ウクライナの歴史から学ぶ その四 キーウ・ルーシ公国

ペチェネグが10世紀から11世紀にかけて南ウクライナを統治しますが、ダッタン人(Polovtsian) によって征服されます。こうした遊牧騎馬民族の侵略により、クリミア半島のケルソネソス・タウリケといったギリシャ植民地は脅かされます。スラブ人やバルカン人は草原地帯を占拠し、今の西部や中央部、南ベラルーシを占領し、やがて北部、北東部へ侵攻し、モスクワを中心とするロシア帝国の礎を築いていきます。東スラブ人は農業や畜産を営み、衣料、陶器作りを営みながら、植民地を要塞化して、重要な商業や政治の中心地としていきます。その例はドニプロ川の西岸に造られたキーウ(Kiev)です。キーウ公国は9世紀に始まります。

Kiev

この公国はキーウ・ルーシ(Kiev-Rus)と呼ばれ、バリヤーク(Varangians)出身の公を宗主とします。ルーシは国際貿易を促進し、ドニプロ川によってバルト海から東ローマ帝国といわれるビザンチンを結んで発展します。その戦略的拠点となったのがキーウです。こうした征服者はやがてスラブ化し、ビザンチンからキリスト教を受け容れていきます。ウラジミール一世(Vladimir I)はバリヤークの王ではなく、スラブ公となります。首都のキーウは、東方正教会の統治化になり、スラブ公は、コンスタンチノープルの総司教によって任命されます。ウラジミール一世の息子、ヤロスラブ(Yaroslav)の治世下で、建築、美術、音楽、旧教会スラブ語(Old Church Slavonic)などが広がり、文学や芸術が発展していきます。ヤロスラブは、ヨーロッパ諸公との姻戚を広げ、友好関係を結んでいきます。さらに現在のベラルーシ、その中心であるポラック(Pololsk)は非常に発展していく地帯となります。ノヴォゴロド(Novgorod)も同様に発展し、やがて北東にあるウラジミール・スーズダル(Ulagimir-Suzdal)という都市が形成され、12世紀からはロストフ・スーズダル(Rostov- Suzdal)公国となります。後にモスクワ(Moscow)へと発展し、後のロシア連邦の中心都市となります。

ペチェールスカ大修道院


ボルイン地方(Volhynia)のボルドミヤ(Volodymyr II Monomak)とドニエストル川(Donestre River)の沿岸にガリツィア(Galicia)という2つの公国がありました。ボルドミヤのロマン公(Prince Roman)は、両国を統合し、ガリツィア・ボルドミヤ公国を創始します。そのとき造られた新しい都市がリビュ(Lviv)です。リビュはポーランド、ビザンチン、ハンガリーとの貿易で栄え、大きな富を蓄えていきます。こうして、ウクライナ領内には、ルーシとガリツィア・ボルドミヤ公国が発展し、重要な大都市圏となります。このように11世紀から12世紀にかけて2つの公国は西方や北方へと拡大していきますが、1240〜1241年のモンゴル・タタール(Mongol-Tatar)遊牧騎馬民族の侵略によって滅びます。このモンゴル遊牧政権は「Tatar Golden Horde」と呼ばれ、別名「ジョチ・ウルス」と名乗ります。ローマ帝国終焉の1340年までさまざまな角逐が続きます。

リトアニア(Lithuania)は14世紀末までに東方と南方に急速に勢力を拡大し、現在のベラルーシ全域、ウクライナ全域、ポーランドの一部、ロシアの一部を領土とする、ヨーロッパ最大の国家となっていきます。その勢力は、ウクライナ全土におよび、その勢力は草原地帯から黒海にまで及んでいきます。ウクライナ人とベラルーシ人による東スラヴ系のルテニア(Ruthenian)は自治を維持していました。ルテニアは、西ウクライナのウクライナ人の古称です。ウクライナ人は東方正教会へと帰依していきます。1386年にポーランド・リトアニア両王朝は合体し、ウクライナはポーランド人進出の舞台となります。ポーランド国境は、広大で人口が希薄なウクライナを東進していきます。農民は新たな領主により賦役を課せられ、東南方へと逃れる農民も多く、このような逃亡農民がやがてコサック(Cossacks)となります。コサックとはトルコ語で「自由人」とか「無法者」という意味です。コサックの脱出地はドニェプル川下流の広大な無人の原野で、そこにザポリージャ(Zaporizhazia)という開拓地が生まれます。

16世紀初頭、ポーランドの諸公やモスクワの大公はタタール民族の侵入を防ぐために、コサックを屯田兵化します。16世紀末にはザポリージャ・コサック(Zaporizhzhya Cossacks)もドン・コサック(Don Cossacks)も土地を所有し定住生活に入ります。1569年、ポーランドとリトアニアは合体し、ウクライナはリトアニアから分離されポーランドへ編入されます。

ウクライナの歴史から学ぶ その三 民族の流入

紀元前7世紀から6世紀になると、多くのギリシャ植民地(Greek Colony)が黒海北岸、クリミア半島(Crimean Peninsula)、アゾフ海岸 (Sea of Azov) 沿いにつくられます。こうした地帯はギリシャの軍事上の前哨地帯となり、やがてローマ帝国(Roman Empire) の統治下となります。紀元前1世紀ころ、草原の後背地はキンメリア人(Cimmerians)やスキタイ人(Scythians)、サルマート人(Sarmatians)によって占領されます。こうした民族はイラン人(Iranian)の祖先で、ギリシャ植民地とともに商業や文化を発展させていきます。

Crimean Peninsula

紀元後200年頃、民族の大移動が始まり、バルト海(Baltic)地帯からゴート人(Goths)がウクライナに流入し定住します。ゴート人はサルマート人を追放しますが、375年にアジアの遊牧民フン族(Hun)によって追われます。5〜6世紀にかけてブルガリア人(Bulgars)やアヴァール人(Avars)というコーカサス(Caucasus)民族によってフン族は征服されます。やがてゲルマン民族(Germanic)の移動とともに、5世紀から6世紀にかけてカルパティア山脈(Carpathians)地帯に住んでいたスラブ(Slavic)民族の西への移動が始まります。その一部はバルカン半島へと向かいます。バルカン半島の西部や南部に移動するスラブ人の他に、別のスラブ人は今のウクライナの西部や中央地域の森林・草原地帯や南部ベラルーシ(Belarus)を占領していきます。

Cathedral of Crimea

7世紀から9世紀にかけて、ウクライナの草原地帯にテュルク系民族のバザール(Turkic Khazar)商業帝国が誕生します。ボルガ川(Volga River) 下流の中央地帯です。9世紀になるとマジャル人(Magyars)と呼ばれるハンガリア民族によってバザール帝国は駆逐されます。8世紀から9世紀にかけて、ペチェネグ(Pechenegs)というカスピ海(Caspian Sea)北の草原から黒海北の草原で形成された遊牧民の部族が支配しますが、10世紀になるとダッタン人(Polovtsian)にとって代わります。遊牧農耕民族の侵入がありますが、ビザンチン帝国(Byzantine Empire)の庇護下でクリミア半島南端のケルソネソス・タウリケ(Tauric Chersonese)といったギリシア植民都市は維持されます。ビザンチン帝国とは首都をコンスタンティノープル(Constantinople)とする東ローマ帝国のことです。

ウクライナの歴史から学ぶ その二 地名と地理

ウクライナという名称は「辺境」を意味するクライ(Krai)という語から由来し、12世紀頃から使われるようになります。先史時代から今日までのウクライナは、地理的に北西から南東に向かって三つの重要な土壌帯に分かれています。北西部の砂質のポドゾル(podzol)という強酸性土壌地帯、中央部のチェルノゼム(chernozem)という黒色草原土地帯、そして南東部の栗色土・含塩土地帯です。中央部の草原土地帯はウクライナ全土の48%を占め、黒土は最高16%までの腐植土を含み、その土の厚さは1.5mから2mで世界有数の肥沃な土壌となっています。それ故、小麦の生産が盛んです。

Wheat Harvesting

以上、3つの地帯の地理についてです。ポドゾル土壌地帯は黒海(Black Sea)の北側地帯です。現代の地中海(Mediterranean)の軍事・海防力地域となっています。チェルノゼム黒色草原地帯は、広大な草原(Steppe)で東側から中央部へと広がり、ドニプロ川(Dnieper River)に沿ってヨーロッパへの玄関口となり、ウクライナの穀倉地帯となっています。トリッピリア文化(Trypillya)という東ヨーロッパの考古文化が紀元前3世紀位まで栄えたところです。この草原地帯は、何世紀にもわたり、軍事衝突の場となり、同時に文化の交流の場ともなります。栗色土・含塩土地帯は、中央アジアからの騎馬遊牧民族がやってきたところです。ここから北部、中央ヨーロッパへと河川が通じています。

Ukraine

ウクライナの歴史から学ぶ その一 はじめに

今般、世界情勢の中心となっているウクライナ(Ukraine)は、私たちにとって別の世界の国ではありません。日本とも深い繋がりがあります。ウクライナ国の生い立ちや発展の過程は、地政学上の位置により多民族の交流、近隣諸国からの侵略や戦争などによる誠に激動の歴史です。ここではブリタニカ国際百科事典(Encyclopædia Britannica)や平凡社の世界百科事典からの資料などを通して、ウクライナの歴史を振り返ることにします。本稿では、正確を期すために最初に登場する国名や地名、氏名その他文化や宗教などの固有名詞はすべて英語でも表記します。これまでロシア語読みによる表記でキエフなどとして使われていた地名は、本稿では「キーウ」のようにウクライナ語読みによる表記とします。

Map of Ukraine

1991年12月のソビエト連邦(ソ連邦)(Soviet Union)の崩壊に至る前には、ロシア(Russia)もウクライナもソ連邦を構成する15の共和国の1つでありました。人口や経済的重要度において旧ソ連邦中、ロシアに続いて第二位です。ロシアを除けば、国土面積ではヨーロッパ最大で、人口はドイツ、イギリス、フランス、イタリアに次いでいます。

ウクライナの西部諸州では、ロシア系住民は10%以下、東部や南部諸州では10%〜50%を占めます。クリミア半島では70%に及ぶといわれています。ウクライナ西部は、かつてオーストリア(Austria)・ハンガリー(Hungary)帝国に帰属し、宗教もローマカトリック教会(Roman Catholic Church)、東方正教会(Greek Orthodox Church)、超正統派ユダヤ教(Hasidism)、イスラム教(Islam)の影響が残っていて、ロシアからの独立志向が強い地域であります。

これから考察していきますが、ロシアはウクライナに対して「同じルーツを持つ国」という意識を強く持っていています。様々な根深い要素があって今やウクライナはロシアの侵攻を受けています。その経過をこれから詳しく調べることにします。

Evacuation from Kiev

本稿では、ウクライナの歴史を次のような目次で辿っていくこととします。
・地名と地理
・民族の流入
・キーウ・ルーシ公国
・リトアニアとポーランドの統治
・宗教的な発展
・ウクライナのコサック
・ロシア皇帝とレーニンの登場
・ウクライナのルネッサンス
・第一次世界大戦とロシア革命
・第二次世界大戦とスターリン
・ペレストロイカ
・オレンジ革命とマイダン革命
・ロシアによるウクライナ侵攻

ナンバープレートを通してのアメリカの州  その五十九  ヴァージン諸島

この稿をもちまして、「ナンバープレートを通してのアメリカの州」の紹介は終わりです。ご笑覧やコメントをありがとうございます。

ヴァージン諸島(Virgin Islands of the United States)は、西インド諸島にあるアメリカ合衆国の自治領です。40位の島々はほとんどが無人島です。住民がおり、一般の観光客が訪れる主要な島はセント・トーマス島(Saint Thomas)、セント・クロイ島(Saint Croix)、セント・ジョン島(Saint John)の3島で、主都はセント・トーマス島のシャーロット・アマリー(Charlotte Amalie)となっています。シャーロット・アマリーは、デンマークの王妃の名前にちなみます。なおヴァージン諸島の東側はイギリス領ヴァージン諸島となっています。

Charlotte Amalie

1493年11月、クリストファー・コロンブスは最初にセント・クロイ島に到達し、サンタ・クルース(Saint Crus)と名付けて上陸します。その後、セント・トーマス島、セント・ジョン島と命名していきます。1625年には、イギリス、フランス、オランダ、スペイン、デンマークがセント・クロイ島に入植し農業を始めます。しかし、収穫は少なく、病気と過酷な奴隷制度により、わずかなカリブ族(Caribbean)しか生き残らなかったという記録があります。

Virgin Islands

1733年にデンマークはフランスよりセント・クロイ島を買収し領有権を得ます。その後、デンマーク領西インド諸島 (Dansk Vestindien) と称し、デンマーク国王に任命された総督によって統治される体制となります。その後、1764年に自由港として公認され、西インド諸島における交易の中心地として栄えます。

デンマーク統治下の各島では、インディアン奴隷がいなくなったため、アフリカ人奴隷が初めて島に連れて来られます。デンマーク統治下の各島では、こうした奴隷を使ってサトウキビとタバコ農園が経営されます。後にコーヒーや砂糖も生産されるようになります。

やがてデンマークは、植民地としての関心を失い、20世紀初頭にアメリカ合衆国が買収します。すなわち、第一次世界大戦が勃発すると、合衆国はパナマ運河をドイツ軍から防衛するためにこの地を求め、1917年にデンマークから 2,500 万ドルで購入します。それにより、島民は合衆国の市民権と自治政府、投票権を得ます。しかし未編入領域であるため、現在もアメリカ領ヴァージン諸島の人々は合衆国の大統領には投票できません。

ナンバープレートを通してのアメリカの州  その五十八  北マリアナ諸島(Northern Mariana Islands)

サイパン島(Saipan Island)やテニアン島(Tinian Island)、ロタ島(Rota Island)などの14の島から成るアメリカ合衆国の自治領が北マリアナ諸島 (Commonwealth of the Northern Mariana)です。主都はサイパン島(Saipan)のススペ(Susupe)となっています。グアム島と北マリアナ諸島は別の行政区となっています。

Northern Mariana Islands

マリアナ諸島には、先住民のチャモロ人(Chamorro)とカロリニアン人(Carolinian) の2つの民族がいます。チャモロ人は東南アジア方面から、カロリニアン人はカロリン諸島から渡って来たとされています。1521年にフェルディナンド・マゼラン(Ferdinand Magellan) がこの島々を発見します。マゼラン隊はこの島に立ち寄った直後にチャモロ人といざこざを起こし、報復行為として彼らを虐殺したという記録があります。

北マリアナ諸島の歴史です。1565年には、スペインがサイパンの領有を宣言し、以後約300年に渡りスペインの統治が続きます。1898年に米西戦争でスペインが敗れたためサイパンをドイツに売り渡します。1914年に第一次世界大戦が勃発し、連合国側についた日本軍はドイツ領マリアナ諸島に侵攻し実効支配します。その後発足した国際連盟において、マリアナ諸島は日本の委任統治領と認められ、サイパン島を中心に日本人による殖産興業が進められていきます。プランテーションにおける労働力、港湾荷役労働者、貿易商として、主に沖縄県出身者や台湾、朝鮮からの移民が定住していきます。サトウキビやコーヒーなど農産物が栽培され、ススペはその集散地となると共に、南洋群島有数の貿易港として発達していきます。太平洋戦争末期の1944年6月に連合国軍がサイパンに上陸し、アメリカ軍の軍政下に置かれます。

­Old Shrine Gate

カロリニアン文化はチャモロに比べると「自分たちはカロリニアン人である」という民族としての独自性が強いといわれ、今でも伝統舞踊、機織りや工芸、カヌー作り、海洋技術といった古来の伝統文化を受け継いでいます。

ナンバープレートを通してのアメリカの州  その五十七 グアム–Gateway to Micronesia

グアム(Guam)は、太平洋にあるマリアナ諸島南端の島でアメリカ合衆国の準州となっています。1898年のアメリカとスペインの間で勃発した米西戦争によって合衆国の海外領土となります。主都はアガーニャ(Hagatna)で、公用語は英語、チャモロ語です。

大航海時代の1521年に、ポルトガル出身のスペインの航海者マゼラン(Ferdinand Magellan)がヨーロッパ人として初めてグアム島に到着します。マゼランの探検は、ヨーロッパからアフリカ南岸を経てインドへ航海したポルトガル人ヴァスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gam)の影響を受けています。ガマの大航海によってポルトガルは当時の海上帝国を築いたといわれます。

Island of Guam

グアムの現地の人々、チャモロ族(Chamorro) は、約3500年前にグアムにやって来たようです。ミクロネシア(Micronesia)のマリアナ諸島(Mariana Islands)の先住民といわれます。スペインがグアムを植民地化したのは1668年です。16世紀から18世紀にかけてグアムは、大型帆船にとってスペインとフィリピンを結ぶ大事な寄港地となります。

1944年にアメリカ軍が日本軍を追放し、アメリカの統治化となります。それ以降、この島の経済は、巨大な空軍基地からの投資によって潤います。観光業、農業、漁業が主要な経済基盤ですが、近年は観光業が産業の大部分を占めています。

チャモロ文化の中にはチャモロ語の他、チャモロ料理、チャモロ音楽、チャモロダンスなどがありますが、代表的な遺物といえば「ラッテ・ストーン」(Latte Stones)です。グアムやサイパンなどの北マリアナ諸島に残されている巨大石柱群です。ラッテ・ストーンの遺跡が島々にあります。大昔、チャモロ族が柱の上に家を建て、そこを人々の集会所にしたという説や、人々の埋葬の場所としていたという説もあります。後者の証拠として、動物の骨、魚、壺などが発見されたことです。

チャモロ料理の代表的なものは、レッドライスやケラグエン(Shrimp Kelaguen)とか、ココナッツミルクを使った料理も多くあります。甘さ・辛さ・酸っぱさのいずれかが濃厚に現れているのがチャモロ料理の特徴です。大家族社会であるグアムでは、各料理は大量に作って各自で分ける大皿料理スタイルが主流となっています。バーベキューとともにローカルのパーティーには必ず登場するのが大皿料理です。

主都アガーニャには、チャモロ・ビレッジ(Chamorro Village) があります。チャモロ文化を紹介するために作られた街です。スペインの植民地時代に持ち込まれた赤レンガの屋根に白壁の建物が並び、チャモロ料理のお店やお土産物屋が揃っています。是非立ち寄りたいところです。

横井庄一氏の帰国

1972年1月に、28年間に及ぶグアム島のジャングルで生きていた横井庄一氏が発見されました。満57歳で日本に帰還したのは大きな話題となりました。

ナンバープレートを通してのアメリカの州  その五十六 プエルト・リコ–Island of Enchantment

カリブ海(Caribbean Sea)に浮かぶ複数の島で構成されるプエルト・リコ(Puerto Rico)は、「富める港」という意味だそうです。かつてはスペインの植民地でしたが、現在はアメリカ合衆国の自治領となっています。マイアミから飛行機でわずか 2 時間のところにあります。鹿児島県と同じ面積です。西に80キロの海峡を隔ててハイチ(Haiti)、ドミニカ(Dominica)共和国があります。他のカリブ海の島々に比べて奴隷制が拡大しなかったので、白人の割合が多いのがプエルトリコです。主都はサンフアン(San Juan)です。

Map of Puerto Rico

1493年にコロンブス(Columbus)が島に上陸します。そしてサンファン・バウティス島と名付けます。先住民族はインディヘナ(Indígena)、またはインディオ(Indio)と呼ばれています。やがて奴隷として連れてこられたアフリカ系黒人、ヨーロッパ系白人、中国人などの血が混ざっていきます。インディオはスペイン系征服者たちにより長年呼ばれてきたために階級的劣位者あるいは卑俗な民というニュアンスで用いられることが多いようです。現在はスペイン系が約76%を占め、通称プエルトリカン(Puerto Rican)と呼ばれます。

Castillo San Felipe del Morro

1898年にアメリカ合衆国とスペイン帝国の間で起きた争いは米西戦争と呼ばれます。パリ講和条約によって敗れたスペインはプエルト・リコをアメリカに渡し、1917年には住民もアメリカ市民としての権利を得ます。そして1952年、憲法によりアメリカの自由連合州として内政自治権を獲得して以来、アメリカとの半独立関係を保持しています。

プエルト・リコは知事を合衆国大統領が任命する直轄領となります。アメリカ合衆国の領土となったプエルト・リコでは主権を求める完全独立派、アメリカ合衆国を構成する一州への51番目の州昇格派、現状のまま自治権の拡大を求める自治権拡大派が対立しています。しかし、独立派は少数となっています。