アメリカ合衆国建国の歴史 その67 先住民族への対応

若きアメリカは、先住民族、アメリカインディアンをどのように対処するかの課題を抱えていました。ヨークタウン(Yorktown)での勝利は、先住民族問題が避けることのできない課題となったのは過言ではありませんでした。アメリカ政府は、遠くの大陸にある資源へのアクセスのみを求めてきたヨーロッパの帝国の代表者と取引していました。やがて毎年人口が増え、西部のすべてのエーカーを自分たちのものにしていきました。それは、神と歴史の法則のもとで文化的に統合した民族であるとの確信によるものでした。やがて先住民族との妥協の余地はなくなりました。 1776年以前でさえ、アメリカの独立に向けた政策は、先住民族の将来に対する支配力を低下させるものでした。

イギリスと先住民族との間の取り決めに、1763年の布告ライン(The Proclamation Line)というのがあります。この取り決めは、イギリスの広大な北アメリカ領土を組織化し、西部辺境における毛皮取引、入植および土地の購入の規則を定めて、先住民族との関係を安定させるものでした。ケンタッキー・フロンティアのダニエル・ブーン(Daniel Boone)はこの取り決めを破って開拓を推進していきます。ペンシルベニア州とニューヨーク州の西部では、1768年のスタンウィックス砦条約(Treaty of Fort Stanwix)による広大な先住民の土地譲歩にもかかわらず、開拓者がオハイオ渓谷と五大湖への前進を続けていきました。

Tenskwatawa

武力抵抗による成功の望みを持っていた先住民族は、アパラチア山脈からミシシッピ川までのすべての先住民族の団結が必要となりました。この団結は単に達成することができませんでした。ショーニー族(Shawnee)の指導者、テンスクワタワ(Tenskatawa)は、預言者として知られていました。テンスクワタワやその兄テカムセ(Tecumseh)は、ギリス人入植者に対する反乱に関わったポンティアック(Pontiac)が約40年前に行ったように、団結のための運動を試みましたが、成功しませんでした。平和条約に違反して北西部領土に残っているイギリスの貿易商からの武器の形でいくつかの支援を受けましたが、先住民は1811年に起こったティッペカヌークリークの戦い(Battle of Tippecanoe Creek)でアメリカの民兵や兵隊との衝突で勝利を得ることができませんでした。

Battle of Horseshoe Bend

1812年の米英戦争の勃発は、イギリスが勝利した場合には王室による保護があるという、先住民に新たな希望を引き起こしました。テカムセ自身は実際には王立軍の将軍として任命されましたが、1813年のテムズの戦い(Battle of the Thames)で殺され、伝説によれば、彼の死体は解体されて、おぞましい土産として開拓者の間で分けられたという話があります

他方、1814年、アメリカのアンドリュ・ジャクソン将軍(Andrew Jackson)は、ホースシューベンドの戦い(Battle of Horseshoe Bend)で、イギリスが支援した南西部のクリーク族(Creek Indian)を破ります。戦争自体は引き分けで終わり、アメリカの領土は無傷のままでした。その後、小さな例外を除いて、ミシシッピの東では先住民による大きな抵抗はありませんでした。アメリカの輝かしい第1四半期の後、先住民族に開かれていたあらゆる可能性は下降していきます。

アメリカ合衆国建国の歴史 その66 マディソン大統領の外交

次ぎに大統領となったマディソンは外交に専念することを余儀なくされます。イギリスとフランスはどちらもアメリカの海運貿易を非難しますが、特にイギリスは非常に激怒します。これは、イギリス海軍の方が優越であり、イギリスの名誉に対するアメリカ人の侮辱に非常に敏感だったからです。フロリダとカナダにおける領土の膨張主義は、戦争を予想すると共に海軍の増強を求めるものとなります。マディソン自身の目的は、海洋の自由の原則を維持し、アメリカが自らの利益と市民を保護する能力を主張することでした。ヨーロッパの敵対者と公平に対峙しようと努力している時、彼はイギリスとの戦争に引き込まれます。アメリカは1812年6月に下院で79〜49票、上院で19〜13票の投票で戦争支持が可決されました。強力な連邦主義を唱えるニューイングランドの州では、戦争への支持はほとんどありませんでした。

米英戦争

米英戦争(War of 1812)は1812年に始まり、皮肉な結果となります。イギリスはすでに枢密院勅令で攻撃命令を撤回していましたが、宣言の時点でそのニュースはアメリカには届いていませんでした。軍事的にアメリカ人はあらゆる面で貧弱な状況にありました。軍備に対するイデオロギー的な反対によって、最小限の海軍力しか持たないためでした。 1812年、上院がアメリカ銀行の憲章の更新を拒否したことは、銀行に対するイデオロギー的な異議申し立てが原因でした。企業家の感情は政権に対して敵対的でした。このような状況下で、アメリカは2年間の戦争で驚異的な成功を収め、最終的には大西洋、五大湖、シャンプレーン湖(Lake Champlain)での会戦で勝利します。陸では、イギリスの襲撃隊がワシントンD.C.の公共建築物を燃やし、マディソン大統領は首都から逃げだす有様でした。長期的な影響をもたらしたのは、ニューオーリンズの戦いでアンドリュ・ジャクソン(Andrew Jackson)が勝利したことです。1815年2月に勝利してその2週間後、ベルギーにおけるゲント条約(Treaty of Ghent)の調印で平和が達成されます。この戦いによってジャクソンの政治的な評価は大きく高まりました。

米英戦争

こうした経緯からいえることは、この和平合意の最も重要な点は、カナダ国境の境界委員会を設置するという合意でした。それはイギリスとアメリカとのいがみ合いを終わらすものではありませんでしたが、合意は相互信頼の時代の到来を告げるものでした。アメリカの第二の独立戦争と呼ばれることもある1812年の戦争の終結は、歴史的な繰り返しのようでした。この戦争は、イギリスとイギリス国民に対する古い痛みと恨みの感情を和らげることになりました。それでも多くのアメリカ人にとって、イギリスは一種の父方のような感情を持っていました。やがてイギリスとの戦の不安から解放されると、アメリカ人は西部への開拓へと向かうことになります。

アメリカ合衆国建国の歴史 その65 ジェファソンと共和党の進出

アメリカ合衆国の第3代大統領、トマス・ジェファソン(Thomas Jefferson) は、「アメリカ独立宣言」の起草者の一人としても知られています。大統領就任にあたり、ジェファソンは次のような和解を求める演説をします。すなわち「我々はすべて共和主義者であり、我々はすべて連邦主義者です。」彼には恒久的な二大政党制の計画はありませんでした。彼はまた、小さな政府と憲法の厳格な施行に対する強いコミットメントを表明します。これらのすべてのコミットメントは、戦争、外交、および政治的不測の事態の緊急事態によってすぐに試練に立たされることになります。

アメリカ大陸では、ジェファソンは拡大の方針をとります。彼は、ナポレオン1世(Napoleon I )がルイジアナ準州を売りに出し、アメリカでのフランスの野心を放棄することを決定したことの機会をとらえます。スペインは、領土をフランスに譲渡していました。この特別な買収であるルイジアナ買収は、1エーカーあたり数セントの価格で購入され、アメリカの面積を2倍以上に増やすことになります。ジェファソンには、そのような行政権の行使においては、憲法上の制裁はありませんでした。彼は、この領土拡大に関する憲法の幅広い建設的な見解をとりながら、関連する規則を作っていきます。

Monticello

ジェファソンはまた、スペインからフロリダを獲得する機会を求め、科学的および政治的な理由から、メリウェザー・ルイス(Meriwether Lewis)とウィリアム・クラーク(William Clark)を大陸全体の探検隊として派遣しました。この領土拡大には問題がなかったわけではありません。ニューイングランド連邦主義者によって策定された北軍の計画を含む、さまざまな分離主義運動が頻繁に発生します。 1800年にジェファソンによって副大統領に指名されたアーロン・バー(Aaron Burr)はいくつかの西部開拓での謀議を主導しました。バーは1804年に辞して反逆罪に問われますが、1807年に無罪となりました。

最高行政責任者として、ジェファソンは司法のメンバーと衝突しました。その多くはアダムズによる任命者でした。彼の主な反対者の1人は、アダムズが任命したジョン・マーシャル(John Marshall) 裁判長であり、特にマーベリー対マディソン(Case of Marbury v. Madison)(1803)において、最高裁判所は議会の立法について、違憲審査を最初に行使します。この司法審査の権限は有名となります。

University of Virginia

ジェファソンの二期目の任期が始まる頃、ヨーロッパはナポレオン戦争(Napoleonic Wars)に巻き込まれました。アメリカは中立を維持しますが、イギリスとフランスの両方がさまざまな命令を課し、ヨーロッパとのアメリカの貿易を厳しく制限し、新しい規則に違反したとしてアメリカの船舶を没収します。イギリスはまた、アメリカ市民が時々巻き込まれるような事件を起こします。ジェファソンはイギリスとの条約条件に同意できず、アメリカの輸出を全面的に禁輸するイギリスとフランスの両方に「中立的権利」の侵害をやめさせようとします。そして通商禁止法が1807年に議会が制定されます。ニューイングランドでは、禁輸措置が、ニューイングランドの富を破壊するための南部の計画であると指摘します。マディソンが大統領に選出された直後の1809年に、この通商禁止法は廃止されます。

アメリカ合衆国建国の歴史 その64 ジョン・アダムズが大統領に就任

ウィスキー課税への反対とジェイ条約への批判に苦しむワシントンは、3期目の大統領に立候補しないことを決断します。ハミルトンが起草した大統領離任の挨拶で、彼は新党の政治を分裂的で危険であると非難します。しかし、政党はまだ国家の目的を十分に鼓舞することができずにいました、連邦主義者のジョン・アダムズ(John Adams)が第2代の大統領に選出されたとき、大統領候補として2番目に多くの票を獲得した民主=共和党のジェファソン(Jefferson)が副大統領になりました。ヨーロッパと公海での戦争、そして国内での激しい対立は、新政権を苦しめることになりました。

John Adams

イギリスがアメリカの海軍を保護するという立場から、フランスとの仮想的な海軍戦争が続きます。1798年に外交的な解決交渉にあたるアメリカの委員に対してフランス側は賄賂を求める事件が発覚します。これはXYZ事件(XYZ Affair)と呼ばれました。これによってアメリカでは反フランスという国民感情が高まります。その年の後半、議会の連邦主義者の過半数が外国人・扇動法(Alien and Sedition Acts)を可決します。これは、親フランス活動の疑いのある外国人に厳しい民事制約を課し、政府を批判したアメリカ市民に罰則を科し、憲法修正第1条で謳う報道の自由の保証を破棄する内容でした。

この法律によって、共和党支持の編集者が頻繁に起訴され、その一部の者は服役することなります。これらの措置は、次に、マディソンとジェファソンによってそれぞれ起草されたヴァジニア州とケンタッキー州の決議を呼び起こします。連邦権力にとり耐え難いような反対に対して、政府は国家主権を行使するのです。この時期、アメリカは、フランスとの戦争が差し迫っているような状況にありましたが、アダムズは正式な宣戦布告を行わないことを決意し、やがてその方針が功を奏します。


Abigail Adams

予想される戦費を賄うために課されていた税は、ジェイコブ・フライズ(Jacob Fries)が率いるペンシルベニアでの新しい少数組織の反乱などで、多くの不満が持ち上がりました。フライズの反乱は難なく鎮圧されますが、市民の間に横たわる自由から課税に至る広範な意見の不一致がアメリカの政治を二極化させていきます。政治的アイデンティティの基本的な思想は、連邦主義者と共和党員に分かれ、1800年の選挙で、ジェファソンは彼の旧友であり同僚のアダムズに挑戦し、反連邦主義者の反対の立場からの幅広い情報源を利用しました。その結果は、政党間の大統領職をめぐる最初の争いとなり、アメリカの近代史において総選挙の結果によって最初の政権交代が生まれました。

アメリカ合衆国建国の歴史 その63  1789年〜1816年の連邦政府と党の形成

新憲法の下での最初の選挙は1789年に行われました。ジョージ・ワシントン(George Washington) は全会一致で国の初代大統領に選ばれます。彼の財務長官であるアレクサンダー・ハミルトン(Alexander Hamilton)は、反連邦主義者の古い懸念に代わる明確な計画を提案します。1780年代初頭以来、国債は経済的理由と組合の接着剤として機能するゆえに、国債は「国の祝福」であると信じていたハミルトンは、新しい権力基盤を利用した人物です。彼は、連邦政府が旧大陸会議の債務を減価償却額ではなく額面で返済し、州政府ではなく中央政府に債権者の利益を引き寄せて州債務を引き受けることを推奨します。

Alexander Hamilton

この計画は、戦後の不況の間に大幅な割引で証券を売却した多くの人々や、債務を拒否し、他の州の債務を支払うために課税されることを望まなかった南部の州からの強い反対に会います。国務長官ジェファソン(Secretary of State Jefferson)の努力のおかげで、議会で妥協点に到達します。これにより、南部の州は、南部に近いポトマック(Potomac)に新しい国の首都の場所を修正するという北部の合意と引き換えに、ハミルトンの計画を承認しました。

ハミルトンが次にイングランド銀行(Bank of England)をモデルにしたアメリカ銀行を設立する計画を提案したとき、反対が起こり始めました。多くの人が、憲法はこのような権力を議会に伝えていなかったと主張します。しかし、ハミルトンは、憲法によって明示的に禁止されていないものはすべて黙示的権力の下で許可されているのだとワシントンを説得します。憲法解釈で厳格な構造主義者の考えとは対照的に、「緩い」解釈を取り入れるのです。銀行法は1791年に可決されます。ハミルトンはまた、時期尚早であるとされた初期の産業支援計画を提唱します。1794年に西ペンシルベニアで小規模のウィスキー課税への反対が起こりますが、連邦の収益を上げるウィスキー物品税を課しました。

John Jay

ハミルトンの財政政策に反対する党が議会で結成され始めます。マディソンを中心に、ジェファソンの支援を受けて、すぐに議会を超えて財政政策は人気のある支持者を広げていきます。一方、フランス革命とその後のイギリス、スペイン、オランダに対するフランスの宣戦布告は、アメリカとの忠誠心を分裂させていきます。民主共和党はフランスへの支持を表明するために立ち上がりますが、ハミルトンと彼の支持者である連邦主義者は経済的な理由でイギリスを支持します。ワシントンはヨーロッパでアメリカの中立国を宣言しますが、イギリスとの戦争を防ぐために、ジョン・ジェイ(John Jay)裁判長をロンドンに派遣して条約の締結を交渉します。ジェイ条約(1794年)では、アメリカはわずかな譲歩しか得られず、屈辱的ながらアメリカの海運を保護してもらうことの代償としてイギリス海軍の覇権を受け入れました。

アメリカ合衆国建国の歴史 その62 「心の宗教」の衰退

熱烈な「心の宗教(Heart religion)」は「頭の宗教(Head religion)」にとって代わられます。西部の主にスコットランド-アイルランドの長老派教会(Scotch-Irish Presbyterian)の牧師には、こうした熱烈な宣教活動は危険な現象であると考えられました。なぜなら、任命された教会指導者は牧師からのより正統的な聖書学を好んでいたからです。さらに、騒々しい悔い改めによって救いを得るという考えは、カルヴァン主義者(Calvinist)の予定説(predestination)を弱体化させるものでした。実際、人々の階層や植民地の境界における混乱は、いくつかの分裂を引き起こしました。

メソジストにはこの種の問題が少なかったようです。その理由は予定説を決して受け入れなかったからでした。そしてもっと重要なことに、その教会組織は民主的であり、初歩的な教育を受けた信徒伝道者は、個々の会衆を率いることから地区や地域の「会議」を主宰し、最終的には教会の会員全体を受け入れることができました。メソジストは、孤立した集落から集落へと伝道し、魂を救い、神の言葉を力強く自由に叫ぶ牧師、または巡回牧師の活躍を通じて、フロンティアの状況に非常にうまく適合しました。

ユニテリアン教会堂-マディソン市

「大覚醒」(リバイバル)の精神は、東にも及び、特にニューイングランド(New England)地方で「第二次大覚醒」と呼ばれるほど盛んになりました。野外伝道集会ほど抑制されたものではありませんが、従来の会衆派教会や長老派教会よりも暖かい集会を強調するものでした。ライマン・ビーチャー(Lyman Beecher)のような大学教育を受けた聖職者は、建国の父たちの一部で見られた神学主義やフランス革命の無神論に対抗するため、大覚醒を推進することを使命としていました。大覚醒はまた、信徒が救いの言葉を広めることに参加することで、信徒の忠誠心を新たに深めることに寄与しました。このような自発的な活動は、各教団に対する税制支援が州ごとに徐々に打ち切られる状態を補って余りあるものとなりました。

建築家Frank Llyod

初期の共和国の時代はまた、特にボストンなどの都市で教育を受けたエリートの間で、ユニテリアン主義(Unitarianism)に具現化されたように、穏やかな形のキリスト教の成長を見ました。ユニテリアンは、慈悲深い神が、人間に与えられた理性を働かせることによって、神の意志を人間に知らせるという考え方です。ユニテリアンの考えでは、イエス・キリストは単に偉大な道徳的教師であるとします。普通のキリスト教徒は、ユニテリアン主義を思想や社会改革に過剰に関心を持ち、罪やサタンの存在にあまりにも甘やかされ、無関心であると考えました。そして1815年までに、アメリカン・プロテスタンティズムの社会構造は、国民文化の中に多くの宗教家によって体系づけられ形成されていきます

アメリカ合衆国建国の歴史 その61 宗教的大覚醒(リバイバル)

独立後の最初の数年間に、宗教は「アメリカ社会」の出現において独特で中心的な役割を果たし、いくつかの重要な歴史的な発展をもたらしました。 1つはイギリスやヨーロッパの宗教上の権威に依存しないアメリカ独自の宗派の創設でした。1789年までにアメリカの英国国教会は、聖公会(Episcopalians)となります。その他に、以前はウェスリアン(Wesleyans)と呼ばれたメソジスト(Methodists)、ローマカトリック教徒、およびさまざまなバプテスト(Baptist)、ルーテル(Lutheran)、オランダ改革派(Dutch Reformed congregations)の会衆が組織を設立していきます。

もう1つの重要な独立後の発展は、特に開拓地における宗教的熱意(enthusiasm)の再燃であり、それが信徒への宗教的活動へと駆り立てたことです。民主主義における多様性の影響を最も強く感じている州では、教会への税制支援を廃止します。さらにこの時期には、啓蒙主義の価値観とアメリカの行動主義を結びつけるリベラルで社会的参与に前向きなキリスト教の宗派が誕生します。

Frontier Revival

1798年から1800年の間に、ケンタッキー州ローガン郡(Logan county)でのジェームズ・マクレディ(James McGready)やジョンとウィリアム・マクギー兄弟(John and William McGee) の指導の下で、大規模な大覚醒–リバイバルから始まり、忽然とした運動の発生がプロテスタントの会衆を震撼させます。これに続いて、 1801年8月6日から13日まで開かれたケインリッジ(Cane Ridge)での巨大な野外伝道大会(Cane Ridge Revival) が開かれ、2万人の人々を集めそこで数千人が「回心する」という現象が起こりました。説教者はバートン・ストーン(Barton Warren Stone)という伝道者でした。

George Whitefield

フロンティア大覚醒(リバイバル)集会は次のような姿でした。すなわち、単なる正統的なキリスト教の信奉から、罪人に対する神の憐れみへの完全な確信への転換は、ほとんど聖書を勉強していない人々にも受け容れることができるような深い感情的な経験でありました。ですからほとんど読み書きができない人も、硫黄と火と恵みの雨を説き、悔い改めた聴衆を興奮の状態に陥れ、泣き叫び、身もだえし、気を失い、公の場から運び出されるという光景が展開されました。

アメリカ合衆国建国の歴史 その60 社会革命

アメリカの独立革命は大きな社会的激変となり、やがてその影響は緩やに広く拡散していきます。影響は地域によって異なるものでした。自由と平等の原則は、この国の富の多くを築いたアフリカの奴隷制度と激しく対立していました。その間、北部のすべての州で徐々に奴隷制が衰退していきます。さらにヴァジニアの自由主義的な奴隷所有者が、次々に奴隷を解放していきます。しかし、特にサウスカロライナとジョージアでは、ほとんどの奴隷商人にとって、奴隷解放という理想は何の価値もないものでした。奴隷制を敷いていた州全体で、奴隷制度は人種的劣等感という白人至上主義の思想によって強化されるようになったのです。

しかし、奴隷解放の世相となるにつれて、自由な黒人の新しい共同体が生まれ、黒人は積極的に行動し、天文学者のベンジャミン・バネカー(Benjamin Banneker)やアフリカ・メソジスト・エピスコパル教会シオン(African Methodist Episcopal Church Zion) の創設者で宗教家のリチャード・アレン(Richard Allen)など、優れた人物を輩出することになります。1790年代以降、各州が黒人の活動、住居、経済的選択を制限する法律を採択したため、自由な黒人の社会的地位は悪化していきます。一般に、彼らは貧しい地域に住み、教育や機会を与えられず、長きにわたって下層階級になっていきます。

Benjamin Banneker

アメリカ独立革命は、同時に女性の経済的な重要性を劇的に謳い上げます。女性は農場や多くの企業において、なくてはならぬ存在でしたが、独立した地位を獲得することはほとんどありませんでした。戦争によって男性がその地域から狩り出され、女性は労働力としてしばしば大きな責任を負わなければなりませんでした、女性はその役割を立派にやり遂げたのです。共和党の考えは女性の間で広がり、女性の権利、教育、社会における役割についての議論するようになりました。一部の州は、女性が財産の一部を相続し、結婚後にも財産を限定的ながら管理できるように、相続法と財産法を修正しました。しかし、全体として、革命自体は、女性の究極の地位の向上について、緩やかな影響しか及ぼしませんでした。女性を男性と同等の政治的および市民的地位において独立した市民にするというのではなく、共和主義者の母親としての女性の重要性をより認識するという変化に現れていきます。

Richard Allen

アメリカ人は、独立のために慣習上の権利を守ろうとして戦い、慣習となっている法改正の計画はありませんでした。しかし、次第に慣習法の中には、共和制の原則にそぐわないと思われるものが出てきます。その顕著な例が相続法です。新しい州では、古い優先順位で相続するでのではなく、遺留分を平等に分割することを支持していきます。こうした相続は、アメリカ社会が好む平等主義と個人主義の両方の原則に合致するものでした。しかし、刑法の人道化(Humanization of the penal codes)は、19世紀に入ってからアメリカ人の感情やヨーロッパの模範にも触発されますが、徐々にしか進みませんでした。

アメリカ合衆国建国の歴史 その59 憲法草案の議論

憲法草案は、広く反対を呼び起こします。「反連邦主義者」と呼ばれた人々がいました。彼らは、本当は国民主義者でありながら、反対派が巧みに「連邦主義者」という呼称を使ったことからこう呼ばれました。反連邦主義者はヴァジニア、ニューヨーク、マサチューセッツなどの州で強く、経済が比較的順調だったので、多くの人々は反連邦主義者への救済措置はほとんど必要ないと考えていました。反連邦主義者は、新政府が商人や富裕層の手に落ちるのではないか、という恐れを抱いていました。善良な共和主義者の多くは、6年任期の上院の仕組みに寡頭政治を感じていました。権利章典がないことは、中央権力に対する深い恐れを抱かせました。しかし、連邦主義者は、通信、報道、組織、そしてより有利な議論に長けていました。反連邦主義者は、内部に一貫性や統一された目的を持たないという弱点を抱えていました。

Bill of RIghts

憲法草案における議論は、極めて多くの緻密な文献を世に送り出します。その内容の多くは非常に高いレベルにありました。「Publius」というペンネームを使って、ハミルトンとマディソンによって書かれた長く持続的な親連邦主義者の議論は、連邦主義者として新聞に登場しました。これらのエッセイは、連合の弱さを攻撃し、新しい憲法は社会のすべての部門に利点をもたらし、何ら脅かすものはないと主張しました。議論の過程で、彼らは強力なナショナリストの立場から、国家を保護する混合型の政府の考えをより尊重する立場に移りました。マディソンは、多数の利益が互いに対抗しあうことによって、反対者から絶えず迫られる権力の強化を防ぐのだと主張しました。

James Madison

権利章典(Bill of Rights)は、マディソンの外交手腕によって最初の議会を通過し、潜在的な反対派の多くを鎮めることができました。1791年に批准された最初の修正第10条は、アメリカ人が求めてきたイギリスの基本的な慣習法の権利を憲法に取り入れたものです。特記したいのは、それ以上のことが記されたことです。イギリスとは異なり、アメリカは報道の自由と平和的な集会の権利を保証したことです。また、イギリスとは異なり、宗教の独立とその自由な活動に同等の価値のある条項では、教会と国家が正式に分離されるのです。これは、各州が独自の宗教を維持する自由を支持するということでした。

アメリカ合衆国建国の歴史 その58 連邦政府と州政府の権限

現代の法理論では、立法府が国の最も強力な部門であるとされます。そのため、行政府に対しては拒否権が与えられ、審査権を持つ司法制度が確立されます。また、新しい連邦司法は、憲法または連邦法に抵触する州法に対して拒否権を持つことが暗黙の了解となりました。州は、商業活動を奨励する目的で、契約上の義務を損なう法律を制定することを禁じられており、議会は事後法を制定することはできないとされました。

連邦議会の構成

しかし、議会には、近代的な主権国家の基本的な権限が与えられていました。これは連邦共和国であり、合衆国は貴族といったような名誉ある称号を与えることはできないとしました。連邦政府の権力を最終的に拡大するという展望は、憲法の一般的な目的を実現するために「必要かつ適切な」立法を行う権限を連邦議会に与えるという条項に現れています。

州はその民事管轄権を保持しましたが、連邦政府へ政治的重心をおくという明確な方針がありました。その最も基本的な示唆は、政府は、州の権限に関係なく、すべての州全体へ個人として市民に直接行動するという普遍的な理解でした。 憲法の言葉は新しい表記を使うことになります。すなわち「私たちはニューハンプシャー、マサチューセッツなどの人々」ではなく、「私たちはアメリカの人々」という呼び方をすることです。