フランス・インディアン戦争の後、イギリス政府は、いっそう中央集権的な支配を強め、帝国全体の経費を、より公平に分散させようとします。そしてフランス系カナダ人と北米先住民の利害を考慮するような、新たな帝国の仕組みの必要性を感じていました。一方、長年にわたり高度の独立に慣れていた植民地は、自由の抑制ではなく、自由の拡大を期待していきます。また、フランスの脅威がなくなったため、植民地側は、イギリスの強力な存在は必要でなくなると考えます。こうして自治に熟達し干渉を嫌う植民地人とイギリスは対立することになります。
カナダとオハイオバレー(Ohio Valley) を治めていくために、イギリスにはフランス人と先住民族を疎外しないような政策が必要となります。しかし、イギリス政府と植民地の利害は根本的に対立し、人口が急増し、定住するための新たな土地を必要としていた植民地側は、西のミシシッピ川まで境界線を拡大する権利をイギリスに対して主張していきます。他方、部族との一連の戦争を恐れたイギリスは、もっと漸進的に土地を開拓するべきだと考えます。また、入植者の移動を制限することは、新しい植民地が形成される前に、既存の植民地に対する英国王の支配を確保する1つの手段でもありました。
1763年のイギリス国王ジョージ3世(George III)の名で発布した「国王布告」 (Royal Proclamation)により、合衆国とカナダの東部に連なる長大なアパラチア山脈の一部、アレゲーニー山脈(Allegheny Mountains)からフロリダ、ミシシッピ川、ケベックの間にまたがる西部のすべての領土が、先住民のために確保されます。これによってイギリス政府は、13の植民地による西部領土の所有請求を無効とし、西方への拡張を阻止しようとします。このイギリスの措置が、効果的に執行されることはありませんでしたが、入植者にとっては、西部の土地を占有し定住する基本的な権利を無視した高圧的な対応にほかなりませんでした。