日本にやって来て活躍した外国人 その五 シーボルト

シーボルト(Philipp Franz von Siebold)は名前から分かるようにドイツ人で、江戸末期に長崎出島のオランダ商館に医師として来日します。正確なドイツ語の発音は「ジーボルト」なのですが、一般にシーボルトと呼ばれています。シーボルトの日本における活動は特筆すべきことがたくさんあります。西洋人として初めて出島外に鳴滝塾という私塾を開校し、日本人に最新の医学を教えた貢献は、偉大なものがあります。

1823年3月にインドネシア(Indonesia)のバタヴィア(Batavia)近郊にあった砲兵連隊付軍医に配属され、東インド自然科学調査官も兼任します。バタヴィアは、首都ジャカルタのオランダ植民地時代の名称です。1823年6月末にバタヴィアを出て8月に来日し、鎖国時代の日本の対外貿易窓であった長崎の出島のオランダ商館医となります。シーボルトの医師としての活躍は、南蛮医学とかオランダ医学として、多くの日本人が彼の下で学びます。彼やその弟子の手によって多くの命が救われていきます。彼は当時の西洋医学の最新情報を日本へ伝え、国内の医学は飛躍的に発展します。

彼は医学のみならず、生物学、民俗学、地理学など多岐にわたる事物を日本で収集し、オランダへ発送します。幕府天文方高橋景保は、伊能忠敬が作製した日本および蝦夷の地図を写してシーボルトに贈ったりします。シーボルトは、国禁であったこうした品の国外持出しをはかりますが、それが発覚して多くの幕吏や鳴滝塾門下生が処罰されます。これが1828年に起こった洋学者弾圧のシーボルト事件です。シーボルトはこれによって国外に追放されますが、多くの標本などを持ち帰っていきます。この資料の一部は今もオランダのライデン(Leiden)、ドイツのミュンヘン(Munich)、オーストリアのウィーン(Wiena)に残されているといわれます。

シーボルトの薫陶により杉田玄白、前野良沢、中川順庵などの蘭方医が育ちます。彼らの業績に『解体新書』の翻訳がつとに知られています。ドイツ人医師クルムス(Johann Adam Kulmus)の解剖学書の(Anatomische Tabellen)のオランダ語訳書「ターヘル・アナトミア」(tafel anatomie)がそうです。