年はワイン産業の育成にも州は力を入れています。

第33代大統領のハリー・トルーマン(Harry S. Truman)はミズーリ出身です。民主党ではめだたない政治家でしたが、党内のニューディール派と保守派の妥協によってフランクリン・ルーズヴェルト大統領(Franklin Roosevelt)の副大統領に選出されます。ルーズヴェルトの死去により大統領になります。トルーマンは、ポツダム宣言発表前の7月25日に既に原爆投下を命令し、戦後は共産主義者摘発の「赤狩り」と呼ばれたマッカーシズム(McCarthyism)を黙認します。

Gateway Arch

面白い話題がミズーリ州にはあります。それはアルコールやタバコの生産にまつわることです。ミズーリは他の州に比べて、アルコールやタバコの規制が緩やかなことです。例えば、未成年の子どもに保護者が酒をのませることを認めたり、21歳以上であれば道端でプラスチックのカップなどで酒を飲むことができるなどです。禁煙運動が盛んな国としては、大変珍しいことです。バドワイザー(Budweiser)を製造するアンハウザー・ブッシュ(Anheuser-Busch)の本社もここにあります。

USS Missouri

ミズーリの高等教育機関といえば、セントルイスにあるワシントン大学(Washington University in St. Louis)を挙げなければなりません。ワシントン大学というと、ワシントンD.C.にある大学とかシアトルにあるワシントン大学(University of Washington)だと誤解されがちですが違います。セントルイスにあるのです。特に医科大学院は業績において世界的な知名度を誇り、中規模な大学にもかかわらず22名のノーベル賞受賞者を輩出しています。

ナンバープレートから見えるアメリカの州ミシガン州・Great Lake State

注目

ミシガン州(Michigan)のナンバープレートには「Great Lake State」と印字されています。自然豊かなという意味の「Pure Michigan」もあります。五大湖を指しています。その名の由来は、オジブエ語(Ojibwe)のガリシア語化(gallicized variant)した変化形から由来し「大きな水」または「大きな湖」を意味するようです。「水と冬の驚きの地」(Water-Winter Wonderland)とか「 五大湖の素晴らしさ」(Great Lake Splendor)というフレーズもナンバープレートに見受けられます。

License Plate of Michigan

ミシガンは北はカナダと国境を接しスペリオル湖(Lake Superior)、ヒューロン湖(Lake Huron)を抱え、西はウィスコンシン州、南はインディアナ州とオハイオ州に接しています。州都はランシング(Lansing)で最大の都市はご存じデトロイト(Detroit)です。デトロイト国際空港は6本の滑走路を有し、デルタ航空(Delta Airlines)及びスピリット航空(Spirit Airlines)などの一大ハブ空港となっています。

Map of Michigan

ヨーロッパ人入植者が到着する前、ミシガン州にはいくつかの先住民族が住んでいて、そのほとんどがアルゴンキン語族(Algonquian)でした。先住民の大多数は湖岸近くに住み、水路を利用して移動していました。南部のポタワトミ族(Potawatomi)とオタワ族(Ottawa)は主に農民で、トウモロコシ、タバコ、ヒマワリ、カボチャを栽培し、周囲の森林から農産物も収穫していました。これらの南部の人々は比較的定住していました。対照的に、寒冷な北部に広く点在するオジブワ族は、狩猟と漁業の生計を立てて季節ごとに移動しました。1622年にエティネ・ブルーレ(Etienne Brule)というフランス人探検家がやってきて、その後宣教師や毛皮商人らが入植し、1668年にスーサント・マリー(Sault Sainte Marie)、1701年にデトロイトを建設します。

ヨーロッパ系ミシガン州の初期入植者のほとんどは、1830年代に一般に「ミシガン熱」(Michigan Fever)と呼ばれる移民の波の一環として、この地域にやって来ます。入植者の多くはエリー運河(Erie Canal)を経由してニューヨーク州(New York)からやって来ました。1850年までに、ニューヨークからの移民がミシガン州の人口の約3分の1を占めるようになります。1820年から1834年の間に、ミシガン準州の人口は10倍に増加しました。

初期の非英語圏移民の中で最も多かったのはドイツ人(Germans)です。デトロイトには1830年代半ばまでにかなりのドイツ人コミュニティが形成され、1850年までにいくつかの農村地域も形成されました。アイルランド人(Irish)の農民はミシガン州南部に見られ、1860年までにはアッパー半島(Upper Peninsula)にも見られましたが、大規模なアイルランド人人口は基本的に都市部で占めていました。オランダ(Holland)の影響は、1847年にオランダ人(Dutch)入植者が開拓に成功したオランダとゼーラント(Zeeland)周辺の西部の郡に今もはっきりと残っているといわれます。

フィンランド人(Finnish)、アイルランド人(Irish)、コーンウォール人(Cornish)はアッパー半島の経済的および文化的生活において重要な存在であり、そこでは多くが鉱山労働者として働いていました。初期のポーランド人(Polish)移民は1890年代まで農村部に定住し、1890年代には多数のポーランド人がデトロイトに集中しました。現在、この都市の人口にはポーランド系の人々が多く含まれています。最近では、ヒスパニック、アジア人、中東からの移民がミシガン州の民族混合に貢献しています。この州にはシリア人(Syrians)、レバノン人(Lebanese)、イラク人(Iraqis)、パレスチナ人(Palestinians)、ヨルダン人(Jordanians)、イエメン人(Yemenis)などが含まれる中東系の人々が住む国内最大規模の州の一つとなっています。彼らはディアボーン(Dearborn)付近に集中しています。

Michigan Foods

フレンチ・インディアン戦争(French and Indian War)後の1763年にイギリスがミシガン州を支配し、1783年にアメリカに返還されます。1787年にはノースウエスト準州(Northwest Territory)に、1800年にはインディアナ準州(Indiana Territory)に含まれていきます。1805年にロウアー半島(Lower Peninsula)にミシガン準州が編成されます。1812年の戦争でイギリスに降伏したのですが、1813年にオリバー・ペリー(Oliver Perry)がエリー湖の戦い(Battle of Lake Erie)で勝利したことによりアメリカの支配が回復します。

20世紀初頭以降の最も重要な人口現象は、アフリカ系アメリカ人コミュニティの成長で、これは主に南部のアフリカ系アメリカ人の田舎から北部の都市部への大移動の結果です。1900年には16,000人未満でしたが、 21世紀初頭までに100万人をはるかに超えていきます。ミシガン州のアフリカ系アメリカ人住民のおよそ半数がデトロイトに住んでおり、人口の5分の4以上を占めています。また、フリント(Flint)やサギノー(Saginaw)の古い地区や中心市街地には、大規模なアフリカ系アメリカ人コミュニティがあります。

ミシガン州の宗教の歴史は、初期にローマ・カトリックが優勢であったという点で、中西部の他の多くの州とは多少異なります。デトロイトへの最初のヨーロッパ人入植者はフランス人のローマ・カトリック教徒であったため、19世紀にアイルランド人、イタリア人、ポーランド人が大規模に移民する前から、その信仰を持つ多くの移民がこの街に惹き付けられました。デトロイトは1833年に教区となり、1937 年に大司教区となりました。その他の教区はマーケット(Marquette)、グランドラピッズ(Grand Rapids)、ランシング(Lansing)、サギノー(Saginaw)、ゲイロード(Gaylord)、カラマズー(Kalamazoo)にも設立されました。

Mackinac Island

プロテスタントの宗派のうち、ルーテル派にはドイツ人やスカンジナビア人の信者が多く、メソジスト派はミシガン州の地方と都市部の両方で定住します。最初のオランダ人入植者は、オランダ国教会に反対するキリスト教改革派教会の会員でした。ミシガン州の改革派の会衆は、分離元のオランダ教会からはっきりと独立し、その状態は今も続けています。長老派教会、バプテスト派、聖公会教会員も多数います。ミシガン州には全体としては数多くのプロテスタント宗派があり、中には信徒数が少ない宗派もあります。

ミシガン州への最初のユダヤ人(Jewish)移民はドイツ系でした。1851年にデトロイトのユダヤ人がシナゴーグ(synagogue)と呼ばれる会堂を設立しました。 州内のシナゴーグにはあらゆる形態のユダヤ教が反映されています。州のアラブ人(Arab)人口の一部はイスラム教徒(Muslim)であり、そのほとんどがイスラム教シーア派(Shiite)を信奉しています。しかし、デトロイト地域では大部分がアラブ系カトリック教徒の数がアラブ系イスラム教徒(Arab Muslims)の数を上回っています。

話題はミシガン州の領土に関わることです。トレド戦争(Toledo War)として知られるオハイオ州との境界紛争は、アンドリュー・ジャクソン(Andrew Jackson)大統領によって解決され、ミシガン州はアッパー半島(Upper Peninsula)を獲得し、その補償として州としての地位を得ます。そして1837年には合衆国26番目の州となります。南北戦争では北軍(Union)に大きく貢献します。

20世紀には自動車産業が州の経済を支配していきます。ミシガンは自動車工業発祥の州として知られています。その中心はなんといってもデトロイトでしょう。「自動車の街」とも呼ばれています。デトロイトとは、フランス語で「水道」を意味する「ル・デトロワ(Le Detroit)」に由来します。五大湖のうちの4つに囲まれるという地の利が自動車産業を支えてきました。ゼネラルモーターズ(GM)、フォード(Ford)、クライスラー(Chrysler)のビッグスリーの本社がデトロイトとその近郊にあります。

その他の産業も盛んです。アムウェイ(Amway)、穀物のケロッグ(Kellogg)、ダウケミカル(Dow Chemical)、ワールプール(Whirlpool)などの本社もここにあります。しかし、デトロイトのダウンタウン周辺の空洞化は続いていて、駐車場や空地、全くテナントのいない高層ビルも存在しています。富裕層は郊外に移住して貧賤な層が取り残され、治安の改善もあまり進んでいないのが今のデトロイトです。

ミシガンは一大レクリエーションの州でもあるのをご存じでしょうか。2005年の統計によるとミシガンはカリフォルニア、フロリダに続き全米で第三番目の観光客を集めた州といわれるほど自然に恵まれたところです。6,500の湖や沼が広がるというのですから、レクリエーション客を惹き付ける理由もうなずけます。4つの湖の側はどこも州立公園や観光地といってよいほどです。いくつかを紹介しましょう。

カナダの国境近くにはマキナック島(Mackinac Island)があります。夏はキャンプ、リゾート、なんでも楽しめます。この島は車禁止。移動手段は「リムジン馬車」か自転車となっています。コロニアルスタイルの建物が並びます。生ガキとキャビア、魚料理の食事もいいです。のんびりと時間が流れるようなところです。ムーリイ岬(Pointe Mouillee )はエリー湖に突き出す砂州のようなところで、世界最大の干潟プロジェクトによる自然保護地区となっています。ミシガンはどこを走っても州立公園でキャンプを楽しめます。広さと清潔さ、そして安全さは多くのリクリエーション客を呼び寄せています。この州にきましたら是非テント持参の野外旅行をお勧めします。ミシガンといえば五大湖といってよいでしょう。

University of Michigan

高等教育機関ですが、研究開発はミシガン大学(University of Michigan)、ミシガン州立大学(Michigan State University)、ウエイン州立大学(Wayne State University)、セントラル・ミシガン大学(Central Michigan University)、ウエスタン・ミシガン大学(Western Michigan University)が担っています。
(投稿日時 2024年4月8日)

ペンシルベニア州アーミッシュ

注目

アメリカ合衆国の特徴といえば、多様性(diversity)という言葉がぴたりと当てはまります。人種、性別、思想、言語、宗教、そして文化のどれにおいても多様な位相を示しています。多様性の語源としては、ラテン語の「divertere」「異なる方向に向ける」から由来すると言われます。多様性の一例が世俗から距離を置く人々の群れです。ペンシルベニア州のランカスター郡(Lancaster)には、アメリカで最も多くの「アーミッシュ」(Amish)の人々が暮らしています。アーミッシュとは、スイス系ドイツ人およびアルザス人 (Alsatian)を起源とする伝統主義的なアナバプテスト派(Anabaptist Christian)キリスト教会のグループです。彼らは、質素な生活、平服、キリスト教平和主義、現代技術の多くの便利さを取り入れることを返上することで知られています。アーミッシュは田舎暮らし、倹約、肉体労働、謙遜、ゲラッセンハイト(Gelassenheit)という神の意志への服従を重んじる人々の一団です。

アーミッシュの日常生活と習慣は、オードヌング(Ordnung)と呼ばれる暗黙の行動規範によって支配されていて、メイドゥン (Meidung)という、コミュニティが回避しなければならない規律を守っています。宗教的な教えにおいては、アーミッシュはメノナイト(Mennonites)とほとんど変わりません。聖餐式(holy communion)は年に2回行われ、信徒同士で足を洗うことで謙遜を覚える洗足式(foot washing)を実践しています。メノナイトとはアーミッシュやクエーカーと共に歴史的平和教会の一つに数えられ、非暴力、暴力を使わない抵抗と融和および平和主義を掲げるキリスト教宗派です。ボランティア活動に強い宗教的な重要性を置いてもいます。

アーミッシュは17歳から20歳くらいで教会で洗礼を受け正式な信徒として認められ、ます。宗教礼拝は「高地ドイツ語」(High German)で行われ、家庭では高地ドイツ語、ドイツのさまざまな方言、英語が混ざったペンシルベニア・ダッチ語(Pennsylvania Dutch)が話されており、日常会話でもよく使われています。高地ドイツ語とは、ドイツ語の方言を二分した場合の一つで、ドイツ南部の高地などで話され、現在の標準ドイツ語は高地ドイツ語に基づいています。

Buggy


礼拝は家庭や納屋で交代交代で行われます。納屋での礼拝ではベンチが並べられ、その後の食事用の食器や食材を満載した大きなワゴンが礼拝の会場に運ばれてきます。ほとんどのアーミッシュの家庭では、「殉教者の鏡」(Martyr’s Mirror)と呼ばれる聖書を置く特別な場所が作られています。日本の家庭でいえば床の間のような所です。「殉教者の鏡」は、アーミッシュの歴史を記録し、信仰のために命を捧げた多くのアーミッシュ、メノナイト、再洗礼派(Anabaptist)の先祖を讃える本です。アーミッシュとメノナイトのコミュニティにサービスを情報を提供している「バジェット」(The Budget)という60ページ位の週刊誌があります。1890年に創刊され、毎号2万部が発行されています。この新聞はオハイオ州のシュガークリーク(Sugarcreek)という町で出版されています。

アーミッシュは、そのほとんどが自作の私服を身につけ、独自のライフスタイル貫いています。男性と少年は、つばの広い黒い帽子、濃い色のスーツ、襟のないストレートカットのコート、幅広のズボン、サスペンダー、無地のシャツ、黒い靴下と靴を着用します。男性は結婚するとひげを生やしますが、口ひげを生やすことは禁止されています。アーミッシュの中でも、規律や伝統を厳格に守る保守派といわれる「オールド・オーダー・アーミッシュ」(Old Order Amish)の女性と少女は、ボンネット、肩にケープが付いた長い正装、ショール、黒い靴とストッキングを着用します。アーミッシュの女性は髪を切らず、後ろで束ねて、どんな種類の宝石も着用することを禁じられています。アーミッシュの服装は基本的に17 世紀のヨーロッパの農民の服装といわれています。社会の変化を嫌がり伝統を尊重し、世俗の変化に流されないという聖書の解釈を大事にするからだといわれます。

Horse Buggy

「オールド・オーダー・アーミッシュ」は自宅に電話をつけませんが、時折共同電話を使用します。彼らは自動車も使いません。代わりに自転車に乗ったり、バギー(buggy)という馬車を使ったりします。彼らの多くは緊急時には、会社が運行する車、電車、バスに乗ります。バギーは伝統的な箱のような乗り物ですが、必ずしも黒色であるわけではありません。それらの中には白、灰色、さらには黄色のものもあり、バギーの色によってどのアーミッシュやメノナイトのグループなのかが分かります。

バギーには、ヒーター、ワイパー、布張りのシートなどが装備されている場合もあります。しかし、電気は世俗との主要なつながりであり、地域社会や家族生活に有害な誘惑や世俗的な快適さをもたらす可能性があるとして、その使用を強く禁止しています。この禁止の例外としては、法律で点滅灯の設置が決められているとか、コミュニティの経済的生活が脅かされる特定の農機具が含まれています。たとえば、特定の搾乳設備は電気がなければ動作できないこと、電気柵は牛を飼育するために不可欠であると考えられる場合などです。ガスは、バーベキューグリルなどの機器の操作に使用され、ガス圧のランタンやランプは屋内照明に使用される場合もあります。「ニュー・オーダーアーミッシュ」(New Order Amish)と呼ばれる比較的進歩的な人々は、家庭内での電気の使用、車の所有、電話、コンピュータの使用が許されています。

Quilt

アーミッシュは優秀な農民と認められています。食料の大部分を栽培して保管し、店で購入するのは小麦粉や砂糖などの主食のみです。「オールド・オーダー・アーミッシュ」は、最新の農機具のほとんどを使用することを拒否し、現代の便利なものを使うのではなく額に汗して働くことを旨としています。彼らが使用する最新の機械は、多くの場合は電気ではなく、代替電源によって動作します。

アーミッシュは、隣人が総出で手伝う(barn raisings)棟上げ作業を大事にします。 こうした納屋造りの協力的な作業では、男性だけでなく食事を提供する多くの女性も参加します。 棟上げ作業は、アーミッシュの伝統、コミュニティ、産業、工芸を示す例です。納屋を飾るのに使うのが六角形の標識(hex signs) です。これは悪を追い払うために描かれた丸い幾何学模様の紋章(geometric emblems)で、「ペンシルベニア・ダッチ」(Pennsylvania Dutch)の農業コミュニティを表象するものとなっています。「ペンシルベニア・ダッチ」とは、17世紀から18世紀にかけてドイツ語圏からアメリカ合衆国に移住した人々の子孫、いわゆるゲルマン系ドイツ系アメリカ人のことです。

Barn Raising

アーミッシュは通常、自分たちの生活様式の写真撮影をとることを許しますが、彫像を造ってはならないというモーセ(Moses)の十戒(Ten Commandments)にある第二戒(Second Commandment)に違反すると信じて、自分の顔写真を撮ることを禁止しています。同じ理由で、アーミッシュの若い女の子が遊ぶ人形には伝統的に顔がありません。楽器も「オールド・オーダー・アーミッシュ」によって禁止されています。楽器を演奏することは、アーミッシュの生き方の中心にある謙虚さ、形式ばらない精神からみると「世俗的な」行為になると彼らは考えているのです。

アーミッシュが信じている人生は、イエス・キリストを模範として示されるものです。 他のアーミッシュはアコーディオンやハーモニカなどの楽器を私的に演奏することはできますが、公の場では決して演奏しません。しかし、仕事でも遊びでも、家庭でも教会でも、歌うことはアーミッシュの生活にとって重要です。オースバンド(Ausband)と呼ばれる彼らの賛美歌からの抜粋が一般的に歌われています。グループでの歌唱は常にユニゾンであり、決して合唱することはありません。賛美歌を歌うことは日曜の夜、特に若いアーミッシュの間で人気があり、その際には「薄い本」(thin book)と呼ばれる別のテンポの速い賛美歌が歌われます。

Amish Women and Children


アーミッシュの少女や女性のグループが丁寧に縫い上げたキルト(quilts)は観光客に人気があり、コレクターからも高く評価されています。ミツバチの巣のデザインをしたキルト作りはアーミッシュの女性にとって社交とリラクゼーションの一形態といわれます。グループでの作業はコミュニティと協力というアーミッシュの美徳を反映しています。キルトはカラフルな模様を使った複雑なデザインにすることができるのですが、派手で誇り高いと考えられる表現的なパタンがない場合もあります。キルトや六角形をしたヘックスサインなどの手作り工芸品、パンやパンの中身と糖みつを混ぜて詰めた「パイシューフライパイ」(shoofly pie)などの有名な焼き菓子やパンの販売は、アーミッシュの家族の一般的な収入源です。エリザベス・コブレンツ(Elizabeth Coblenz)という女性料理研究家のアーミッシュレシピは何百もの新聞に掲載され、彼女の料理本は国際的に知られています。

アーミッシュの子どもたちは通常、コミュニティが運営するワンルームの学校に8年通います。8年間の就学は1972 年の連邦最高裁判所(U.S. Supreme Court)の判決によって認められました。教師は女性で英語で行われ、読み書き、数学の基礎に重点を置いています。アーミッシュの歴史、農業や家事の実践的なスキルも教えられます。プロテスタントの分離主義派の信徒は他の宗派へ移りがちなのです。同様にアーミッシュの子どもたちを信仰共同体に留まるよう説得するのはしばしば困難なようです。若い男性がメノナイト教会や他のあまり厳格ではない教会に移ると、アーミッシュはよく「髪を切った」“He got his hair cut.”と言います。若者が信仰を完全に放棄すると、その人は「イギリスに行った」“He went English.”と言われます。アーミッシュの若者の中には、教会に献身する決断をする前に、「ラムスプリンガ」(rumspringa)と呼ばれる通過儀礼に参加する人もいます。この期間中、彼らは行動に対する制限が少なく、オルドナングの対象にはなりません。ほとんどの若者は最終的には洗礼を受けることを選択します。

Softball


アーミッシュは控えめで謙遜な生活態度を大事にしていますが、皆で娯楽やゲームを楽しむことは妨げられてはいません。バレーボールとソフトボールは多くのアーミッシュの家族に人気があります。こうしたスポーツは、純粋に楽しみのために行われており、試合ではありません。花畑作りも許されています。 一日の仕事が終わり、子どもたちの学校の勉強がすむと、アーミッシュの家族は一緒に本を読んだり歌ったりして、翌日の家事に備えて早めに就寝するといわれます。

アーミッシュは州や国家の政治には関与せず、平和主義者として兵役にも参加しません。いわゆる「良心的兵役拒否」 (conscientious objection)です。信仰上の理由や広く思想的・政治的な信条から、兵役につくことや兵役に応じても戦闘業務につくことを拒否することです。彼らはまた、社会保障やほとんどの種類の保険を否認し、困っているアーミッシュの家族を助けるために互いに資金を出しあっています。医師、歯科医、眼鏡店に通うこともあります。アーミッシュは質素で穏やかな方法で共同体を維持し、できるだけ社会からの独立を維持しようとしています。こうした世俗から超越した生活態度の人種は世界的に稀なようです。
(投稿日時 2024年4月4日)

ナンバープレートから見えるアメリカの州ペンシルベニア州・Keystone State

注目

ペンシルベニア州(Pennsylvania)は合衆国の北東部の州と南部の州、大西洋岸と中西部を結ぶ地点にあることから、キーストーン・ステート(Keystone State)「礎石の州」とも呼ばれます。これがナンバープレートに印字されています。その他、「自然を護れ」(Conserve Wild Resources) 、「友達がいる」(You’ve got a Friend in)というフレーズのもあります。

License Plate of Pennsylvania

ペンシルベニア州の名前の由来から始めます。17世紀にヨーロッパ人がやってきたとき、この地域にはショーニー族(Shawnee)やデラウェア族(Delaware)などのインディアンが住んでいました。ペンシルベニア州は険しい地形のため、ヨーロッパ人の入植はゆっくりと進みました。

最初に人々はフィラデルフィア(Philadelphia)から西へ北へ移動していきます。入植地が西のペンシルベニア州中央部のリッジ・アンド・バレー(Ridge and Valley)地域に広がるまでには約80年かかったといわれます。州西部では、最初の入植者がヴァジニア州(Virginia)から到着し、ポトマック川(Potomac River)を経由して西に進み、モノンガヒラ川(Monongahela River)に沿って北上し、1750年代にピッツバーグ(Pittsburgh)に到着します。1840年頃に入植者は最後に残った未開発地域、つまり州の北中部の険しい地域に到達しました。こうして最初の開拓地が開発されるまでには、最初の入植から160年位かかります。

Amish in Piedmont

1664年にイギリス人がこの地域を掌握し、1681年にイギリス国王がウィリアム・ペン(William Penn)に勅許を与え、1682年に宗教的寛容に基づくクエーカー教徒(Quaker)がコロニー(colony)を設立します。コロニーとは植民地という意味です。ペンがアメリカに到着する前、ペンシルベニアには数人のスウェーデン人(Swedish)、オランダ人(Dutch)、フィンランド人(Finnish)が入植していました。ペンは宗教的寛容を説き、その実践と民主的な統治の在り方によって、他のグループがペンシルベニアに定住することを奨励します。ペンはクエーカーで、やがてペンシルベニア植民地総督を務め、後にフィラデルフィアを建設した政治家でもあります。フィラデルフィアという単語は、「philos」(愛する)と「adelphos」(兄弟)から生まれています。

William Penn

ドイツ人はペンシルベニア州に移住した最初の主要集団でありました。彼らのほとんどはプロテスタントであり、主流のルター派や(Lutheranism)、カルヴァン派(Calvinism)から、アーミッシュ(Amish)、メノナイト(Mennonite)、モラヴィア派(Moravians)、シュヴェンクフェルダー派 (Schwenkfelders)、ダンカー派(Dunkers)などのさまざまな敬虔な宗派に属していました。アメリカ独立戦争の頃までに、ペンシルベニア・ダッチ(Pennsylvania Dutch)、より正確にはペンシルベニア・ドイツ人(Pennsylvania Germans)として知られていたドイツ系グループが人口の3分の1を占めていました。

ペンシルベニアに定住した次に主要なグループは、北アイルランド(Northern Ireland)出身のスコッチ・アイリッシュ(Scotch-Irish)などの人々です。彼らは農地を探して西のピードモント州 (Piedmont)西部やリッジ・アンド・バレー(Ridge and Valley)地域にやってきました。革命の時点では、彼らは植民地の総人口の4分の1を占めていました。4番目の主要な移民グループであるアイルランド人(Irish)は、1840年代と50年代にアイルランドのジャガイモ飢饉 (Potato Famine)のために祖国からアメリカに渡ってきます。

Declaration of Independence

当初、イギリスのクエーカー教徒は、デラウェア渓谷(Delaware valley)を占拠する最も重要なグループでした。 フィラデルフィアは、近隣のチェスター郡(Chester)やバックス郡(Bucks)とともに、最初に繁栄した農業商業地域となります。フレンチ・インディアン戦争の戦いの多くはこの地で起こりました。第1回と第2回の大陸会議(Continental Congresses) はフィラデルフィアで開催され、1776年に独立宣言が署名されます。

ペンシルベニアは連邦の原初州の一つであり、1787年に合衆国憲法を批准した2番目の州でもあります。南北戦争中は軍事活動の中心地となりました。ペンシルベニアには豊かな森が広がります。ラテン語で森を意味する「sylvania」にPennをつけたというわけです。その後、ペンシルベニアは開拓されて植民地化されてはいましたが、ペンらはその地の自治を求めて自由憲章の草稿を書きいています。そしてイギリスからの独立を目指していきます。信教の自由、公正な裁判、主権を持つ人民により選ばれた代表、三権分立などの精神を訴えます。こうした考えは、その後のアメリカ合衆国憲法の基本となります。

産業革命は、ペンシルベニア州のダイナミックな経済の発展を促します。国内人口が必要な労働力を供給するのに不十分だったため、ペンシルベニア州にはイタリア人(Italian)、ポーランド人(Polish)、ロシア人(Russian)、ウクライナ人(Ukraine)、そしてバルカン地域(Balkan)から大規模な人々が定住していきます。こうして1890年から1900年にかけて州の人口は100万人以上に膨れあがります。この現象は主に鉱山地域や新しい産業の中心地へ人々が移住したことにもよります。20世紀になると、アフリカ系アメリカ人が南部から州に移住し始めます。彼らは現在、州の総人口の約10分の1を占めています。

Pittsburgh

戦後は経済、産業、人口が大きく成長し、商業大国としての地位を固めます。農業、鉱業、製造業、ハイテクを基盤とする経済で、最も繁栄した州のひとつです。州の特産品である鉄鋼の多くを生産し続け、石炭も豊富です。自由の鐘や独立記念館で有名なフィラデルフィアと重要な河港を持つピッツバーグは主要港であり、優れた教育、文化、音楽機関が存在しています。州都はハリスバーグ(Harrisburg)。エリー湖(Erie)やオンタリオ湖(Ontario)に面し、北はカナダとニューヨーク州に接し、東はニュージャージーにつながっています。形が横長の州です。

教育研究の中心は、カーネギーメロン大学(Carnegie Mellon University)やペンシルベニア州立大学(Pennsylvania State University)、ペンシルベニア大学(University of Pennsylvania)などです。日本でも人気のあるフィラデルフィア管弦楽団(Philadelphia Orchestra)はこの州にあります。

州のランカスター郡(Lancaster)には、アメリカ最大のアーミッシュ(Amish)の人々が暮らしています。アーミッシュは、スイス系ドイツ人およびアルザス人 (Alsatian)を起源とする伝統主義的なアナバプテスト派(Anabaptist Christian)キリスト教会のグループです。彼らは、質素な生活、平服、キリスト教平和主義、現代技術の多くの便利さを取り入れることを返上することで知られています。アーミッシュは田舎暮らし、倹約、肉体労働、謙遜、ゲラッセンハイト(Gelassenheit)という神の意志への服従を重んじるのです。

ほとんどのアーミッシュはペンシルベニア・ダッチ語を話します。「Dutch」とは古いドイツ語のことです。インディアナ州のスイス・アーミッシュはアレマン語の方言(Alemannic dialects)も話すといわれます。2023年現在、377,000人以上のオールド・アーミッシュ(Old Order Amish)がアメリカに、約6,000人がカナダに住んでいます。アーミッシュの教会グループは、非アーミッシュの世界からある程度分離された状態を維持しようとしています。一般的にアーミッシュから、アーミッシュ以外の人々は「英国人」と呼ばれ、外部からの影響はしばしば「世俗的」(worldly)として忌避しています。アーミッシュとペンシルベニアとの関わりは次回に紹介することとします。
(投稿日時 2024年4月2日)