ウィスコンシンで会った人々 その32 大学のシーラカンス

統計上の検定にはいろいろと思い出がある。大学にいた頃の話である。そのほとんどは、「どんな検定を使ったらよいですか?」という類である。実はこうした相談は一番困惑する。大学の教員にはさまざまな人がいて、院生や学生に修論や卒論の課題を出したりする。院生のほうから「これこれしかじかの研究をしたい」という申し出もある。筆者は、その研究課題をどうして選んだのか、誰かの役に立つのかを考えさせることにした。こちらが思いもよらない素晴らしい提案をする者もいる。例えば「筋ジストフィー児の自己効力感の向上」といったテーマである。

大学では、他の指導教官が筆者を指定して院生を修論の相談に来させることがあった。そんなときは、まんざらでもないという気分になる。自分の専門分野でない問いを院生が持ち込んできたときは、筆者も知り合いの他の教官に相談するのがよいと助言して送りだす。大学にはいろいろな専門分野の人間がいるので、院生はそうした資源を活用できる特典がある。だが中には、他の教官の指導や助言を避ける者もいる。閥があるからだ。院生の囲い込みのようなことをしていては、院生が不幸である。

大学はさまざまな専門性を持った者の集団である。古い者は辞めていき、新しい血が注がれる。新陳代謝が多いのが大学だ。だが、シーラカンス(coelacanth)のような者もときにはいる。長く勤めれば勤めるほど同じ出身大学の後輩が集まり大学での発言権が高まる。差配のような存在となる。そして名誉教授などという箔が貰える。このとき研究業績などは考慮されない。これが国立大学法人の特徴である。

大学に学閥があるというは、今も昔も変わらない。シーラカンスのようなものだ。これを打破しようと文科省は大学に特徴を持たせようと大学を競わせ、競争的研究費をあてがい、組織の統廃合を進めようとしている。閥に入れなかったからといって少々ひがむのであるが、大学の発展のためには交付金の配分にメリハリをつけ、組織にメスというカツを入れることは悪いことではないと考える一人である。

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