アメリカ合衆国建国の歴史 その45 不平等な扱いとボストン虐殺事件

両陣営の立場は、使用される言葉にも表れています。つまり議会主権の原則は、父権的な言葉で表現され、イギリス人は自分たちを親とし、植民地の人々を子どもと呼びました。社会の安定のためにイギリス議会の言い分を受け入れる植民地の保守主義派(Tories)も、このような用語を使いました。こうした観点から、子どもが親に反抗するのが不自然であるように、植民地の不服従は不自然なのであるという主張でした。これに対して植民地主義者たちは、権利という言葉で反論しました。彼らは、イギリス議会は植民地においては、イギリスでできないことは植民地でも何もできないのだと考えました。なぜなら、アメリカ人はイギリス人のすべての慣習法上の権利によって保護されているからであると主張します。植民地で開かれた1774年9月の第一回議会では、その最初の行動の一つとして、植民地にはイギリスの慣習法を適用する権利があることを確認しました。

Boston Massacre

ヴァジニア州のリチャード・ブランド(Richard Bland)は、1764年に発表した『罷免された大佐(Colonel Dismounted)』の中で、権利とは平等であると主張しました。彼は、植民地時代の不満の根源に言及しています。アメリカ人は不平等な扱いを受けており、それに憤慨しているだけでなく、自分たちの事案を自分たちで処理できなくなることを恐れていました。植民地の人々は、1761年にボストンで援助令状(writs of assistance)(基本的には一般捜査令状)が敷かれたことに法的不平等を感じます。というのはイギリスでは2つの有名な事件において「一般捜査令状」が非合法とされたからでした。タウンゼントは、1767年に植民地における援助令状を明確に合法化します。ディキンソン(Dickinson)は「農民からの手紙 (Letters from a Farmer)」の中でこの問題を取り上げています。

Boston Massacre Memorial

1770年初頭、ノース公爵(Lord North)が首相に就任すると、ジョージ3世(George III)はついに、自分と議会の双方に働きかけることのできる大臣を見つけます。それ以来、イギリス政府は安定を取り戻し始めます。1770年、アメリカの不輸入政策に直面し、タウンゼント関税(Townshend tariffs)は、象徴的な理由で残されていた紅茶税を除き、すべて撤廃されます。ニューイングランドの海岸線では、税関職員が地元の陪審員の支持を得られず、植民地人が反抗する事件が頻発しますが、比較的平穏な状態が戻ります。これらの事件は他の植民地からの共感は得られませんでしたが、ボストンに駐留するイギリス正規軍の増員を要求するほど深刻でした。最も激しい衝突は、タウンゼント税が廃止される直前にボストンで起こります。暴徒の嫌がらせに脅かされたイギリスの小隊が発砲し、5人を殺害した事件は、まもなく「ボストン虐殺事件(Boston Massacre)」として知られるようになります。兵士たちは殺人の罪に問われ、市民裁判にかけられますが、ジョン・アダムス(John Adams)が被告の弁護を担当し、上手に納めていきます。