ヨーロッパの小国の旅 その六 エストニアの魅力

バルト三国のうちの一つエストニア。首都タリンは、中世の面影を現在まで残すヨーロッパ内でも珍しい街です。領土は九州位の大きさでありながら、意外な特徴があることを紹介しましょう。

まずはオンラインサービスが行き届いたサイバー先進国であることです。Skypeの発祥地であるエストニアはITの利用が極めて盛んです。電子政府先進国といわれ、行政サービスの99%をオンラインで手続きでき、国民がネットで納税しています。多くの人々がオンラインで投票するのです。サイバー先進国の話題は次回で紹介します。

次ぎに、エストニア人の多くが英語を話すことです。母国語を英語としない国のランキングでなんと第4位です。第1位はスェーデン、次ぎにノールウェイ、オランダと続きます。国民の英語のレベルが高いのはこの国の強みの一つといえます。このようには人々は当たり前の様にバイリンガルです。3ヵ国語も4ヵ国語も喋れる人が珍しくありません。スェーデン語、ロシア語を操るのです。

元大関の把瑠都氏が国会議員に

さらにEUの中では物価が安いといわれます。それは人件費が安いことも関連しています。治安が良く、行政や警察とか軍隊に多額の予算をかけていないこともあります。オンラインサービスのお陰で人手が少なくて済むのです。街並みが綺麗で治安が良いのですから観光客も多くなります。国民の物静かな人柄や親しみやすい性格も特徴といわれます。EU加盟国なので通貨はユーロです。他のEU加盟国との行き来が自由です。日本国内のように容易に隣国まで行けるので行動範囲が広がります。観光客からエストニアが人気がある理由です。

ヨーロッパの小国の旅 その五 タリンの街ーヴィル門

エストニアの首都タリンの旧市街への入り口となっているのがヴィル門(Viru Gate)です。2つの石の塔からなるヴィル門は14世紀に建てられたとあります。昔タリンを外部からの攻撃に備えて建てられたものです。門を入ると石畳が敷かれた中世の街並みとなり、今は民芸店やレストランが立ち並びます。

ヴィル門

さらにタリンの街を歩くと赤いとんがり帽子のような塔が見えてきます。中世はこんな時代なのかという感覚に襲われるくらいです。旧市街は13世紀後半から城壁が作られ、現在でもそれに囲まれています。幾たびの戦禍を免れてきたのはこの城壁のおかげといわれます。その城壁には20ほどの見張りとなった塔が建っていますが、特に旧市街西側は保存状態が良いので「塔の広場」と呼ばれています。

The Old City walls, Old Town, Tallinn, Estonia, Europe

「ラエコヤ広場」(Raekoja Plats)は、旧市庁舎の前の広場で、旧市街の中心スポットとなっています。今は、周りにレストランやカフェが立ち並び、市民の憩いの場となっています。フェスティバルやクリスマス時にはマーケットが開かれます。中世当時、広場は祝いの場だけではなく、市民集会が開かれ、裁判も行われ処刑の場となり、贖罪の礼拝が執り行われた歴史があります。聖と俗が一体となった空間が広場というわけです。

ラエコヤ広場

ヨーロッパの小国の旅 その四 タリンの街ーアレクサンドル・ネフスキー大聖堂

私が娘と首都タリン(Tallinn)を訪ねたのは1997年です。ヘルシンキからフェリーでタリンに着きました。旧市街は中世期のたたずまいです。塀や建物の壁には銃弾の跡が残っています。これは第二次大戦の銃撃戦の跡です。独立して6年後のことですから、街全体は復興中でした。看板には盛んに外国からの投資に期待するスローガンが見られました。

タリンの旧市街への門

タリンで見だつものをいくつか紹介しましょう。小高い丘の上に建つドームの建物は、東方正教会「アレクサンドル・ネフスキー大聖堂」(Alexander Nevsky Cathedral)です。アレクサンドル・ネフスキー(Alexander Nevsky)は中世ロシアの英雄として讃えられている人で正教会で列聖され、正教会の聖人となっています。ビザンティン建築様式(Byzantine Architecture)のこの大聖堂は、タリンにある教会の中でも最も大きいものです。

アレクサンドル・ネフスキー大聖堂

Wikipediaによりますと、19世紀末に建築されたこの教会は、ロシアによる支配の象徴でしたが、独立を果たした後は取り壊しも一時検討されたようです。今では、当時の歴史を学ぶことができる建造物としても貴重なものとして保存され、多くの観光客を惹き付ける場所となっています。後に触れるブルガリア(Bulgaria)の首都ソフィア(Sofia)にもブルガリア正教会の壮麗なアレクサンドル・ネフスキー大聖堂があります。

広場への路

ビザンティン建築のことです。紀元後330年頃、ローマ帝国のコンスタンティヌス大王(Constantine the Great)は、ボスポラス海峡要衝にある都市ビュザンティウム(Byzantium)に自らの名前をつけます。それがコンスタンチノープル(Constantinople)です。その後東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の首都となります。今のイスタンブール(Istanbul)です。ローマ帝国は1453年にオットマン帝国によって滅ぼされます。

コンスタンティヌス大王

ヨーロッパの小国の旅 その三 エストニアの独立に至る歴史

Britannica百科事典を調べながら、エストニア(Estonia)の大国に挟まれた誠に複雑な歴史を辿ります。日本のように国内の大名らの争いではなく、国外からの侵略という脅威です。エストニアは長らくドイツ騎士団(Teutonic Order)に支配され、13世紀にはデンマークが領有します。16世紀になるとリヴォニア戦争(Livonian Warというエストニアの支配を巡る争いが起こります。これによりスウェーデンが支配し、エストニア公国となります。

ドイツ騎士団

18世紀になると大北方戦争(Great Northern War)の結果、ロシア帝国の支配となります。この戦争はスウェーデンと反スウェーデン同盟間の戦争です。ピュートル皇帝一世(Peter the Great)はスウェーデンを駆逐し、ロシアはバルト海の覇権を握り、獲得した地にサンクトペテルブルク(St. Pertersburg)を建設します。

ピュートル皇帝一世

1917年のロシア革命により、エストニアには自治がもたらされます。20世紀になり、第一次大戦の結果1918年にドイツが降伏し、エストニアは一時独立を果たします。1939年にはソビエト赤軍がエストニアに進軍すると傀儡政権が作られます。それ以来、長くソビエトの支配が続きます。1980年代までエストニアの政治経済、社会はソビエト連邦と軍隊を後ろ盾とする共産党に支配されます。

この共産党の支配時代には、独立運動をしていた人々、自由を求めて文化活動をしていた人々は弾圧され逮捕されて拷問などを受けています。元共産党本部であった建物は歴史博物館となり、そこを訪ねますと牢獄などが保存されています。1991年のソビエト連邦における共産党保守派のクーデター失敗によりエストニアはようやく独立を宣言し、ソビエト連邦もこれを承認します。

クーデター失敗とエリツェン大統領

ヨーロッパの小国の旅 その二 バルト海の歴史とハンザ同盟

北の地中海と呼ばれたバルト海(Baltic Sea)は、古代バルト文明、中世のヴァイキングの東征、ハンザ同盟(Hanseatic League)の通商の舞台となったところといわれます。地図を見ますと、スカンジナビア諸国(Scandinavia)、デンマーク、ドイツ、ポーランド、バルト三国、そしてロシアがこの周りに位置していることがわかります。古くから海上交通に利用され、沿岸には有力な海港都市が存在しています。

バルト海貿易を最初に開拓したのは、スカンジナビアに住む北ゲルマン人(ヴァイキング)です。やがてゲルマン人の東方進出に伴い、12世紀以降はヴァイキングに代わりドイツ人が貿易の担い手となります。そしてロシアとの交易を発展させていきます。ドイツ商人はロシアから毛皮、穀物、木材、海産物、コハク(Amber)を求め、ロシアには毛織物、食糧、ワイン、生活必需品などを輸出します。

ハンザ同盟都市ヴィスビー(スウェーデン)

王侯貴族を顧客にしていた地中海貿易とは対照的に、バルト海貿易は投機性に乏しかったといわれます。しかも冬のバルト海の航海は厳しく、航海が絶たれます。近世に入ると大西洋や太平洋航路が国際貿易の重要な舞台となるにつれて、バルト海貿易はやがて衰退していきます。

ハンザ同盟都市リューベック(ドイツ)

ヨーロッパの小国の旅 その一 エストニア

しばらくヨーロッパの旅をしてみます。地図を見てわかるようにヨーロッパ大陸には沢山の国々が存在しています。陸続きなので過去も今も人々の行き来が盛んです。交易も盛んである反面、民族のいさかいも長く続いているところこです。その中の国で、ドイツとロシアの間にあるバルト三国(Baltic States)の一つエストニア(Republic of Estonia)に行ってみましょう。

エストニアの人口はたったの160万人。首都はタリン(Tallinn)です。「北の地中海」と呼ばれるバルト海(Baltic Sea)に面しています。バルト海という名を聞くと帝政ロシアの「バルチック艦隊」が思い出されます。バルト三国とはエストニアの他に、リトアニア(Lithuania)、ラトビア(Latvia)を指します。三国は欧州連合(European Union:EU)や北大西洋条約機構(NATO)、そして経済協力開発機構(OECDに属しています。

エストニアは地政学的の条件から、大国に翻弄され、独立運動が起こっては鎮圧された長い歴史があります。ようやくソビエト連邦から独立したのが1991年です。1885年にゴルバチョフ(Mikhail S. Gorbachev)が大統領に就任し、立て直し(ペレストロイカ)、情報公開(グラスノチス)による政策を進めます。それに対して起こった共産党保守派のクーデターが失敗し、エストには独立を宣言し、ソビエトもこれを承認するのです。

私がエストニアを旅行したのは1997年です。特殊教育の学会を終えて娘とフィンランド(Finland)の首都ヘルシンキ(Helsinki)からフェリーで2時間のバルト海を横切りタリンに着きました。

ハングルと私 その25 韓国についての誤解にどう向きあうか

この稿で「ハングルと私」は終わりとします。
世の中には、いろいろな誤った見方や考え方があります。日本人の韓国や韓国人に対する誤解もそうです。例えば韓国の人は「アグレッシブで喧嘩早い」とか「反日感情を過剰に持っている」などという風評です。そういう人もいるのは確かですが、こうした人々は5%以下でしょう。5%というのはどの国にも当てはまる数字です。大多数の韓国人は個人として付き合えば実に友好的で儒教の仁や仏教、キリスト教の教えを実践している印象を受けます。韓国はこの3つの宗教が共存している国です。人との付き合いを深めていけば、感情の機微や暖かみを体験できるのです。個人と個人、家族と家族との出会いは偏見や誤解を溶かしてくれます。

世の評論家は得てして、「日本と韓国の関係は、かくかくしかじか」とのたもうのが好きですが、そのようなご宣託はあまり役に立たないのです。どうしたら仲良くできるかです。それには、その国の言葉を学び文化を知り、できればその国を訪ねて対話し、自分の目で確かめることです。そして親しき友をつくる努力をするのです。

友だちをつくるというのは、互いに異なる考えを持ちながらも、それを柔軟に修正できる感性を育てることです。「自分の見方はもしやして偏っていないか、」と自分に問える姿勢です。未知なことを学び、考える態度を持つことです。どのような方法にせよ、何からか誰かから教えを受けるということです。文化という定義はそれを使う人の数だけあるといわれます。なにが正しいとか間違っているというのではありません。町や村の違い,国と国との違いは人々の考え方に反映します。この考え方は文化の相対性ということです。このことを理解したいものです。