印紙税法は植民地の経済活動の重要な部分を攻撃し、貿易取引に影響を与えます。また、植民地で最も明晰で影響力のある弁護士、ジャーナリスト、銀行家の多くに影響を与えます。さらに、イギリス議会が植民地に対して直接賦課した最初の「内国税」でありました。それまでの植民地税は、地方自治体が徴収したり、「外的」輸入税であったので、歳入を増やすというよりも、イギリス帝国全体の利益のために貿易を規制することを主な目的としていたと考えられました。
しかし、こうした印紙税法は暴動を引き起こします。イギリスも植民地もこうした騒ぎなるとは誰も予想していませんでした。ボストンなどの町では暴動が起き、任命された切手販売人は職を辞することを余儀なくされ、合法的な取引はほとんど停止してしまいます。1765年夏、いくつかの植民地はニューヨークの会議に代表団を送ります。そこで印紙税は、選ばれた代表を通じてのみ課税されるというイギリス人の権利を侵害するものとして非難され、あわせてイギリス製品の禁輸措置という提案が採択された。
イギリス内閣の交代は、課税政策の変更を促します。イギリス議会は植民地の無法状態を怒りを表すのですが、イギリス商人はイギリスの輸入の禁止を懸念していまた。グレンヴィルの後を継いだロッキンガム侯爵(marquis of Rockingham)は、植民地の抗議に同調するためではなく、国内の理由から印紙税を廃止するように説得し、1766年に廃止が可決されます。しかし同日、議会は宣言法(Declaratory Act)も可決します。宣言法は、議会が「いかなる場合においても植民地を拘束し、立法する権限を有する」と宣言したのです。