ウクライナの歴史から学ぶ その三 民族の流入

紀元前7世紀から6世紀になると、多くのギリシャ植民地(Greek Colony)が黒海北岸、クリミア半島(Crimean Peninsula)、アゾフ海岸 (Sea of Azov) 沿いにつくられます。こうした地帯はギリシャの軍事上の前哨地帯となり、やがてローマ帝国(Roman Empire) の統治下となります。紀元前1世紀ころ、草原の後背地はキンメリア人(Cimmerians)やスキタイ人(Scythians)、サルマート人(Sarmatians)によって占領されます。こうした民族はイラン人(Iranian)の祖先で、ギリシャ植民地とともに商業や文化を発展させていきます。

Crimean Peninsula

紀元後200年頃、民族の大移動が始まり、バルト海(Baltic)地帯からゴート人(Goths)がウクライナに流入し定住します。ゴート人はサルマート人を追放しますが、375年にアジアの遊牧民フン族(Hun)によって追われます。5〜6世紀にかけてブルガリア人(Bulgars)やアヴァール人(Avars)というコーカサス(Caucasus)民族によってフン族は征服されます。やがてゲルマン民族(Germanic)の移動とともに、5世紀から6世紀にかけてカルパティア山脈(Carpathians)地帯に住んでいたスラブ(Slavic)民族の西への移動が始まります。その一部はバルカン半島へと向かいます。バルカン半島の西部や南部に移動するスラブ人の他に、別のスラブ人は今のウクライナの西部や中央地域の森林・草原地帯や南部ベラルーシ(Belarus)を占領していきます。

Cathedral of Crimea

7世紀から9世紀にかけて、ウクライナの草原地帯にテュルク系民族のバザール(Turkic Khazar)商業帝国が誕生します。ボルガ川(Volga River) 下流の中央地帯です。9世紀になるとマジャル人(Magyars)と呼ばれるハンガリア民族によってバザール帝国は駆逐されます。8世紀から9世紀にかけて、ペチェネグ(Pechenegs)というカスピ海(Caspian Sea)北の草原から黒海北の草原で形成された遊牧民の部族が支配しますが、10世紀になるとダッタン人(Polovtsian)にとって代わります。遊牧農耕民族の侵入がありますが、ビザンチン帝国(Byzantine Empire)の庇護下でクリミア半島南端のケルソネソス・タウリケ(Tauric Chersonese)といったギリシア植民都市は維持されます。ビザンチン帝国とは首都をコンスタンティノープル(Constantinople)とする東ローマ帝国のことです。