日本にやって来て活躍した外国人 その八 ウィリアム・アダムス

1598年6月、イギリス人ウィリアム・アダムス(William Adams)は、オランダのロッテルダムを出港したガレオン(Galleon)船五隻の船団の一隻リーフデ号(De Liefde)に航海士として、「新航路発見」の航海に出ます。ガレオン船とは大型の帆走の砲艦のことです。船団は大西洋を南下し、南アメリカの先端、マジェラン海峡(Strait of Magellan)を通過し太平洋に出ます。

嵐やスペイン・ポルトガル船の襲撃にあい、東洋までたどりついたのはリーフデ号のみでした。22カ月に及ぶ長い航海の末に、アダムスの乗ったリーフデ号は、日本の豊後の臼杵に漂着します。リーフデ号には船長クワケルナック(Jacob Quackernack)やヤン・ヨーステン(Jan Josten)がいました。

アダムスらは、やがて徳川家康に謁見します。家康はリーフデ号が日本に運んできた19門の大砲をはじめとする武器・弾薬を使い、日本を統一することができると考えに違いありません。後に大砲が威力を発揮したのが大阪夏の陣です。家康はアダムスらリーフデ号の乗員の話を聞くことで、南蛮諸国の勢力図や優れた技術ばかりか、ポルトガル人などの南蛮人の目論見や企ても知ることになります。

船大工としての経験をも買われ、家康の命により120トンの洋式帆船を日本で初めて建造します。こうしてアダムスは、家康の信頼を得ていき、やがて外交顧問として取りたてられます。江戸日本橋按針町屋敷を与えられます。家康が亡くなると、幕府は交易を長崎県平戸のみに制限し、鎖国体制を敷きます。そのためアダムスは不遇となり横須賀の逸見を離れ平戸へ向かいます。オランダ、イギリスが通商を許され、平戸に商館を設置するようになります。

安針塚横須賀

日本にやって来て活躍した外国人 その七 ヤン・ヨーステン

ヤン・ヨーステン(Jan Josten)はオランダの商船リーフデ号(De Liefde)に航海士として、航海長ウイリアム・アダムス(William Adams)らとともに実権を握っていた徳川家康にヨーロッパ事情を伝えた人物です。家康の命で大坂に召し出され、その知識により重用されることになります。

そして朱印状を与えられて活躍する貿易商でもあったようです。中部ベトナム、タイマライ半島、中部カンボジア、北ベトナムなど各地に手広く貿易を営んでいきます。1614年オランダ商館が平戸に開設されてから,幕府と商館の仲介役としても活躍します。砲術顧問として、土地や屋敷を与えられ、日本人女性とも結婚します。与えられた土地は、ヤン・ヨーステンの名前から八代州海岸と呼ばれ、現在の東京都中央区八重洲の名の由来となっています。

ポルトガル人との貿易が豊臣氏や西国大名に握られ、またイエズス会が深く介在していたため、彼ら以外との海外貿易の開始を求めて、オラン人のヤン・ヨーステンやイギリス人のウィリアム・アダムスらを召し抱えたようです。

日本にやって来て活躍した外国人 その五 シーボルト

シーボルト(Philipp Franz von Siebold)は名前から分かるようにドイツ人で、江戸末期に長崎出島のオランダ商館に医師として来日します。正確なドイツ語の発音は「ジーボルト」なのですが、一般にシーボルトと呼ばれています。シーボルトの日本における活動は特筆すべきことがたくさんあります。西洋人として初めて出島外に鳴滝塾という私塾を開校し、日本人に最新の医学を教えた貢献は、偉大なものがあります。

1823年3月にインドネシア(Indonesia)のバタヴィア(Batavia)近郊にあった砲兵連隊付軍医に配属され、東インド自然科学調査官も兼任します。バタヴィアは、首都ジャカルタのオランダ植民地時代の名称です。1823年6月末にバタヴィアを出て8月に来日し、鎖国時代の日本の対外貿易窓であった長崎の出島のオランダ商館医となります。シーボルトの医師としての活躍は、南蛮医学とかオランダ医学として、多くの日本人が彼の下で学びます。彼やその弟子の手によって多くの命が救われていきます。彼は当時の西洋医学の最新情報を日本へ伝え、国内の医学は飛躍的に発展します。

彼は医学のみならず、生物学、民俗学、地理学など多岐にわたる事物を日本で収集し、オランダへ発送します。幕府天文方高橋景保は、伊能忠敬が作製した日本および蝦夷の地図を写してシーボルトに贈ったりします。シーボルトは、国禁であったこうした品の国外持出しをはかりますが、それが発覚して多くの幕吏や鳴滝塾門下生が処罰されます。これが1828年に起こった洋学者弾圧のシーボルト事件です。シーボルトはこれによって国外に追放されますが、多くの標本などを持ち帰っていきます。この資料の一部は今もオランダのライデン(Leiden)、ドイツのミュンヘン(Munich)、オーストリアのウィーン(Wiena)に残されているといわれます。

シーボルトの薫陶により杉田玄白、前野良沢、中川順庵などの蘭方医が育ちます。彼らの業績に『解体新書』の翻訳がつとに知られています。ドイツ人医師クルムス(Johann Adam Kulmus)の解剖学書の(Anatomische Tabellen)のオランダ語訳書「ターヘル・アナトミア」(tafel anatomie)がそうです。

日本にやって来て活躍した外国人 その四 ルイス・フロイス

次は、ルイス・フロイス(Luis Frois)のことです。彼は1532年、ポルトガルの首都リスボン(Lisbon)で生まれです。16歳の若さでイエズス会に入り、その後インドのゴアに行きます。当時のゴアはイエズス会の伝道の拠点になっていた所です。ここでフロイスはザビエルに出会います。29歳のときに叙階されて司祭となります。彼の筆力と語学の才能は高く評価されて、本国と布教先との連絡役を任されます。そして31歳のとき、ついにフロイスは日本へ布教をしに行けることになります。

フロイスは1563年(永禄6年)に今の長崎長崎県の西海市付近に上陸します。フロイスは語学の才能を活かし布教のために日本語や日本の風習を学び始めます。「パン」や「カステラ」など日本語に浸透したポルトガル語があるように、当時フロイスも「日本語はポルトガル語に少し似ている」ことを学んだようです。1565年1月に京都に入り、他の宣教師や日本人の修道士とともに布教活動を始めます。

1569年、将軍の足利義昭を擁して台頭していた織田信長と二条城で初めて対面します。既存の仏教界に不信感を抱いていたのが信長です。フロイスは信長の信任を獲得して畿内での布教を許可され、イタリア人宣教師のオルガンティノ(Organtino Gnecchi‐Soldo)などと共に伝道活動をし多くの信徒を得ていきます。オルガンティノは30年間を京都で過ごし信長や秀吉などの時の権力者とも知己となるという人物です。

フロイスは、その後は九州において活躍しますが、1580年の巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノ(Alessandro Valignano)の来日に際しては通訳として視察に同行し、安土城で信長に拝謁します。巡察師とは伝道管区における布教状態を調べ宣教師達に助言を与えるとともに、本部に報告する役割を持ちます。フロイスは日本におけるイエズス会の活動記録を残すことに専念するよう命じられます。以後フロイスはこの事業に精魂を傾け、その傍ら全国をめぐって見聞を広めていきます。この記録が後に「日本史(Historia de Iapam)」と呼ばれることになります。

当初、秀吉は信長の対イエズス会の布教政策を継承していましたが、やがてその勢力拡大に危機感を抱くようになります。そして、1587年7月には伴天連追放令を出すに至り、フロイスは畿内を去り大村領長崎に落ち着きます。

1590年、帰国した天正遣欧使節を伴ってヴァリニャーノが再来日すると、フロイスは同行して聚楽第で秀吉と会見します。1592年、ヴァリニャーノとともに一時マカオに渡りますが、1595年に長崎に戻ります。そして 1597年には『二十六聖人の殉教記録』を文筆活動の最後に残し、7月大村領長崎にあった聖職者育成の学校、コレジオ(collegio)にて没します。

日本にやって来て活躍した外国人 その三 ザビエルと琵琶法師ロレンソ

サビエルは山口の街角では毎日二回説教し、神の福音を説いていきます。集まった者から宗教以外の色々の質問にも答えたいわれます。サビエルは修道院でいろいろな学問を修めていたので、自然界のこと、例えば地球の形、太陽の動き、雷や稲妻、雪、雨等の天文や気象に関するもの、自然科学に関する問いに答えたようです。

布教を通して有力な信者を得ていきます。そのうちでも盲人の琵琶法師は最も知られています。山口の街角でザビエルに出会い、自身の疑問をぶつけザビエルの回答を聞く中で、キリスト教の教えを理解し、やがてロレンソ(Lorenzo)という洗礼名を受けます。ロレンソは後に京阪神方面で活動し、織田信長や豊臣秀吉にも福音を説き、やがて高山右近等の名高いキリシタン大名を得ていきます。サビエルの生涯で、ロレンソなどの弟子を育てた山口での伝道活動は最も充実していたようです。

山口ザビエル記念聖堂

1551年11月に鹿児島のベルナルド(Bernard)、マテオ(Matthew)、ジュアン(Juan)、アントニオ(Antonio)という洗礼を受けた日本人青年4人を同行させ、ザビエルはトーレス(Tores)神父とフェルナンデス(Fernandez)修道士らを残して日本を離れます。神父というのはトリック教会の司祭で、修道士とは清貧や貞潔、服従の誓いをたてた者です。

日本にやって来て活躍した外国人 その二 フランシスコ・ザビエル

「日本史において活躍した外国人?」といえばどうしてもフランシスコ・ザビエル(Francisco de Xavier)を第一番に挙げたくなります。天文18年といえば1549年ですが、我が国に最初にキリスト教を伝えたことで知られています。ザビエルはスペイン人宣教師です。私は津和野を訪ねてから山口市に立ち寄ったことがあります。ザビエルのことを少し学んでいたからです。山口サビエル記念聖堂を訪ね、そこで観光客を案内していたスペインからの神父さんと会話したのを思い出します。

Ignacio Lopez de Loyola

ポルトガル王ジョアン3世(Joao III)は、イグナチオ・デ・ロヨラ(Ignacio Lopez de Loyola)がイエズス会(Society of Jesus or Jesuit)という新修道会を創設したことを知り、ポルトガル植民地内の異教徒へキリスト教を布教する宣教師を派遣するようにロヨラに依頼します。ロヨラが推薦したのが、フランシスコ・ザビエルとシモン・ロドリゲス(Simon Rodríguez)です。こうしてザビエルは東方伝道の命を受けインドのゴア (Goa)に派遣されます。ザビエル最初に日本に上陸したのは鹿児島です。

Francisco de Xavier
大内義隆

ザビエルは、平戸に置き残していた献上品を携え1551年4月下旬、周防に向かいます。それまでの経験から、貴人との会見時には外観が重視されることを知っていたザビエルは一行を盛装させて、守護大名、大内義隆に謁見し珍しい文物を献上します。これらの品々に喜んだ義隆はザビエルに宣教を許可し、信仰の自由を認めます。

大内義隆は、廃寺となっていた山口の大道寺をザビエル一行の住居兼教会として与えます。これが日本最初の常設の教会堂となります。南蛮寺の第一号のようなものです。ザビエルはこの大道寺で説教を行い、約2ヵ月間の宣教で獲得した信徒数は約500人にものぼったとあります。日本で初めてのクリスマス行事もここで行われたと記録にあります。現在の山口カトリック教会サビエル記念聖堂の落成献堂式は1952年1月、1991年9月に焼失しますが、1998年4月に再建されます。

日本にやって来て活躍した外国人 その一 西洋言語の到来

この稿からしばらく、日本で活躍した外国人の歴史を取り上げいきます。大勢の外国人が日本にやってきました。こうした人々は高い識見や知識、あるいは東洋に深い関心や興味を持って、何千マイルの彼方からやったきたのは間違いないことです。

こうした外国人は、主として交易や布教などを目的としてやってきたことが伺えます。後に食糧や水の供給、教育の普及を求めてきます。いわば探検家や開拓者のような人々です。

最初に日本にやってきた人々は、主にカトリックの聖職者でした。彼らは、神学校などにおいて哲学や自然科学、医学、工学などを学んでいましたから、当時の日本人、とりわけ大名や武士には、その知識は驚きをもって迎えられたに違いありません。

聖職者らは、数々の献上品を持参していました。その中には親書や聖書、世界地図、地球儀、望遠鏡、洋琴、置時計、ギヤマンの水差し、鏡、眼鏡、書籍、絵画、その他小銃など日本には無かった品々が含まれていました。

そしてなによりもポルトガル語、スペイン語、オランダ語、英語などをもたらします。言語は知識を伝播する源となります。日本が文明開化していくのは西洋の言語を学び、さまざまな知識を吸収していく過程といえましょう。

アジアの小国の旅 その九十三 カンボジア

カンボジア(Kingdom of Cambodia)の話題です。南はタイランド湾(Thailand Bay)に面し、西はタイ、北はラオス(Laos)、東はベトナム(Vietnam)と国境を接します。国民の90%以上が、クメール語(カンボジア語)(Khmer)を話します。首都はプノンペン(Phnom Penh)となっています。

ベトナム戦争が北の勝利で終結することが間近となった1975年4月17日、カンボジアではクメール共和国が打倒され、民主カンプチアを樹立した政治勢力のクメール・ルージュ(Khmer Rouge)が政権につきます。その指導者はポル・ポト(Pol Pot)です。政権はシハヌーク(King Sihanouk)国家元首に推戴するも、実権はポル・ポトが掌握します。1979年までポル・ポト政権は原始共産制の実現を目指すクメール・ルージュの政策により飢餓、疫病、虐殺などで100万人から200万人以上とも言われる死者が出ます。教師、医者、公務員、資本家、芸術家、宗教関係者、その他イデオロギー的に好ましくないとされる階層のほとんどが捕らえられて強制収容所に送られます。

強制収容所の俗称は「Killing Fields」と呼ばれました。正確な犠牲者数は判明しておらず、現在でも国土を掘り起こせば多くの遺体が発掘されるといわれています。トゥール・スレン(Tuol Sleng)という収容所が最も悲惨なところといわれ、今はトゥール・スレン虐殺犯罪博物館(Tuol Sleng Genocide Museum)となっています。

トゥール・スレン収容所跡

1,000以上の寺院があるアンコールワット(Angkor Wat)は平和なたたずまいを見せています。ワットとは寺院にことです。仏教国のカンボジアでなぜ大量虐殺が行われたかは、大国の後ろ盾などがあったことも判明しています。

アジアの小国の旅 その九十二 ミャンマー

ビルマの竪琴

ミャンマー(Republic of the Union of Myanmar)とききますと、私の世代ではビルマ(Burma)がぴんときます。 1885年から続いたビルマという国名は1989年にミャンマーと改名します。首都名も1948年から1989年まではラングーン(Rangoon)でした。1989年にヤンゴン(Yangon)となり、現在の首都はネーピードー(Nay Pyi Taw)となっています。

諸部族割拠時代を経て11世紀半ば頃に最初のビルマ族による統一王朝のパガン王朝(Pagan Kingdom)が成立します。その後、モンゴルの侵入(Mongol invasions)があります。モンゴルが去るとタウングー王朝(Taungoo dynasty)、コンバウン王朝(Konbaung dynasty)が生まれ、1886年にイギリス領インドに編入されます。戦後の1948年1月に民主国家としてビルマが独立します。

1962年3月にネ・ウィン(Ne Win)将軍に率いられたクーデター(coup detat)が起こります。それ以来ミャンマーは軍部によって支配されていきます。ミャンマーは多くの部族を抱え、部族間の対立や内紛が続いています。2015年11月に行われた総選挙アウン・アウン・サン・スー・チー (Aung San Suu Ky)議長率いる National League for Democracy:NLDが大勝し、側近のティン・チョウ(Htin Kyaw)を大統領とする新政権が発足します。スー・チー氏は,国家最高顧問,外務大臣及び大統領府大臣に就任します。

竹山道雄

ミャンマーにおいて約半世紀ぶりに国民の大多数の支持を得て誕生した新政権は,民主化の定着,国民和解,経済発展のための諸施策を遂行します。しかし、依然として軍部の後ろ盾による政権が続きます。2018年8月,ラカイン州(Rakhine)北部における治安拠点への連続襲撃事件が発生します。その後の情勢不安定化により,70万人以上のロヒンギャ(Rohingya)部族の避難民がバングラデシュ(Republic of Bangladesh)に流出します。ミャンマーはロヒンギャ民族の市民権を認めていません。世界中から人権問題として非難されています。スー・チー氏のノーベル平和賞受賞についても疑問が高まっています。

アジアの小国の旅 その九十一 モルドバ

モルドバ(Republica Moldova)は東ヨーロッパに位置する共和制の国です。国土は九州よりやや小さい内陸国であり、西にルーマニア(Romania)と他の三方はウクライナ(Ukraine)と国境を接しています。旧ソビエト連邦を構成していた国家の一つとしてモルドバ-ソビエト社会主義共和国(Moldavian Soviet Socialist Republic)でしたが、1991年のソ連の崩壊によりドニエストル川(Dniester River)西岸地域を領有し独立します。首都はキシニョフ(Chisinau)となっています。

モルドバ人は言語的、文化的にルーマニア人との違いはほとんどなく、歴史的には中世のモルダビア公国以後、トルコとロシアならびソ連、ルーマニアの間で領土の占領・併合が繰り返された地域です。

ソ連が崩壊した際、「モルドバ共和国」として独立を宣言しますが、ニストリア川(Niestria River)沿岸であるウクライナ国境に住む約50万人のロシア系及びウクライナ系住民がこれに反発し、1992年には本格的なトランスニストリア紛争(Transnistria War)という武力紛争に発展します。現在は停戦状態にあります。2014年6月、モルドバとEUとの連合協定が締結され、全ての締約国による批准が完了します。