アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その19 『Hawkeye Stateとマディソン郡の橋』とアイオワ州

この州は、中西部ウィスコンシン州の西側に位置します。州都で人口最大の都市はデモイン(Des Moines)で、「アイオワ」(Iowa)という名前は数多く住んでいたインディアン部族の中のアイオワ族から採られています。デモインは大統領選挙においても重要な所となっています。その理由はアイオワ州は1972年以降、全米で最初に党員集会(caucus) が行われる州となっているからです。党員集会では、大統領候補を選出する全国党大会に出席する代議員を選ぶのです。党員集会によって大統領候補者を決めるので、デモインは全米から注目されるのです。

Roseman Bridge

アイオワ州は、元はフランスのヌーベルフランス(Nouvelle-France、英語でNew France)と呼ばれた植民地でした。アメリカがフランスからルイジアナを買収後、この地に開拓者が農業に基づく経済の基礎を作ります。やがて「コーンベルト」(Corn Belt)と呼ばれる穀倉地帯の中心となります。「世界の食糧の首都」と呼ばれるのが州都デモインです。

Iowa Hawkeeye

クリント・イーストウッド(Clint Eastwood)とメリル・ストリープ(Meryl Streep)主演の映画『マディソン郡の橋』(The Bridges of Madison County)は、アイオワ州マディソン郡(Madison County)が舞台となっています。イタリアからやってきて夫や子どもとともにアイオワ州マディソン郡に住んでいる女性フランチェスカ・ジョンソン(Francesca Johnson)が、家族の留守中に、この郡にある屋根付橋の撮影にやってきた写真家ロバート・キンケイド(Robert Kincaid)と出会い恋に落ちるのです。この屋根付橋は、ローズマン・ブリッジ(Roseman Bridge)と名付けられています。

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その18 『Hoosier State』とインディアナ州

インディアナ州(Indiana)はイリノイ州の東側、オハイオ州の西側に位置しています。19世紀初頭、多くのヨーロッパからの移民が西に向かい、インディアナ州に定住します。インディアナ州に定住した最大の移民グループは、ドイツ人であり、アイルランドやイギリスからの移民も多くやって来ました。1811年にオハイオ川(Ohio River)に蒸気船が、1829年にリッチモンド(Richmond)にナショナルロード(National Road)が開通し、インディアナ州北部・西部への入植が大きく促進されることとなります。州都はインディアナポリス(Indianapolis)です。

インディアナポリスが州都になった後、新政府はインディアナを開拓地から発展し人口が増えます。繁栄する州にするための努力によって、人口動態と経済の著しい変化が始まります。1836年、州の創設者は、道路、運河、鉄道、州負担の公立学校の建設につながるプログラム「インディアナ・マンモス内部改善法」(Indiana Mammoth Internal Improvement Act)を施行します。この計画は州を破綻させ、財政的に大打撃を与え、土地と農産物の価値は4倍以上になります。この危機を受け、再発防止のため、1851年に第二憲法が採択されます。その条項の中には、公的債務の禁止とアフリカ系アメリカ人への参政権の拡大が含まれます。

毎年5月に開催されるアメリカの自動車スポーツイベントが、インディ500 (Indy 500) です。インディ500は、練習走行・予選・決勝レースなどのレースプログラムから成ります。世界の周回レースカテゴリーの中でも最も速いといわれ、最高速度は380km/hに達するとされます。日本人のドライバーもこの大会で過去2回優勝しています。

Wheat Field

インディアナ州の人々は「フージャー」(Hoosier) と呼ばれています。この言葉の語源は諸説あるようですが、一説ではアップランドサウス(Upland South)地域で野卑な田舎者を指す蔑称から由来するとわれます。不器用な人、といった意味だそうです。それで州のネックネームは「Hoosier State」と呼ばれます。

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その16 『Land of Lincoln』とイリノイ州

イリノイ大学(University of Illinois)があるのは、アーバナ・シャンペイン(Urbana-Champaign)という大学街で、友人のデルウイン・ハーニッシュ氏(Delwyn Harnisch)が同大学心理教育学部の教授をしていました。彼のエピソードです。ネブラスカ大学(University of Nebraska)から招聘を受けたとき、心理教育学部長に、ネブラスカ大学から示された給与額を伝えます。もし、心理教育学部が同額に近い給与を出せばイリノイ大学に残るといいます。学部長はそれは無理であるという回答だったのでネブラスカ大学へ移ることにした、という話です。このように給料の交渉ができるのがアメリカの大学の面白いところです。有名教授ならではのエピソードです。ハーニッシュ教授を兵庫教育大学に半年間客員教授として招いたことがあります。温泉や露天風呂が好きな人でした。

シカゴ

肝心のイリノイ州の紹介です。歴史は現代になり1900年になると、イリノイ州北部の都市では産業が盛んとなり、中部や南部では石炭の採掘が増えます。それと同時に東欧や南欧からの移民が集まるようになります。南部からの大移動により、シカゴ(Chicago)を中心にアフリカ系アメリカ人のコミュニティが形成され、有名なジャズやブルースの文化も栄えます。今やシカゴは文化、経済、人口の中心地となり、今日では世界の主要な商業都市の一つとなりました。

ガレーナという街

イリノイ州からは3人の歴代大統領を輩出します。エイブラハム・リンカーン(Abraham Lincoln)、ユリシーズ・グラント(Ulysses S. Grant)、バラク・オバマ(Barack Obama)です。さらにロナルド・レーガン(Ronald Reagan)は同州で生まれ育った大統領です。現在、イリノイ州はリンカーンを称え、州の公式スローガン「Land of Lincoln」を掲げており、1954年からナンバープレートに表示されています。州都スプリングフィールド(Springfield)にはリンカーン大統領図書館・博物館があり、シカゴには近いうちにバラク・オバマ大統領センターが建てられる予定でです。

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その15 『Gem State』とアイダホ州

私はアイダホ州(Idaho)を訪ねたことはありません。ですが琉球の那覇にいたとき公設市場で、アイダホポテト(Idaho potato)と名前がついたトウモロコシ袋を見ました。このトウモロコシは実に大きく、北海道で食べていたのよりも大きいのに驚きました。後にこのポテトは、マクドナルドなど提供されるフライドポテトになることを知りました。

Idaho Potato Truck

アイダホ州の地理ですが、北はカナダのブリティッシュ・コロンビア州(British Columbia)、東はアメリカのモンタナ州(Montana)とワイオミング州(Wyoming)、南はユタ州(Utah)とネヴァダ州(Nevada)、西はオレゴン州(Oregon)とワシントン州(Washington)に接しています、ワイオミング州との州境はイエローストーン国立公園(Yellow Stone National Park)の一部を含んでいます。

人口の10分の9以上がヨーロッパ系で、ほとんどの人はイギリス、ドイツ、アイルランド、フランス、イタリア、ポーランドに祖先を持つ人々です。ヒスパニック系(Hispanic)は人口のほぼ10分の1を占めています。また、ネイティブアメリカン、アジア人、アフリカ系アメリカ人の割合もわずかながら存在します。アイダホ人の半数近くが教会員であり、その約3分の1がモルモン教徒(Mormon)でです。モルモン教本部がソルトレークシティ(Saltlake City)に近いことから、ユタ州の宗教的な結びつきは強く、州南東部のいくつかの都市では、人口の9割以上がモルモン教徒(Mormons)といわれます。

White Pine

アイダホ州は、スネークリバー平野(Snake River plain)の灌漑地域を中心に、アメリカでも有数の豊かな農地となっています。前述しましたが、農作物のなかでもジャガイモはアイダホ州の代名詞となっており、アメリカのジャガイモ生産量の約3分の1を占めているほどです。小麦、レンズ豆、大麦、オート麦、甜菜、エンドウ豆の種も重要な農産物収入源となっています。草原地帯だけでなく、山岳地帯の台地にも肉牛や羊の大群が放牧されています。州面積の5分の2近くが森林であり、毎年大量の木材が商業用材地から切り出されています。主にダグラスファー(douglas fir)、ポンデローサ・パイン(ponderosa pine)、ウエスタン・ホワイト・パイン(western white pine)が商業用材として家屋の建設に使われています。どうもこの州は松の木が知られているようです

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その14 『ジェームス・クック』とハワイ

もともとハワイの原住民は、漁業と農業に非常に長けていました。18世紀後半になると、彼らの共同体は酋長と司祭によって定められた厳格な法

Captain James Cook

体系を持つ複雑なものへと発展していきます。彼らは、古代ギリシャのオリンポス山(Mount Olympus)の神々に似た性格と力を持つ神々を崇拝し恐れていたのです。

外国人がハワイに来るようになったのは、1778年にイギリスのキャプテン、ジェームス・クック(Capt. James Cook)がハワイを訪れてからです。その後40年間、ヨーロッパとアメリカの探検家、冒険家、捕獲者、捕鯨船が新鮮な物資を求めてハワイ諸島に立ち寄りました。これらの接触は島の人々に大きな影響を与えることになります。たとえば、東洋と西洋から病気が持ち込まれ、それまで病気とは無縁だった島民に免疫のない病気が入ってきます。コレラ、はしか、性病、結核などの病気は、一時島民の人口を大きく減少させます。

Immersion School

ハワイの公用語は英語とハワイ語の2つです。ハワイ語は、1990年代前半には、ごく一部のハワイ先住民にしか話されず、ほぼ消滅していました。しかし、ハワイ語イマージョンスクール(immersion schools)の設立により、ハワイ語を話す新しい世代が生まれ、現在では幼稚園から大学院までハワイ語での教育が行われています。また、ハワイ語は地名や通りの名前、歌の中にも残っています。また、ハワイに住む人の多くは、ハワイアン・クレオール英語(Hawaiian Creole English)と呼ばれるものを話すことができます。一般的にピジン(pidgin)と呼ばれるハワイアン・クレオール英語は、ハワイのプランテーションキャンプ(plantation camps)という多言語環境の中で作り出された英語の方言です。

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その13 『Aloha State』とハワイ州

ハワイ州(Hawaii)のニックネームは、 アロハの州(Aloha State)とかパイナップルの州(Pineapple State)と呼ばれています。ハワイは、マーク・トウェイン(Mark Twain)によって「どの海にも停泊している最も美しい島々の艦隊」と評されました。ハワイという名前は、ポリネシア人(Polynesians)の祖先が住んでいたライアテア(Raiatea)の旧名、ハワイキ(Hawaiki)に由来すると考えられています。人々のハワイへの移住は、4世紀から7世紀にかけてマルケサス諸島(Marquesas Islands)から北西に移動したポリネシア人によって行われます。その後、9世紀から10世紀にかけてタヒチ(Tahiti)から移住してきた第2次移民が続いたと人類学者は考えています。1970年代に始まったハワイでのカヌーや伝統的な航海術の復活は、そのことを示唆しています。しかし、ハワイとポリネシアの人々の間には、言語や文化において類似性があるのですが、ハワイ文化が独自の特徴を持つに至ったのは興味あることです。

Tahitians

ハワイは経済的に活発で、農業や製造業が盛んです。海洋学、地球物理学、天文学、衛星通信、生物医学の研究開発など、国内および国際的に重要な活動を行っています。「太平洋の十字路」(Crossroads of the Pacific)とも呼ばれるハワイ州は、アメリカのグローバルな防衛システムにとって戦略的に重要であり、太平洋盆地の交通の要所としての役割を担っています。また、文化の中心地であり観光のメッカでもあります。

ポリネシア群島

ハワイ州の面積は、西のクレ島(Kure Island)から東のハワイ島(Hawaii Island)まで2,400kmの三日月状に伸びる8つの島と124の小島を形成する火山列島の頂部で構成されています。それぞれの火山は、太平洋プレートの通過時に、太平洋中央部の地下にある地球の上部マントルが上昇し、地殻を溶かす領域を通過し、噴出したマグマが地殻に質量を加えてできたものといわれます。

Polynesian Cultural Center

火山活動は、マウナロア(Mauna Loa)、キラウェア(Kilauea)海山の活火山を除いて休止状態になっています。マウナロアとキラウェアは、最大の島ビッグアイランド(Big Island)と呼ばれるハワイ島の最東端にあり、壮大な噴火と溶岩流が時々起こっています。ハワイで最も高い山は、ハワイ島のマウナ・ケア(Mauna Kea)とマウナロアで、それぞれ海抜4,205メートル、4,169メートルに達しています。マウナ・ケア山頂付近は天候が安定し、空気が澄んでいることもあり、世界11ヶ国の研究機関が合計13基の天文台を設置しています。