【話の泉ー笑い】 その三十 落語 その4 世間知らずの殿様と笑い

筆者は落語の素人でまったくの後発組です。そのような訳で落語を語るには少々気恥ずかしい気分なのですが、笑いを取り上げているのでどうしても筆を執りたくなるのが落語なのです。素人の目からみた落語の内側には、人の生き様とかペーソスが充満していて、ヨーロッパやロシア、アメリカのジョークに劣らぬ笑いの泉であることを強調したいのです。

富嶽百景

落語の演目にはいろいろな人やモノが登場します。例を挙げると、名前では八五郎、与太郎、与兵衛、熊五郎、定吉、多助、三太夫、正助、お鶴、お菊、竹さん、新さんなどです。動物では犬、猫、狸、鹿、鷺、雀、ウワバミ(大蛇)、馬、魚では鰻、秋刀魚、鯛、白魚、カツオなどです。食べ物では、豆腐、蕎麦、うどん、鰻重、ワサビ、人に関しては、坊主、花魁、遊女、行商、盲人、間男、盗人、殿様、側室、侍、代官、女房、妾、女中、くずや、魚屋、大工、長屋の差配、幇間、按摩、蕎麦屋、ケチ、お人好し、正直者、間抜け、世話好き、粗忽者、ほら吹き、博打好き、大酒飲み、乱暴者、藪医者、すり、などなどきりがありません。話題となると、酒、夢、あくび、富くじ、火事、怪談、幽霊、妾宅、引っ越し、新築祝い、厠、転失気、道楽、吉原、喧嘩、祭り、敵討ち、天狗、浅草寺、長屋、講中、白洲など多彩です。

目黒の秋刀魚

おおよそ落語に登場する人物には、名奉行や頓智のある子どもなどは例外として、真面目で頭の良い者はあまり登場しないことになっています。こうした人物は笑いの対象にはなりにくいようです。江戸時代は士農工商の世の中です。お侍が形の上では幅を利かしていました。町人は小さくなって歩いていた時代です。そんなこともあってか、殿様とか大名、侍は笑いの対象になっていました。彼らは世の中の動きに疎いこともあり、庶民や町方は殿様などを茶化すのです。

そうしたぽーっとした殿様の代表が「目黒の秋刀魚」にでてきます。自分がどうしても蕎麦をを打ちたくて、習ったばかりの蕎麦の作り方を家来に披露するのです。ところがその蕎麦がとても食せるような代物でありません。ですが殿様の打った蕎麦を食べないと打ち首になるというのです。ですから殿様の蕎麦は「手うち蕎麦」と呼ばれます。食通ぶっている者は笑いのネタとなります。

【話の泉ー笑い】 その二十九 落語 その3 オチと演目

多くの場合、「落ち」は「オチ」、「下げ」は「サゲ」とカタカナで表記します。「オチ」(サゲ) は落語の中で笑いを誘う生命ともいうべき重要なものです。これにはいくつもの型があり、なかには一つの落語で2種、3種を兼ねている場合もあります。オチとは、長い歴史のなかで幾多の落語家が創意工夫を凝らして作ったものです。この「落ちの種類」は、『落語の研究』(大阪・駸々堂書店)で分類が試みられ、それから人々の関心が寄せられるようになったといわれます。以下、オチの種類と演目を紹介しておきます。演目は小生が聴いたことがあるものだけです。

地口落ち:
 大阪では「にわか落ち」といわれるオチです。オチが駄洒落になっているもので、落語のオチのなかではもっとも多いといわれます。『富久』『大工調べ』『鰍沢』『大山詣り』『錦の袈裟』『天災』などがあります。

考え落ち:
 このオチは、演目を聞いているとなるほどと思われ、笑いが生まれるものです。よく考えないとわからない落ちともいわれます。その代表には『そば清』『蛇含草』『妾馬』などがあります。

しぐさ落ち:
 言葉に出さず、しぐさで見せるオチです。『死神』『こんにゃく問答』『猫久』『お菊の皿』『ちりとてちん』どれも笑える演目です。

住吉神社

仕込み落ち:
 あらかじめオチの説明を「枕」といわれる導入部)あるいは筋のなかで入れておくと笑えるものです。『明烏』『真田小僧』など。

とたん落ち:
 最後に落ちるとたんに、そのオチのひとことで咄全体の筋がうまく決まる演目です。最後まで聞かないと笑えません。『寝床』『愛宕山』『笠碁』『後家殺し』『幾代餅』『藪入り』『お化け長屋』『芝浜』『二番煎じ』など古典落語の名作に出てくるオチです。

ぶっつけ落ち:

佃の渡し


 互いに言っていることが通じないで、別の意味にとって、それが落ちになるのです。『らくだ』『あくび指南』『抜け雀』『お化け長屋』などがその例です。

まぬけ落ち
 誠にばかばかしい間抜けたことで結末を迎えるオチです。行き倒れの自分の死骸と錯覚して、抱え上げた粗忽者、「この死人はおれにちげいねい、抱いている俺はだれだろう?」『粗忽長屋』『夏の医者』『代脈』『長短』『転失気』『時そば』など優れた古典落語に多いです。

逆さ落ち:
 落ちになる内容を、そのまま先に言ってしまっておく。『片棒』『死ぬなら今』が好例です。

見立て落ち: 
 意表をつくものを見立てるオチで、『たぬき』『たがや』などの演目です

【話の泉ー笑い】 その二十八 落語 その2 扇子と手拭

伝承されている伝統的な話芸が落語や講談です。演者が一人で何役も演じ、語りのほかは身振りや手振りのみで物語を進める独特な形式です。使うのはといえば、扇子や手拭だけ。舞台には座布団があるだけです。たまに音曲が流れてくるのもありますが、それは例外です。ほとんど演者が工夫を凝らして、演目に登場するモノや人を表現する独演です。表情や視線も大事な仕草となります。扇子と手拭を使い、食べる、吸う、飲む、打つ、寝る、書く、歩く、酔っぱらうなどを座布団に座って演じます。

扇子と手拭い

古典落語のうち、滑稽を中心とし、噺の最後に「オチ」のあるものを「落とし噺」といわれます。これが「落語」の本来の呼称であったのですが、のちに発展を遂げた「人情噺」や「怪談噺」と明確に区別する必要から「滑稽噺」の呼称が生まれたようです。今日でも、落語の演目のなかで圧倒的多数を占めるのが滑稽噺です。滑稽噺は「生業にかかわるもの」(日常性)と「道楽にかかわるもの」(非日常性)に大別されるといわれます。例えば「片棒」という演目は冨を築いた旦那が三人の息子の誰に跡を継がせるかという展開で、困ってしまうという噺です。日常性と非日常性が見事に溶け合っている演目です。

扇子の使い方

人情の機微を描くことを目的としたものを「人情噺」といい、親子や夫婦など人の情愛に主眼が置かれています。人情噺はたいていの場合続きものによる長大な演目です。人情噺にあっては、「落ち」はかならずしも必要ではありません。「子別れ」や「文七元結」、「芝浜」、「ハワイの雪」などの演目はそうです。ほのぼのとした情愛が伝わるものです。

「落とし噺」や「人情噺」が一般に語り中心で上演されるのが「素噺」です。鳴り物や道具などを使いません。「怪談噺」のような芝居がかったものに音曲を利用するのもあります。特に幽霊が出てくるような噺は、途中までが人情噺で、末尾が芝居噺ふうになっている場合が多いです。怪談噺は、笑いで「サゲ」をつけるという落語の定型からはずれるものといえます。

「オチ」の特徴ですが、聴衆に対し「噺はこれでおしまい」と納得させるしめです。それ故に「オチ」は演者の創作性が出るところが聴衆にとって興味深いのです。「千早振る」という百人一首を題材としたパロディ調の演目もそうです。演者が最も神経を使うところが「オチ」ではないかと思うのです。

【話の泉ー笑い】 その二十七 落語 その2 落語の成立

落語の成立についてです。世界百科事典によりますと、もともと1681年から1688年にかけての天和・貞享時代に上方を中心に「軽口」「軽口ばなし」と呼ばれました。しかし、上方の衰退期といわれる1764年から1781年の明和・安永時代の終わり頃になると、江戸に移って江戸小噺時代になります。その頃は「おとしばなし」と呼ばれました。「らくご」と読むようになったのは1887年頃といわれます。このように落語の成立期や熟成期は、江戸時代後期から幕末、そして明治時代にかけて形づくられたといわれます。落語が普及したのは昭和に入ってからです。

One man story teller

時代の暮らしぶりや風俗を背景にしたものが演目の中心です。武士や大名も登場しますが、圧倒的に多いのが江戸期の町人であり長屋の住人である職人らの庶民です。彼らは生きいきと描かれ,権力におもねることなく、むしろ権力をあざ笑う庶民のうっぷん晴らしの芸として語り継がれてきました。

落語の基本構成は「マクラ」「本題」、そして「オチ(サゲ)」からなります。マクラは導入部で、ごく自然に本題に入るための流れをつくります。そこが噺家の腕とされます。噺家は「マクラ」を喋るのではなく「マクラを振る」といいます。

本題につづいて「オチ」で噺を締めるのですが、オチのない人情噺では「〜〜という一席でございます」などの言葉で締めるようです。例えば『八五郎出世』という演目では、調子者の八五郎の妹お鶴が側室となり子どもを生みます。その慶事に八五郎は殿様に招かれ都々逸などを披露し、それにより仕官にとりたてられるというお目出度いところで終わります。

【話の泉ー笑い】 その二十六 落語 その1 古典落語と創作落語

庶民の楽しみ

私が落語を嗜むようになったのは定年退職後です。それまでは、仕事が特に忙しかったわけでもなかったのですが、他にマラソンをやったり藤沢周平の本を読んだり、カメラをいじったりして落語を楽しむ余裕がありませんでした。

iPodを手にしてから、さてなにを入れようかとしたとき、音楽に加えて落語が有料、無料でネット上で沢山あることを知りました。それ以来iPodに落語をため込んでは歩きながら、山登りを楽しみました。落語の楽しみが少しずつわかり始めました。それは演目もさることながら、噺家によって落語の内容が聞き手に異なって伝わることでした。一つの演目をいろいろな噺家で聞くという贅沢さが楽しくなりました。

江戸時代の噺家

落語は、「落とし話」といわれるように大抵の場合そのお終いに「サゲ」とか「オチ」があります。英語では「punchline」といいます。これを期待して聞き手はどんなサゲなのか、とワクワクしながら待つのです。古典落語はレパートリーが決まっているので、演者の語り口の違いを楽しむことになります。さすがに名人と呼ばれる噺家の語りには聞き惚れます。それからは、新作落語とか創作落語も楽しむようになりました。今や新作落語は、古典落語と並んで落語の大事な幹といわれます。

関西の落語は上方落語と呼ばれます。その中心が、上方落語専門定席の「天満天神繁昌亭」でしょうか。上方言葉の独特な響きが快いです。名人、古今亭志ん朝のように京言葉や大阪言葉などを使い分ける演者も多くなりました。どの噺家も言葉の会得には時間をかけていることがわかります

新作落語は年代的には若手の噺家によるものが多いといえます。例外は、上方落語の名人、桂三枝、今の六代目桂文枝です。お歳は82歳ですが、その創作力には驚くほどです。彼は、「新作落語はおおむね、時期が過ぎたらそのネタを「捨て」ざるを得なくなる運命にある」として、「創作落語」と呼んでいます。この発想は頷けます。柳家喬太郎の「ハワイの雪」という人情噺や「寿司屋水滸伝」という創作落語にもサゲが待っています。どちらも落語の主柱として高度な技芸を要する伝統芸能に間違いありません。もっと創作落語も親しみ笑いたいものです。

【話の泉ー笑い】その二十五 ピーナッツと親愛なる友人たちへ

今回で【ピーナッツ】のシリーズは終わりです。2000年1月3日、『ピーナッツ』最後の日刊コミックが発行されます。そのストリップには、シュルツが読者に宛てたメモと、タイプライターを前にしたスヌーピーが犬小屋の上に座って深く考え込んでいる絵が描かれています。翌日からは、再放送のパッケージが発刊されます。シュルツは体調不良で1月3日以降に連載されるストリップを5本描いていました。その最初のものは1月9日に掲載されます。

Wonderful Peanuts!

2000年2月13日、シュルツは亡くなります。その日、ピーナッツ史上最後の新しいストリップが新聞に掲載されます。3コマで、チャーリー・ブラウンが電話に出るところから始まり、相手はスヌーピーを呼んでいると思われる人物です。チャーリー・ブラウンは 『いや、彼は手紙を書いていると思います 』と答えます。次のコマでは、スヌーピーがタイプライターの前に座り、”Dear Friends “宛ての手紙の冒頭が描かれています。最後のコマは、大きな青空を背景に、過去に描かれた10枚の絵が配置されています。その下には、シュルツから読者へのメッセージがあります。その内容は次のような言葉です。

Snoopy hit home run!

『親愛なる友人たちへ
私は幸いにして50年近くもチャーリー・ブラウンとその仲間たちを描いてきました。これは、私の子どもの頃の夢を実現するものでした。しかし、残念なことに、私はもう毎日漫画を描くことができなくなってしまいました。私の家族は「ピーナッツ」を他の人に続けてもらいたくないと言っているので、引退を決意することとしました。長い間、編集者の方々の献身さ、そしてコミック・ストリップの読者が私に寄せてくれた素晴らしい激励と愛情に感謝しています。チャーリー・ブラウン、スヌーピー、ライナス、ルーシー、……彼らを忘れることはできないでしょう。  チャールズ・シュルツ{署名}』

【話の泉ー笑い】その二十四 「精神分析スタンド」とアドバイス

ルーシーは時に「精神分析スタンド」(Pychiatric Help)という相談室を自作してカウンセラーとしての相談料をとるなど、ちゃっかりしたキャラクターです。アメリカの多くの子どもたちは夏休み中などで道路際でレモネードスタンド(lemonade stand) を立てます。このことをパロディ化したものなのです。ブースの正面には、「The Doctor is」と書かれたプラカードがあり、「In/Out」のプラカードが立っていて、ドクターが在席しているかを示します。彼女は5セント(約7円)で精神分析をしアドバイスしてくれるのです。たいていは心配性のチャーリー・ブラウンにアドバイスをするのですが、、、、。

Psychiatric Stand

ルーシーのアドバイスは、通り一遍の大衆心理や、陽気で明白な真実、時に洞察に満ちた調査など多岐にわたるので笑いを誘います。例えば、スヌーピーの治療中にルーシーが、子どもの頃、家族の中の他の「犬」とどのように関わっていたかを尋ねる場面があります。言うまでもなく、スヌーピーはこの質問を無視するので笑えます。外で寝るのが怖くなってしまったスヌーピーのために、チャーリー・ブラウンはルーシーに相談して精神分析スタンドで診てもらうことにします。夏の最中なので、立て札には相談料は割引きで4セントにします。無事にスヌーピーの不安は消えるのですが、チャーリー・ブラウンのもとには何と多額の請求書が送られてきて・・・。

The doctor has changed.

相談にやってきたライナスは、ルーシーのアドバイがわかりません。ルーシーは「理解できるような助言はきかないこと、、、全然役に立たないにきまっているから」と煙に巻くようなアドバイスをしたり、、「いつかは大人になって、誰の助けも借りずに、人生と向き合わなければならないのよ、、、」と深い名言をはいたりします。スヌーピーもそれに真似てか、「もし何かをやり遂げたいのなら自分でやるべきだよ!」とアドバイスをします。

ライナスが「新しい算数は難しすぎる、、」と相談にやってきます。ルーシーは「できるわよ、、時間がかかるだけなんだから、、」と励まします。スヌーピーは仲間にいいます。「口先ばかりの心のない言葉は、なんの役にも立たないよ」。そして草野球で負けても「昨日から学び、今日を生き、明日に期待すること」(Learn from yesterday, live today, and look forward to tomorrow) 。こうした会話が生まれるのは、ルーシーが作った「精神分析スタンド」のお陰なのでしょう。

【話の泉ー笑い】その二十三 「ピーナッツ」と社会の多様性

1960年代は、一般に「ピーナッツ」の「黄金時代(Golden Age)」と考えられています。この時期には、ペパーミント・パティ(Peppermint Patty)、「第一次世界大戦の空飛ぶエース」としてのスヌーピー、「天然の巻き毛」のフリーダ(Frieda)、フランクリン(Franklin)など、よく知られたテーマやキャラクターが登場します。ピーナッツは、1950年代から1960年代前半に描かれた他の作品と比べると、特にその巧みな社会批判が際立ってきます。シュルツは、人種や男女の平等の問題をあからさまには取り上げませんでした。シュルツにとって、「権利は平等である」というテーゼは自明のことだったようです。チャーリー・ブラウンの野球チームに女の子が3人いたことも、少なくとも10年は時代を先取りしていたといえるのです。当時、女性が野球をすることはなかったのです。ペパーミント・パティのしなやかな運動神経と自己肯定感は当然のことであり、女性の進出は当たり前だと考えていたのです。

Franklin and Charlie Brown

1968年7月にシュルツはロサンゼルスの白人教師ハリエット・グリックマン(Harriet Glickman) の勧めで、アフリカ系アメリカ人のキャラクター「フランクリン(Franklin)」を4コマ漫画に登場させます。1968年はテト攻勢(Tet offensive) が始まりベトナム戦争の潮目が変わる頃です。シュルツは、黒人のキャラクターを加えることはアフリカ系アメリカ人のコミュニティを見下すことになると懸念しましたが、グリックマンは、黒人のキャラクターを加えることは、異なる民族の子どもたちの友情という考えを広めるのに役立つと説得したといわれます。フランクリンは、海辺を舞台にした3部作に登場し、まずチャーリー・ブラウンのビーチボールを水中から取り出し、その後、砂の城を作るのを手伝い、その間に父親がベトナムにいることを口にするといった場面が出ます。フランクリンが近隣に住み、地域の学校に通うのも当たり前のこととして描きます。フランクリンの誕生は、1968年にシュルツが社会主義的なファンとの間で交わした手紙の結果であったといわれます。

シュルツは、他にもさまざまなテーマに対して風刺的な言葉を投げかけています。彼の子どもや動物のキャラクターは、大人の世界を風刺していきます。長年にわたり、彼はヴェトナム戦争から学校の服装規定、「新しい数学(New Math)」まで、あらゆることに取り組んでいきます。1962年5月のあるトピックには、「自由を守れ、アメリカの貯蓄債券を買え」と書かれたアイコンまでありました。1963年には、「5」という名前の少年をキャストに加え、その姉妹は「3」と「4」という名前とし、父親は彼らの家族名を郵便番号に変更するというコマを描きます。シュルツは、番号が人間のアイデンティティを支配する手段になると懸念し疑問を投げかけるのです。

また、近所の子どたちが雪だるま作りのリーグに参加しますが、チャーリー・ブラウンがリーグやコーチなしで自分で雪だるまを作ろうとするのです。ですがリトルリーグは、チャーリー・ブラウンらの行動を批判する場面があります。シュルツは、大人が支配するリトルリーグやお膳立てされた「組織的な」遊びを揶揄するのを忘れません。

「ピーナッツ」では、特に1960年代には、何度も宗教的なテーマに触れています。1965年のテレビ番組「チャーリー・ブラウン・クリスマス」では、ライナス・ヴァン・ペルト(Linus van Pelt)が欽定訳聖書(King James Version of the Bible)(ルカ2:8-14)を引用して、チャーリー・ブラウンにクリスマスとは何かを説明しています。シュルツは個人インタビューで、ライナスは自分の精神面を表していると述べています。「チャーリー・ブラウン・クリスマス」では宗教的な内容が明示されているため、シュルツの作品には明確なキリスト教のテーマがあると解釈する人も多いくらいです。

【話の泉ー笑い】その二十二 ルーシーと野球と

野球はアメリカの魂のスポーツといわれます。そのためか、「ピーナッツ」には野球をめぐる笑いやユーモアのコマが目立ちます。チャーリー・ブブラウンはチームの監督であり、通常は投手であり、他のキャラクターはチームの他のメンバーとなっています。チャーリー・ブラウンはひどい投手であり、彼の努力にも関わらず打ち込まれたり、メンバーは彼をマウンドから叩き落とし、パンツ一枚にさせてしまうこともあります。しかし、チャーリー・ブラウンはごく稀な例外を除いて毎試合登場し、雨が降ってチームのみんなが帰宅してもその場に留まるのです。

Lucy

チャーリー・ブラウンは何度負けても、シーズン開始時には楽観的で、いつも「優勝まであと一歩、あと一歩」と励まします。チャーリー・ブラウンさえも「なぜか勝てない」と呟くのですが、チームは何度か勝利しており、そのほとんどはチャーリー・ブラウンがいないときなのです。そのため、チャーリー・ブラウンはいつもこの事実を深く悲しくは思っています。

チャーリー・ブラウンは、スタンドにいる赤毛の少女に気づいて、とても緊張します。チャーリー・ブラウンは、スタンドにいる彼女に気づくと、体が震えてピッチングができなくなり、ライナスに交代してもらうほどです。チームが勝った後、赤毛の少女はライナスを抱きしめて駆け寄るのです。

ロヤンヌ(Royanne Hobbs)と対戦したチャーリー・ブラウンは、初のホームランを打ちチームの勝利に貢献します。再びロヤンヌと対戦し、チャーリー・ブラウンは再度ホームランを打ち、チームのために試合に勝ちます。ロヤン・ホブスが後でチャーリー・ブラウンにホームランを打たせたことを認めると、チャーリー・ブラウンはショックを受けるのです。

【話の泉ー笑い】その二十一 ピーナッツと野球

原作者のシュルツは、登場するキャラクターのスポーツを通して、試練や達成感、喜怒哀楽をユーモラスに描いています。弱小草野球チームの監督兼投手がチャーリー・ブラウンです。メンバーの放言と好き勝手な行動に呆れ、連戦連敗にへこみ、ピッチャー返しで吹っ飛ばされ続けても、彼の野球愛はとどまることをしりません。 負けたチームから「君のチームに負けたせいで馬鹿にされている」と抗議されるほどなのです。勝ったのはライナスの弟リラン(Rerun) が出場した試合と、チャーリー・ブラウンが参加していない試合のみです。映画「スヌーピーとチャーリー」では、負傷し退場した場面もでてきます。

Ahuuu!

一見すればチャーリー・ブラウンが無能だからと思われがちですが、実際はルーシーを始めとするチームメイトのやる気と協調性の無さもあり、必ずしも彼一人のせいではないのですが、、、。実にコミック始まって以来43年目の1993年に発表されたエピソードでは生涯初のホームランを打ち、サヨナラ勝ちを記録しているほどです。また、ある回では試合には負けたもののルーシーを外した試合で善戦したこともあるくらいです。このときの敗因は、ボールをキャッチをしようとしたスヌーピーにルーシーが野次を飛ばし、エラーをさせたためです。

Peanuts gangs

アメフトのコマでは、ルーシーが押さえているボールをチャーリー・ブラウンが蹴ろうとするとルーシーが直前にボールを取り上げてしまい、チャーリーは派手に転倒します。ルーシーはこれを気に入っているようで折にふれてチャーリー・ブラウンを誘おうとし、チャーリー・ブラウンも彼女に乗せられる形でいつも醜態をさらしてしまうのです。ある時、チャーリー・ブラウンがボールを蹴ろうとした足がルーシーの手に当たってしまい、骨折させたことがあります。その後、ルーシーがリランにボールを託したためにボールを蹴られ、ルーシーは大変悔しがる場面があります。

ペパーミント・パティは、勉強が苦手で成績はDマイナスが多いのです。一度Zマイナスにされたこともあり、この時はさすがに「これは評価ではなく私に対する皮肉です」と校長へ抗議を申し入れ、Zにまで上げさせたことがあります。スポーツは得意で、野球チームも持っていて、チャーリー・ブラウンのチームにはいつも圧勝しています。パティは都合の悪いことがあると根拠もなく他人のせいにする悪い癖がありますが、チャーリー・ブラウンを「チャック(Chuck)」と呼び、思いを寄せている女の子です。