日本にやって来て活躍した外国人 その二十九 メアリー・コンウォール・リー

コンウォール・リー(Mary Helena Cornwall Leigh)は、英国国教会(英国聖公会)の福音宣布教会(Society for the Propagation of the Gospel in Foreign Parts: SPG)が派遣する宣教師として来日します。東京を中心に8年間伝道活動に従事し、その後多くの施設を立ち上げ、ハンセン病(Hansen’s disease)患者のための生活や教育、医療に尽力したイギリス人女性です。

Mary Helena Cornwall Leigh

生地は英国のカンタベリー(Cantebury)で、父親は陸軍中佐、本家は男爵の家柄で一族専用の礼拝堂、司祭を有していたという裕福な家系です。十代で司祭によって感化されハンセン病者に奉仕しようと決心したようです。二十代のときロイヤル・カレッジ・オブ・アート(Royal College of Art)で水彩画を学んでいます。

リーは東京・神奈川・千葉で8年間の伝道活動に従事します。草津の光塩会の宿澤薫の要請を受けて1915年に草津を視察し、草津湯の沢で奉仕することを決心します。1916年に、病者の人間回復とその生活を支える「聖バルナバミッション」(St. Barnabas Mission)を立ち上げます。リーは私財を投じ、また内外からの献金を用いて、聖バルナバ教会、病者のための聖バルナバホーム、幼稚園・小学校、さらに聖バルナバ医院を設立し、その運営に尽力します。1,000人を超えるハンセン病者にキリスト教を伝えるとともに、一人ひとりの人格や人権を重んじる救済事業を展開します。後に「ハンセン病者のマザーテレサ(Mother Teresa)」と賞賛されます。

聖バルナバ教会

少し時間を戻します。草津には千年以上前から湯治の人が訪れていた温泉です。1869年の江戸の大火以来、ハンセン病患者の来訪が増えてきたといわれます。1887年以来ハンセン病の人々は草津の湯之沢に移住させられます。全国から温泉の効能を頼りにハンセン病者が集まり共同体を形成していたのです。内科医師のアーヴィン・ベルツ(Erwin von Balz)が温泉の効果を宣伝したのはその頃です。

日本にやって来て活躍した外国人 その二十八 ヴィレム・カッテンディーケ

オランダからやってきて活躍した人の話題が続きます。オランダの海軍軍人で後に政治家となったヴィレム・カッテンディーケ(Willem Johan van Kattendijke)のことです。1857年にペリーの黒船を見た徳川幕府はオランダに黒船のような軍艦を発注します。カッテンディーケは、完成したJapan(ヤパン)号を回送し、その艦長として大西洋、インド洋をまわり1857年に長崎に入港します。たった48.8mの木造艦で、やがて幕府の練習艦となります。

Willem Johan van Kattendijke

カッテンディーケは幕府が開いた長崎海軍伝習所の教官となり、2年に渡って勝海舟、榎本武揚らなどの幕臣に精力的に航海術・砲術・測量術などの近代海軍の教育を行います。特に勝海舟の能力を高く評価したといわれます。勝海舟は西洋式の海軍士官養成機関・海軍工廠である神戸海軍操練所を設立します。後に回想録『長崎海軍伝習所の日々』を著し、長崎の自然・風景や人々の風習や行事、日本人の態度などを記しています。薩摩藩11代藩主の島津斉彬、佐賀藩10代藩主の鍋島閑叟らの人物像なども記録します。島津や鍋島はアームストロング砲や蒸気船などに高い関心をもっていた人物です。

勝海舟

因みにヤパン号はやがて咸臨丸となり、1860年に勝海舟を船長とし、ジョン万次郎ら98名の日本人の遣米使節団一行が太平洋を横断してアメリカまで渡ります。カッテンディーケは帰国後は1861年にオランダ海軍大臣となり、一時は外務大臣も兼任します。オランダと日本の関係は医学のみならず、軍備、航海術、天文技術などに及びます。明治維新に拘わる日蘭関係、あるいはオランダの果たした役割は重要だったといえましょう。

ジョン万次郎

日本にやって来て活躍した外国人 その二十七 ポンペ・ファン・メールデルフォールト

オランダ海軍の二等軍医にポンペ・ファン・メールデルフォールト(Johannes Pompe van Meerdervoort)がいます。響きが良いせいか、親しみを込めて一般に「ポンペ」と呼ばれるオランダ人医師です。ユトレヒト(Utrecht)陸軍軍医学校で医学を学び軍医となります。幕末の1857年に来日し、オランダ医学を伝えた功績者です。

メールデルフォールトとその左が松本良順

当時、蘭医学は禁じられていました。将軍侍医で幕府の軍医であった松本良順は、他藩からきていた医師を自分の弟子としてポンペの講義を受けせます。多くの医師や幕臣以外の者も学べる塾がやがて手狭となると、松本は医学校建設を決意します。

ポンペは松本の奔走により作られた医学伝習所の開設にたずさわります。日本で初めて基礎的な科目から系統だった本格的な蘭方医の養成を始めます。医学伝習所は日本初の組織立ったオランダ医学の学校といわれます。ポンペは長崎で5年間にわたり医学を教えます。オランダ語や科学の基礎知識のない者に、言葉の壁を乗り越えて根気よく基礎から教えたポンペの努力と苦労が伝わってきます。解剖実習や臨床講義まで本格的な医学教育を行っていきます。ポンペが使ったカリキュラムは自分の受けたユトレヒト陸軍軍医学校に類似していたようです。

長崎養生所

松本がこの伝習所にいたころコレラが大流行し、自らも感染した折、その治療でポンペが見せた患者への身分にかかわらず接したことに松本は心をうたれたようです。こうして江戸時代の身分制度に大きな影響を与えていきます。滞在した5年間に14,530人もの患者を治療し、外国人によるコレラや梅毒の蔓延を阻止するために奔走します。こうして長崎の町の人々はポンペに次第に信頼と尊敬を寄せるようになっていきます。ポンペの熱望していた西洋式の養生所の建設が近づきます。

1861年9月に養生所が長崎港を見おろす小島郷の丘に完成します。養生所は医学所に付置された日本で最初の124ベッドを持った西洋式附属病院であり、長崎大学医学部の前身となります。

日本にやって来て活躍した外国人 その二十六  ハインリッヒ・ナウマン

ドイツの地質学者にハインリッヒ・ナウマン(Heinrich E. Naumann)がいます。1875年に明治政府の招きで来日し、やがて東大で地質学の初代教授となります。ところで、中学校の理科の教科書に登場するのが「フォッサマグナ」(Fossa Magna)です。新潟県の糸魚川―静岡構造線と呼ばれる大断層というか、日本の中央部にできた陥没帯を示す言葉です。日本中の地質調査を実施し日本列島の成り立ちを明らかにし、この巨大な地溝帯を発見しフォッサマグナと命名したのがナウマンです。フォッサとは溝とか穴という意味です。ラテン語マグヌス (Magnus) の女性形がマグナ (Magna) 「偉大な」と組み合わせ、フォッサマグナとは「偉大な溝」という意味だそうです。

Heinrich E. Naumann

日本列島はかつて、ユーラシア大陸の一部分で、そこから分離する際、列島そのものが刀のように折れてしまったというのです。折れた部分は海になりその後長い時間をかけて海に新しい土砂が堆積し、日本列島は再び一つになったという仮説です。ナウマンの功績は、つくば市にある国の調査機関、地質調査所の設立に尽力し、設立後は、調査の責任者として日本列島の地質調査に従事し、日本初の本格的な地質図を完成させたことです。

次ぎに「ナウマンゾウ」の話です。浜松・長野、瀬戸内海などでゾウの歯や角らしき化石が発見されます。江戸時代までには竜骨・竜歯などと言われていて、漢方薬にもなっていたようです。当時の日本人には哺乳類の化石に精通している者はなく、その正体が不明だったのです。ナウマンはゾウの化石であることを見極めるのです。やがて、こうした化石となったゾウのことを、後世で「ナウマンゾウ」と呼ぶようになります。氷河期のゾウですが、マンモスとの違いは「毛の長さ」ではないかと思われます。生息する時代と場所とがそれぞれ異なっていたのだろうと察します。

日本にやって来て活躍した外国人 その二十五  ヘンリー・フォールズ

イギリスはスコットランド(Scotland)の宣教師兼医師にヘンリー・フォールズ(Henry Faulds)がいます。1868年にグラスゴー大学(University of Glasgow)を卒業、アンダーソン・カレッジ(Anderson College)で医学を学び医師となります。1871年長老派(Presbyterian)スコットランド教会の医療宣教師としてインドに渡り、その後1873年医療伝道団の一員として来日します。

Henry Faulds

外国人の居留地だった築地に住み、そこに築地病院を建て、布教をしながら外科・眼科診療に当たります。この病院は後の聖路加病院に発展していきます。目の不自由な人のための支援や医学を学ぶ学生を指導するなど1886年に帰国するまで12年もの間、幅広い活動をします。

フォールズは、日本人が本人の証明のために証文などに拇印を押す習慣に興味を示します。モースの大森貝塚発掘の手伝いをしながら、出土した縄文土器の表面に付いていた指紋から「土器の作者を特定出来るのではないか」と指紋の研究を始めていきます。そして数千の指紋を集め、指紋は個人によってすべて異なること、指紋は、身体の成長や歳月の経過よって自然変化を生じることなく「万人不同」であり、個人の識別や個人の特定に役に立つと主張します。

1880年10月、英国の科学雑誌「ネイチャー(Nature)」に日本から科学的指紋法に関する論文を投稿し、指紋による犯罪者の個人識別の可能性を発表します。この論文は科学的指紋法に関する世界最初の論文といわれます。その中で早くも犯罪者の個人識別の経験を発表し、また指紋の遺伝関係にも言及しています。フォールズは帰国後にさらに本格的な研究を始め、指紋を5つの基本パターンに分類し、また指紋の遺伝関係なども調べていきます。

1901年になってロンドン警視庁(Scotland Yard)が「ヘンリー式指紋法」(Henry Fingerprint Method)を全面的採用し、科学的犯罪捜査は飛躍的な進歩を遂げていきます。この指紋法は後に世界中に普及し、現在でもなお個人の特定や犯罪捜査の基本として有効な手段となっています。日本の警視庁は個人識別の手法として、DNA型情報のデータベース化を始動しています。しかし、DNA型鑑定よりも指紋鑑定の方が、速度や正確さ、コスト面において優れているといわれます。

日本にやって来て活躍した外国人 その二十四  ウォルター・ウェストン

日本近代登山の父と称されているウォルター・ウェストン(Walter Weston)の足跡です。ケンブリッジ大学(University of Cambridge)の構成校の一つクレア・カレッジ(Clare Collegec)で学びます。 1887年 にMA(Master of Arts)を取得後、同大学のリドレー・ホール(Ridley Hall)神学校でイギリス国教会の司祭としての按手を受けます。国教会とは聖公会(Anglican-Episcopal Church)のことです。イギリス聖公会の教会伝道協会より派遣されて1888年に神戸に着き、長崎や熊本を経て神戸へ移り、ユニオン教会(Union Church)のチャプレン(chaplain)になります。

     Walter Weston

ウェストンにはイギリス時代から登山の趣味がありました。マッターホルン(Matterhorn)の登頂など登山経験が豊富だった彼は日本に来てから飛騨山脈、木曽山脈、赤石山脈を巡り、1890年に富士山へ登り今日の日本アルプスへの第一歩を踏み出します。富士の積雪期登山を敢行し、夏には針ノ木峠、笠ヶ岳、前穂高岳を単独で登るという計画を立てます。笠ヶ岳は麓の住民の反対によって挫折しますが、次なる目標の前穂高岳に意欲を燃やします。このときの案内役が地元猟師の上條嘉門次です。そして1893年に二人で標高3,080mの前穂高岳に登頂します。

    Weston夫妻と上條嘉門次

上條嘉門次のことです。当時はまだ詳しい地図がなく、山中に宿泊施設もありませんでした。山に精通した案内人を雇うことが、登山活動に必須でした。登山案内人という職業はありませんでした。上條嘉門次は、魚やカモシカ、雷鳥を撃つのを生業としながら、上高地の山々を歩いていたようです。ウェストンは山麓の村に住む嘉門次を知り、こうして上高地に分け入って行きます。

時代が明治になると測量の役人がやってくるようになり、嘉門次は山の案内役兼下働きとして手伝うこともあったといいます。ほとんど上高地に常駐しながら、梓川の古い流路の低地に明神岳からの湧水がたまってできた明神池近くに自分の小屋を造り、1年を通して暮らすようになります。

     上條嘉門次とウェストン

ウェストンは日本人未踏の山も数々登頂し、1896年『日本アルプスの登山と探検(Mountaineering and Exploration in the Japanese Alps』をイギリスで出版します。明治政府がイギリスより大阪造幣寮に招聘した化学兼冶金技師のゴーランド(William Gowland)が命名した「日本アルプス」の名を内外に広めます。ゴーランドは1878年07月に槍ヶ岳に登頂したことが記録されています。嘉門次の存在なくしてウェストンの活躍はありえなかったといわれます。気になる日本での布教活動については、あまり分かっておりません。

日本にやって来て活躍した外国人 その二十三  ベイズル・チェンバレン

日本言語学の父と呼ばれたイギリス人にベイズル・チェンバレン(Basil H. Chamberlain)がいます。言語学者で俳句を英訳した最初の人物の一人であり、日本についての事典「Things Japanese」や「口語日本語ハンドブック」などの著作で知られ、19世紀後半~20世紀初頭の最も有名な日本研究家の一人といわれます。

Basil H. Chamberlain

チェンバレンは1873年、23歳で来日し海軍兵学寮、後の海軍兵学校で英語を教えます。東京芝の清竜寺に住み、日本語の勉強を開始します。まず日本語の古典を学ぶために元浜松藩士に英語を教え,この藩士からは日本語と古今集を学びます。その頃、東京、横浜を中心としたイギリスやアメリカ人などの研究団体である日本アジア協会(Asiatic Society of Japan)が設立されます。駐日イギリス公使館のアーネスト・サトウ(Ernest M. Satow)やウィリアム・アストン(William G. Ashton)ら日本に関心のある者が中心となり、日本研究が盛んに行われていました。チェンバレンもそれに加わり、1877年に「枕詞、および言いかけ考」から始まって、「日本古代の詩歌」「英訳古事記」などを発表し出版されることになります。

古い日本の研究論文を続々と発表するチェンバレンの研究が認められ、1886年に森有礼の推薦で帝国大学日本語学および博言学(後の言語学)の初代教授に就任します。その後は、幕臣だった鈴木庸正という人から「万葉集」「枕草子」について教えを受けて、日本語への学問的な関心を深め,狂言や謡曲と研究を広げ、天璋院に仕え女流歌人であった橘東世子から和歌を学びます。天璋院は島津藩出身で、徳川家定の正室だった女性です。チェンバレンは39年間に渡り日本に滞在し、金田一京助ら日本の言語学者らを育てながら研究を重ねていきます。

チェンバレンはアイヌ語の研究も開始し、「アイヌ語の研究より見たる日本の言語・神話および地名」を発表、北海道へ行ってアイヌの風俗や言語の調査も行います。琉球へ渡り、琉球研究を論文にまとめたりします。ところで、小泉八雲はチェンバレンの薫陶を受け、二人は交遊があり往復書簡が残されています。やがて日本人や文化に対する姿勢の違いから次第に疎遠になっていったようです。チェンバレンの門下生の一人に、歌人で国文学者の佐佐木信綱がいます。

日本にやって来て活躍した外国人 その二十二 アーヴィン・ベルツ

ドイツ出身の内科医、アーヴィン・ベルツ(Erwin von Balz)は、お雇い外国人のうち、日本で一番知られた医学者だろうと思われます。1875年、現・東大医学部の前身東京医学校の教師として招聘され、その後29年に渡って日本に滞在し多くの優秀な門下生を育てます。

Erwin von Balz

ドイツ南西部シュトゥットガルト(Stuttgart)近郊に生まれます。基礎医学を独テュービンゲン大学(Eberhard Karls Universität Tübingen)で学び,臨床医学はライプツィヒ大学(Universität Leipzig)を最優秀の成績で卒業します。さらにテュービンゲン大学で内科学を学びます。

来日のきっかけは 1875 年に大学病院に入院した日本人留学生の診察をしたことといわれます。小さい時から,ベルツは東洋や日本に関心があったようです。東京医学校では、1876年から1902年まで教鞭をとります。1882 年にはベルツの最初の教科書『内科病論』を出版。細胞病理学に基づく病変の解説,ジフテリアの抗血清療法の研究をします。ドイツで始まったハンセン病(Hansen’s disease)患者の強制隔離政策には批判的で,「冷酷な論理で問題を解決すると恐ろしい結果を招く、人類の名において抗議する」と述べています。ベルツはハンセン病の感染力が弱いことを現場の経験から知っていたようです。

草津温泉でのベルツ

また、日本人の身体的特徴の研究や脚気、寄生虫病などの治療・予防にあたります。明治天皇、大正天皇の主治医であり、伊藤博文とは親友でありました。また、ベルツが残した日記などには、明治時代の日本が行った西洋文明輸入に際する姿勢に対しての批判や警告が多く含まれています。ベルツは言います。「日本で根付いて成長できるように種をまくつもりだった。この樹は適切に育てれば,いつも新鮮で美しい実を結ぶ。しかし日本は成果を摘み取ることで満足し,この成果を生み出した精神を理解できていない」。ベルツは、学術の発展の素地となる文化を育てることが必要だというのです。この言葉は医学を志す者に響くものです。

他方で失われていく日本の文化・伝統を守るため多くの日本画、美術品、伝統工芸品や民具などを蒐集し保存に努めます。それらのほとんどが母国ドイツのシュトゥットガルトのリンデン民族学博物館 (Linden-Museum Stuttgart)に収められているそうです。学校での検便、臨海学校、「温泉は体にいい」ことだと言います。公衆衛生面での防疫事業の基礎を築くために尽力し、近代日本の黎明期に西洋医学を導入した優れた教師でもありました。草津温泉に数回訪れ、温泉を分析し、正しい入浴法を指導すると共に「草津は高原の保養地として最も適地である。草津には優れた温泉のほか、日本でも最上の山と空気と全く理想的な飲料水がある」として高く評価しています。

日本にやって来て活躍した外国人 その二十一 エドワード・モース

小学校だったか中学校だったかは忘れましたが、貝塚のことがでてくると、エドワード・モース(Edward S. Morse)が大森貝塚を発見したということを習います。私は北海道は美幌に住んでおりました。網走の近くにも貝塚がありました。昔のゴミ捨て場です。

        Edward S. Morse

モースの生まれ故郷はメイン(Maine)州ポートランド(Portland)です。モースは学校嫌いで「問題児」であったようです。高校中退を繰り返し、製図工として鉄道会社に就職します。そんなモースでも貝の収集とそのコレクションは、ニューイングランド地方(New England)の学者たちに一目をおかれる存在だったようです。独学で生物学などを学び、やがてハーヴァード大学Harvard University)の比較動物学博物館(Museum of Comparative Zoology)に学生助手として採用されるまでになります。

1877年6月、シャミセン貝の研究を目的に初来日します。横浜に上陸後、新橋へと向かう開通したばかりの蒸気機関車の車窓から貝殻のむき出しになった地層を偶然見つけます。さっそく発掘すると土器や石器が出土し、縄文時代後期の遺跡であるであることを発見します。後に大森貝塚と名付けられます。そして「お雇い外国人」として、東京大学理学部の初代動物学教授に就任するのです。

日本中を旅して、日本人の生活の様子をスケッチし、生活用具や陶器を収集します。3度にわたって日本を訪れた彼は、日本の庶民の暮らしに魅せられ、多彩な品々を「記録」としてアメリカに持ち帰えります。3万点に及ぶ民具はマサチューセッツ州(Massachusette)のセーラム(Salem)にあるピーボディー・エセックス博物館(Peabody Essex Museum)に収められています。そのコレクションには現在日本にも存在しない貴重な民具もあるようです。

モースは江戸の風趣が残る東京の下町の散策をこよなく愛したようです。彼の日記『日本その日その日』(Japan Day by Day)には、明治維新を経て近代への幕開けとなった日本――文明開化の華やかさとはうらはらに、いまだ江戸の暮らしが続いていた庶民の日常が克明に記されています。英語で日本を紹介した書物としては卓越した評価を受けたといわれます。モースは後にイェール大学(Yale University)より理学博士の名誉学位を授与されます。

日本にやって来て活躍した外国人 その二十  エドウィン・ダン

北海道の開拓に尽力した外国人の一人がエドウィン・ダン(Edwin Dun)です。オハイオ州(Ohio)のマイアミ大学(Miami University)を卒業後、父や叔父の牧場で獣医学、競走馬・肉牛の飼育などを学びます。ケプロン(Horace Capron)の推薦を受け1873年北海道開拓の技術者として来日します。北海道の開拓には牧畜や農業が重要であると見通し、その筋の専門家を招いた明治政府の先見の明には感心します。

      The Dun Family

ダンは函館に赴任して近代農畜産の技術指導に当たります。後に札幌に移り複数の牧場建設に当り、牛・豚・羊などの飼育からバター、チーズ、ハム、ソーセージの作り方を指導していきます。日本初の西洋式競馬である中島競馬場はエドウィンの設計に基づいて建設されたものです。この競馬場の建設は北海道における西洋競馬の定着に大きく寄与し、さらに馬産の面においても馬の品質改良、設備や技術の向上に大きく貢献していきます。

      エドウィン・ダン記念館

農業分野においては、一人で馬を操る農機具や耕耘機、ソリなどを作り、洋式の大型農具を用いて農作業を行う技術を普及させたことも特筆されます。エン麦や玉ネギ、小麦、亜麻、甜菜の試験栽培にも取り組みます。今やこうした作物は北海道の代表的な農産物となりました。札幌郊外につくった真駒内牧牛場における水の安定供給のために用水路をつくり、のちに水田の灌漑用水としても利用されます。こうして稲作の定着や普及に大きく貢献していきます。