ペチェネグが10世紀から11世紀にかけて南ウクライナを統治しますが、ダッタン人(Polovtsian) によって征服されます。こうした遊牧騎馬民族の侵略により、クリミア半島のケルソネソス・タウリケといったギリシャ植民地は脅かされます。スラブ人やバルカン人は草原地帯を占拠し、今の西部や中央部、南ベラルーシを占領し、やがて北部、北東部へ侵攻し、モスクワを中心とするロシア帝国の礎を築いていきます。東スラブ人は農業や畜産を営み、衣料、陶器作りを営みながら、植民地を要塞化して、重要な商業や政治の中心地としていきます。その例はドニプロ川の西岸に造られたキーウ(Kiev)です。キーウ公国は9世紀に始まります。
この公国はキーウ・ルーシ(Kiev-Rus)と呼ばれ、バリヤーク(Varangians)出身の公を宗主とします。ルーシは国際貿易を促進し、ドニプロ川によってバルト海から東ローマ帝国といわれるビザンチンを結んで発展します。その戦略的拠点となったのがキーウです。こうした征服者はやがてスラブ化し、ビザンチンからキリスト教を受け容れていきます。ウラジミール一世(Vladimir I)はバリヤークの王ではなく、スラブ公となります。首都のキーウは、東方正教会の統治化になり、スラブ公は、コンスタンチノープルの総司教によって任命されます。ウラジミール一世の息子、ヤロスラブ(Yaroslav)の治世下で、建築、美術、音楽、旧教会スラブ語(Old Church Slavonic)などが広がり、文学や芸術が発展していきます。ヤロスラブは、ヨーロッパ諸公との姻戚を広げ、友好関係を結んでいきます。さらに現在のベラルーシ、その中心であるポラック(Pololsk)は非常に発展していく地帯となります。ノヴォゴロド(Novgorod)も同様に発展し、やがて北東にあるウラジミール・スーズダル(Ulagimir-Suzdal)という都市が形成され、12世紀からはロストフ・スーズダル(Rostov- Suzdal)公国となります。後にモスクワ(Moscow)へと発展し、後のロシア連邦の中心都市となります。
ボルイン地方(Volhynia)のボルドミヤ(Volodymyr II Monomak)とドニエストル川(Donestre River)の沿岸にガリツィア(Galicia)という2つの公国がありました。ボルドミヤのロマン公(Prince Roman)は、両国を統合し、ガリツィア・ボルドミヤ公国を創始します。そのとき造られた新しい都市がリビュ(Lviv)です。リビュはポーランド、ビザンチン、ハンガリーとの貿易で栄え、大きな富を蓄えていきます。こうして、ウクライナ領内には、ルーシとガリツィア・ボルドミヤ公国が発展し、重要な大都市圏となります。このように11世紀から12世紀にかけて2つの公国は西方や北方へと拡大していきますが、1240〜1241年のモンゴル・タタール(Mongol-Tatar)遊牧騎馬民族の侵略によって滅びます。このモンゴル遊牧政権は「Tatar Golden Horde」と呼ばれ、別名「ジョチ・ウルス」と名乗ります。ローマ帝国終焉の1340年までさまざまな角逐が続きます。
リトアニア(Lithuania)は14世紀末までに東方と南方に急速に勢力を拡大し、現在のベラルーシ全域、ウクライナ全域、ポーランドの一部、ロシアの一部を領土とする、ヨーロッパ最大の国家となっていきます。その勢力は、ウクライナ全土におよび、その勢力は草原地帯から黒海にまで及んでいきます。ウクライナ人とベラルーシ人による東スラヴ系のルテニア(Ruthenian)は自治を維持していました。ルテニアは、西ウクライナのウクライナ人の古称です。ウクライナ人は東方正教会へと帰依していきます。1386年にポーランド・リトアニア両王朝は合体し、ウクライナはポーランド人進出の舞台となります。ポーランド国境は、広大で人口が希薄なウクライナを東進していきます。農民は新たな領主により賦役を課せられ、東南方へと逃れる農民も多く、このような逃亡農民がやがてコサック(Cossacks)となります。コサックとはトルコ語で「自由人」とか「無法者」という意味です。コサックの脱出地はドニェプル川下流の広大な無人の原野で、そこにザポリージャ(Zaporizhazia)という開拓地が生まれます。
16世紀初頭、ポーランドの諸公やモスクワの大公はタタール民族の侵入を防ぐために、コサックを屯田兵化します。16世紀末にはザポリージャ・コサック(Zaporizhzhya Cossacks)もドン・コサック(Don Cossacks)も土地を所有し定住生活に入ります。1569年、ポーランドとリトアニアは合体し、ウクライナはリトアニアから分離されポーランドへ編入されます。