日本にやって来て活躍した外国人 その二十八 ヴィレム・カッテンディーケ

オランダからやってきて活躍した人の話題が続きます。オランダの海軍軍人で後に政治家となったヴィレム・カッテンディーケ(Willem Johan van Kattendijke)のことです。1857年にペリーの黒船を見た徳川幕府はオランダに黒船のような軍艦を発注します。カッテンディーケは、完成したJapan(ヤパン)号を回送し、その艦長として大西洋、インド洋をまわり1857年に長崎に入港します。たった48.8mの木造艦で、やがて幕府の練習艦となります。

Willem Johan van Kattendijke

カッテンディーケは幕府が開いた長崎海軍伝習所の教官となり、2年に渡って勝海舟、榎本武揚らなどの幕臣に精力的に航海術・砲術・測量術などの近代海軍の教育を行います。特に勝海舟の能力を高く評価したといわれます。勝海舟は西洋式の海軍士官養成機関・海軍工廠である神戸海軍操練所を設立します。後に回想録『長崎海軍伝習所の日々』を著し、長崎の自然・風景や人々の風習や行事、日本人の態度などを記しています。薩摩藩11代藩主の島津斉彬、佐賀藩10代藩主の鍋島閑叟らの人物像なども記録します。島津や鍋島はアームストロング砲や蒸気船などに高い関心をもっていた人物です。

勝海舟

因みにヤパン号はやがて咸臨丸となり、1860年に勝海舟を船長とし、ジョン万次郎ら98名の日本人の遣米使節団一行が太平洋を横断してアメリカまで渡ります。カッテンディーケは帰国後は1861年にオランダ海軍大臣となり、一時は外務大臣も兼任します。オランダと日本の関係は医学のみならず、軍備、航海術、天文技術などに及びます。明治維新に拘わる日蘭関係、あるいはオランダの果たした役割は重要だったといえましょう。

ジョン万次郎