日本にやって来て活躍した外国人 その二十七 ポンペ・ファン・メールデルフォールト

オランダ海軍の二等軍医にポンペ・ファン・メールデルフォールト(Johannes Pompe van Meerdervoort)がいます。響きが良いせいか、親しみを込めて一般に「ポンペ」と呼ばれるオランダ人医師です。ユトレヒト(Utrecht)陸軍軍医学校で医学を学び軍医となります。幕末の1857年に来日し、オランダ医学を伝えた功績者です。

メールデルフォールトとその左が松本良順

当時、蘭医学は禁じられていました。将軍侍医で幕府の軍医であった松本良順は、他藩からきていた医師を自分の弟子としてポンペの講義を受けせます。多くの医師や幕臣以外の者も学べる塾がやがて手狭となると、松本は医学校建設を決意します。

ポンペは松本の奔走により作られた医学伝習所の開設にたずさわります。日本で初めて基礎的な科目から系統だった本格的な蘭方医の養成を始めます。医学伝習所は日本初の組織立ったオランダ医学の学校といわれます。ポンペは長崎で5年間にわたり医学を教えます。オランダ語や科学の基礎知識のない者に、言葉の壁を乗り越えて根気よく基礎から教えたポンペの努力と苦労が伝わってきます。解剖実習や臨床講義まで本格的な医学教育を行っていきます。ポンペが使ったカリキュラムは自分の受けたユトレヒト陸軍軍医学校に類似していたようです。

長崎養生所

松本がこの伝習所にいたころコレラが大流行し、自らも感染した折、その治療でポンペが見せた患者への身分にかかわらず接したことに松本は心をうたれたようです。こうして江戸時代の身分制度に大きな影響を与えていきます。滞在した5年間に14,530人もの患者を治療し、外国人によるコレラや梅毒の蔓延を阻止するために奔走します。こうして長崎の町の人々はポンペに次第に信頼と尊敬を寄せるようになっていきます。ポンペの熱望していた西洋式の養生所の建設が近づきます。

1861年9月に養生所が長崎港を見おろす小島郷の丘に完成します。養生所は医学所に付置された日本で最初の124ベッドを持った西洋式附属病院であり、長崎大学医学部の前身となります。