【話の泉ー笑い】 その三十九 「話の泉」 その4 司会者

放送番組に欠かせないのが司会者です。特にトーク番組はそうです。徳川夢声をはじめとする一癖も二癖もある文化人のレギュラー回答者たちを相手に絶妙な問答を繰り広げ、1946年から1964年の間にかけて、タレントとしての才能も高い人気地位を保ちます。

第1回の放送では徳川夢声が司会を担当します。出場者は、サトウハチロー、中野五郎、中野好夫、堀内敬三でした。徳川夢声はもとより自他共に認める鉄道ファンであり、「話の泉」での共演者からは「彼のモノ知りは非常に本格的なのである」と評されたようです。多くの著名人とのインタビューを通して博識が育まれたようです。司会者と回答者、丁々発止のやりとりが聴衆者に受け入れられます。ということは、この番組は「クイズそのものを楽しむ番組」ではなく「『クイズを出題し、回答したり、内容について話したりして楽しんでいる人』を楽しむ番組」だったとわれます。

中野好夫

徳川夢声は、最初は無声映画の弁士で知られるようになります。しかし、トーキー映画の登場により活弁の仕事が無くなると、ラジオやテレビの司会者・俳優・作家として活躍し、持ち前のユーモアと博識で人々に愛されます。特に吉川英治作「宮本武蔵」の朗読で国民的人気を得ます。

回答メンバーは、自他ともに「雑学」という知識の持ち主と自負?していたようです。「話の泉」のメンバーは諸事に詳しいことが要求されます。そこで「偏学」という用語も使われてきます。メンバーの人々自らもその知識は偏っていると認め、大学教授のようないわゆる学者バカを「偏学」というべきだ、と広言してやまないような文化人です。

堀内敬三


徳川夢声の後を引き継いだ司会者が和田信賢です。一癖も二癖もある文化人のレギュラー回答者たちを相手に絶妙な問答を繰り広げ、タレントとしての才能も高い人気アナウンサーの地位を高め、司会者としての人気は絶頂期を迎えます。後に不世出の名アナウンサーと呼ばれるほどでした。その後は高橋圭三らが担当します。 回答者には、堀内敬三、サトウ・ハチロー、徳川夢声、渡辺紳一郎、山本嘉次郎、大田黒元雄、春山行夫といった当時の知識人・著名人たちです。彼らの当意即妙のユーモアを加えるところに、その知性の高さを聴衆者に感じさせたものです。

懐かしのキネマ その13 無声映画と有声映画

映画フアンには「トーキー」(talkie)という言葉は懐かしいのではないでしょうか。トーキーとは映像と音声が同期したものです。「talkie」はもともと「Talking picture」から生まれています。その後「Moving picture」という用語が使われ、そこから「movie」となります。

昔の映画はサイレント映画でした。無声映画です。その対義語は有声映画とか「発声映画」といわれました。映画のはしりは、1900年代にパリで始まります。1920年代の後半に無声映画が誕生します。1928年に「サウンドトラック」を最初に用いたのがウォルト・ディズニー(Walt Disney)です。1930年代になるとロサンジェルス(Los Angels)のハリウッド(Hollywood)が映画文化の中心となり、「トーキー」が一役を買います。

日本では、活動弁士が無声映画に語りを添える上映形態が主流でした。楽士の奏でる生演奏の音楽とともに独自の“語り”で作品を盛り立てました。活動弁士は通称「カツベン」と呼ばれていました。そのためか「トーキー」が根付くには時間がかかったといわれます。作家や俳優であった徳川夢声は1913年に活動写真(無声映画)の弁士となったようです。東京を代表する弁士として人気を博します。しかし、昭和の時代になって、トーキーが登場すると夢声ら弁士の出番はなくなり、やがてラジオで活躍します。吉川英治の『宮本武蔵』の朗読などで有名となり、テレビ創成期の立役者の一人となります。