若きアメリカは、先住民族、アメリカインディアンをどのように対処するかの課題を抱えていました。ヨークタウン(Yorktown)での勝利は、先住民族問題が避けることのできない課題となったのは過言ではありませんでした。アメリカ政府は、遠くの大陸にある資源へのアクセスのみを求めてきたヨーロッパの帝国の代表者と取引していました。やがて毎年人口が増え、西部のすべてのエーカーを自分たちのものにしていきました。それは、神と歴史の法則のもとで文化的に統合した民族であるとの確信によるものでした。やがて先住民族との妥協の余地はなくなりました。 1776年以前でさえ、アメリカの独立に向けた政策は、先住民族の将来に対する支配力を低下させるものでした。
イギリスと先住民族との間の取り決めに、1763年の布告ライン(The Proclamation Line)というのがあります。この取り決めは、イギリスの広大な北アメリカ領土を組織化し、西部辺境における毛皮取引、入植および土地の購入の規則を定めて、先住民族との関係を安定させるものでした。ケンタッキー・フロンティアのダニエル・ブーン(Daniel Boone)はこの取り決めを破って開拓を推進していきます。ペンシルベニア州とニューヨーク州の西部では、1768年のスタンウィックス砦条約(Treaty of Fort Stanwix)による広大な先住民の土地譲歩にもかかわらず、開拓者がオハイオ渓谷と五大湖への前進を続けていきました。
武力抵抗による成功の望みを持っていた先住民族は、アパラチア山脈からミシシッピ川までのすべての先住民族の団結が必要となりました。この団結は単に達成することができませんでした。ショーニー族(Shawnee)の指導者、テンスクワタワ(Tenskatawa)は、預言者として知られていました。テンスクワタワやその兄テカムセ(Tecumseh)は、ギリス人入植者に対する反乱に関わったポンティアック(Pontiac)が約40年前に行ったように、団結のための運動を試みましたが、成功しませんでした。平和条約に違反して北西部領土に残っているイギリスの貿易商からの武器の形でいくつかの支援を受けましたが、先住民は1811年に起こったティッペカヌークリークの戦い(Battle of Tippecanoe Creek)でアメリカの民兵や兵隊との衝突で勝利を得ることができませんでした。
1812年の米英戦争の勃発は、イギリスが勝利した場合には王室による保護があるという、先住民に新たな希望を引き起こしました。テカムセ自身は実際には王立軍の将軍として任命されましたが、1813年のテムズの戦い(Battle of the Thames)で殺され、伝説によれば、彼の死体は解体されて、おぞましい土産として開拓者の間で分けられたという話があります
他方、1814年、アメリカのアンドリュ・ジャクソン将軍(Andrew Jackson)は、ホースシューベンドの戦い(Battle of Horseshoe Bend)で、イギリスが支援した南西部のクリーク族(Creek Indian)を破ります。戦争自体は引き分けで終わり、アメリカの領土は無傷のままでした。その後、小さな例外を除いて、ミシシッピの東では先住民による大きな抵抗はありませんでした。アメリカの輝かしい第1四半期の後、先住民族に開かれていたあらゆる可能性は下降していきます。