日本にやって来て活躍した外国人 その四 ルイス・フロイス

次は、ルイス・フロイス(Luis Frois)のことです。彼は1532年、ポルトガルの首都リスボン(Lisbon)で生まれです。16歳の若さでイエズス会に入り、その後インドのゴアに行きます。当時のゴアはイエズス会の伝道の拠点になっていた所です。ここでフロイスはザビエルに出会います。29歳のときに叙階されて司祭となります。彼の筆力と語学の才能は高く評価されて、本国と布教先との連絡役を任されます。そして31歳のとき、ついにフロイスは日本へ布教をしに行けることになります。

フロイスは1563年(永禄6年)に今の長崎長崎県の西海市付近に上陸します。フロイスは語学の才能を活かし布教のために日本語や日本の風習を学び始めます。「パン」や「カステラ」など日本語に浸透したポルトガル語があるように、当時フロイスも「日本語はポルトガル語に少し似ている」ことを学んだようです。1565年1月に京都に入り、他の宣教師や日本人の修道士とともに布教活動を始めます。

1569年、将軍の足利義昭を擁して台頭していた織田信長と二条城で初めて対面します。既存の仏教界に不信感を抱いていたのが信長です。フロイスは信長の信任を獲得して畿内での布教を許可され、イタリア人宣教師のオルガンティノ(Organtino Gnecchi‐Soldo)などと共に伝道活動をし多くの信徒を得ていきます。オルガンティノは30年間を京都で過ごし信長や秀吉などの時の権力者とも知己となるという人物です。

フロイスは、その後は九州において活躍しますが、1580年の巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノ(Alessandro Valignano)の来日に際しては通訳として視察に同行し、安土城で信長に拝謁します。巡察師とは伝道管区における布教状態を調べ宣教師達に助言を与えるとともに、本部に報告する役割を持ちます。フロイスは日本におけるイエズス会の活動記録を残すことに専念するよう命じられます。以後フロイスはこの事業に精魂を傾け、その傍ら全国をめぐって見聞を広めていきます。この記録が後に「日本史(Historia de Iapam)」と呼ばれることになります。

当初、秀吉は信長の対イエズス会の布教政策を継承していましたが、やがてその勢力拡大に危機感を抱くようになります。そして、1587年7月には伴天連追放令を出すに至り、フロイスは畿内を去り大村領長崎に落ち着きます。

1590年、帰国した天正遣欧使節を伴ってヴァリニャーノが再来日すると、フロイスは同行して聚楽第で秀吉と会見します。1592年、ヴァリニャーノとともに一時マカオに渡りますが、1595年に長崎に戻ります。そして 1597年には『二十六聖人の殉教記録』を文筆活動の最後に残し、7月大村領長崎にあった聖職者育成の学校、コレジオ(collegio)にて没します。