アメリカ合衆国建国の歴史 その117 鉄道網の整備が進む

1862年、合衆国議会は、ミシシッピ渓谷と太平洋岸を結ぶ最初の鉄道となる2つの鉄道の建設を承認します。一つは、アイオワ州カウンシルブラフ(Council Bluffs)から西へ向かうユニオンパシフィック(Union Pacific)、もう一つは、カリフォルニア州サクラメント(Sacramento)から東へ向かうセントラルパシフィック(Central Pacific)でした。これらの鉄道を早く完成させるため、議会は土地交付と融資という形で手厚い補助を行います。建設は議会の予想より遅れますが、1869年5月、ユタ州プロモントリー(Promontory)で、盛大なセレモニーとともに、2つの路線が出会うことになりました。

Union Pacific

他方、別の鉄道会社も西へ向かって建設を始めていましたが、1873年のパニックとそれに続く不況により、多くの路線で建設が中止されたり、遅れたりします。1877年以降に繁栄が戻ると、いくつかの鉄道会社は建設を再開または加速していきます。1883年までに、ミシシッピ渓谷と西海岸を結ぶ3つの鉄道が完成します。ノースパシフィック(Northern Pacific)はセントポール(St. Paul)からポートランド(Portland)まで、サンタフェ(Santa Fe)はシカゴからロサンゼルスまで、サザンパシフィック(Southern Pacific)はニューオーリンズからロサンゼルスまでを繋ぎます。サザンパシフィックはポートランドからサンフランシスコまでとサンフランシスコからロサンゼルスまでの路線を購入または建設していきます。

Southern Pacific Railroad

中西部から太平洋岸までの鉄道建設は、南北戦争後の四半世紀における鉄道建設業者の最も壮大な成果となります。南部諸州の鉄道網が整備され、ミシシッピー以西のほぼすべての重要な地域とシカゴを結ぶ鉄道が建設されたことも、国民経済という点ではそれに劣らず重要な出来事です。

Southern Pacific

西部もまた鉄道の建設と同時に発展し、鉄道の重要性がこれほどまでに認識された地域はありませんでした。鉄道は、その地域に活力を与えると同時に、運行を停止することで地域社会を停滞させることもありました。鉄道会社は、自分たちの都合のよいように価格を決め、顧客を差別し、可能な限り輸送を独占しようとしました。州や地方の政治に介入して、有力者を当選させ、不利な法案を阻止し、さらには裁判所の判決に影響を与えるなど、強力な地位を利用していきます。

アメリカ合衆国建国の歴史 その116 大平原での牛の放牧

南北戦争末期、北部の牛肉価格は異常なほど高騰します。その頃、テキサスの平原では、何百万頭もの牛が放牧されていました。特に、牛の世話をするカウボーイを数人雇い、春になると牛を市場まで連れて行くだけの資金があれば、綿花を耕作するよりも牛の世話のほうが大きな利益を生むかもしれないと考えたのです。当時牛の所有者はいなく、公有地で無償で放牧されていました。

当時は、牛を市場へ出荷することが大きな課題となっていました。カンザス・パシフィック(Kansas Pacific)は、1867年にカンザス州アビリーン(Abilene)まで西部鉄道路線を完成させ、この問題を解決します。アビリーンは、年間を通して牛が放牧されるテキサスの最も近い地点から300キロメートルも離れていました。しかし、テキサスのカウボーイたちは、毎年春に牛の群のうち市場に出す準備ができた部分を陸路でアビリーンまで運ぶという方法を採用します。そこで彼らは東部の食品加工業者(packinghouse)の代表に牛を売ります。

 O.K. Corral

牛の放牧は予想以上に繁盛し、イギリスの保守的な投資家からも資金を得ることができます。1880年代には、放牧は平原地帯を北上し、ダコタ州まで拡大します。その間に、入植者の増加という新たな脅威が現れましたが、カンザス州ダッジシティ(Dodge City)からコロラド州ラジュンタ(La Junta)までのサンタフェ鉄道(Santa Fe Railway)の建設により、牧畜業者は入植者より先に西へ移動することができました。

荒野の決闘

ダッジシティはアビリーンに代わって、牧畜業者と買い手の年次会合の中心地となります。高地の大平原を開拓する入植者との散発的な衝突はありましたが、1886-87年の冬に一連の猛吹雪が大平原をかつてないほど激しく襲い、数十万頭の牛が死に、多くの業者が破産に追い込まれました。まだ牛と資本を持っていた業者は、放牧地を放棄し、家畜を保護できる西の土地に所有権を得て、開拓のフロンティアがやってこない土地で牧畜業を復活させていきます。このような新しい土地への移住は、この地域とシカゴや太平洋岸を結ぶ他の鉄道の建設によって可能になったともいわれています。

アメリカ合衆国建国の歴史 その115 アラスカの購入と西部開拓と金鉱

1867年、国務長官ウイリアム・スワード(Secretary of State Seward) が議会を説得して、ロシアからアラスカを720万ドルで購入し、アメリカは大陸進出を完了します。その後、西部開拓は急速に進み、ミシシッピー以西に住むアメリカ国民の割合は、1880年の約22パーセントから1900年には27パーセントに増加します。世紀を通じて新しい州が加わり、1900年にはアメリカ本土でまだ州認定を待っている準州は3つだけとなりました。オクラホマ、アリゾナ、ニューメキシコの3州です。

Alaska

1890年、国勢調査局(Bureau of the Census)は、西部開拓の最前線を示す連続した線がもはや引けないと指摘します。西部への人口移動は続いていたものの、フロンティアは過去のものとなっていきました。農場から都市への人々の移動により、より正確に将来の傾向を予測することができるようになりました。1880年、国勢調査局によりますと、アメリカ国民の約28パーセントが都市と指定された地域に住んでいましたが、1900年には40パーセントに上昇します。この統計から、アメリカでは農村の勢力が衰退し、工業化社会が始まったことが読み取れます。

William Seward

エイブラハム・リンカンは、かつて西部を “国家の宝庫 “と表現しました。カリフォルニアで金が発見されてからの30年間、探鉱者たちは西部のすべての州や土地で金や銀を発見します。南北戦争後の時代には、本当に豊かな大発見はほとんどありませんでした。その中でも最も重要なのは、ネバダ州西部コムストックロード(Comstock Lode)での非常に豊かな銀の発見です。銀は1859年に初めて発見されますが、その後より広範囲に開発されていきます。1874年には、サウスダコタ州のブラックヒルズ(Black Hills) で、1891年には、コロラド州のクリプルクリーク(Cripple Creek)で金が発見されます。

金や銀が発見されると、すぐに鉱山町ができ、探鉱者たちの生活や娯楽を満たしていきます。鉱脈のほとんどが地表に近いところにあれば、探鉱者たちはすぐにそれを採掘して立ち去り、そこには良き時代を思い起こすようなゴーストタウンが残ります。鉱脈が深ければ、必要な機械を購入する資本を持つ組織的なグループが地下の富を採掘するために動き出し、鉱山の町は地元の産業の中心地として安定を取り戻していきます。鉱山の町は、最初は鉱夫のニーズを満たすために発展し、後に余剰生産物を西部の他の地域に輸出するために拡大した農業地域の商業の中心地として、確固たる地位を築いた例もあります

アメリカ合衆国建国の歴史 その114 アメリカ社会の転換

1880年のアメリカ大陸の人口は5,000万人をわずかに超えていました。1900年には7,600万人弱となり、50%以上増加しますが、それでも19世紀のどの20年間でも人口増加率は最も小さかったのです。ミシシッピー以東のほとんどの州は、全国平均をわずかに下回る増加率を記録します。

人口増加の多くは、今世紀末の20年間にアメリカに流入した900万人以上の移民によるもので、それまでの比較可能な期間では最多の移民が流入してきました。共和国初期から1895年までは、移民の大半は北欧か西ヨーロッパからでした。しかし、1896年以降、移民の大半は南欧や東欧から来た人々です。すでに移民が政治的権力を持ちすぎたり、暴力や産業紛争を引き起こしたりしていると考えていた神経質なアメリカ人は、新しい移民がアメリカ社会に容易に同化できるわけがないと懸念し、新たな不安材料を見出していきます。こうした懸念は、アメリカへの入国資格を持つ移民の数を制限する法律を求める運動へと発展し、20世紀初頭には北欧や西ヨーロッパからの移民を優遇する割当法を制定するに至ります。

鉄道建設に従事する中国人

それまでは、移民に対する大きな規制といえば、1882年に合衆国議会で可決された中国人労働者のアメリカへの移民を10年間禁止する「中国人排斥法(Chinese Exclusion Act)」くらいでした。この法律は、10年以上にわたる西海岸の中国人排斥運動の成果であると同時に、あらゆる移民を受け入れるというアメリカの伝統的な考え方に、早くも変化をもたらすものでした。カリフォルニアからの圧力に応え、議会は1879年に排斥法を可決したのですが、1868年のバーリンゲーム条約(Burlingame Treaty)によって中国人に保証された権利を奪うものであるという理由で、ヘイズ大統領(President Hayes)が拒否権を行使します。1880年、この条約の条項は改正され、アメリカは中国人の移民を一時停止することができるようになります。中国人排斥法は1892年にさらに10年間更新され、1902年には中国人移民の一時停止が無期限とされます。

中国人排斥法

アメリカ合衆国建国の歴史 その113 ブッカー・ワシントンとアトランタ妥協案

1880年代から90年代にかけて、多くのアフリカ系アメリカ人は、南部白人からの容赦ない敵意と増大する憎悪に直面します。そこで彼らは、唯一の賢明な道は表立った対立を避け、何らかの形の融和を図ることであると考えます。この方針の最も有力なアフリカ系アメリカ人の代弁者は、アラバマ州のタスキーギー研究所(Tuskegee Institute in Alabama)の所長であったブッカー・ワシントン(Booker T. Washington)でした。彼は、政治や古典語の大学教育は脇に置き、より良い農民や職人になる方法を学ぶようにと仲間のアフリカ系アメリカ人に強く促したのです。

Booker T. Washington

ワシントンは、倹約と産業、そして政治を避けることで、アフリカ系アメリカ人は次第に白人の隣人から尊敬されるようになると考えていました。1895年、アトランタ綿花合衆国・国際博覧会(Atlanta Cotton States and International Exposition)の開会式での演説で、ワシントンは自分の立場を最も詳しく説明し、この演説はアトランタ妥協案(Atlanta Compromise)として知られるようになります。彼は、アフリカ系アメリカ人のために連邦政府が介入する望みに期待せず、南部の改革は内部からもたらされねばならないと主張します。黒人も白人も、「社会的平等の問題を煽ることは最も愚かなこと」であり、社会生活において南部の人種は指のように分離していても、経済的進歩においては手のように一体化していることを認識すれば変化をもたらすことができると主張するのです。

ブッカー・ワシントン

南部の白人に熱狂的に受け入れられたワシントンのプログラムは、南部の黒人にも多くの支持者が現れ、彼らは彼の教義のなかに、圧倒的な白人の力との正面からの悲惨な対決を避ける方法を見出したのです。ワシントンの計画が、秩序正しく勤勉で質素なアフリカ系アメリカ人の世代を生み出し、ゆっくりと中流階級の地位へと導いていったかどうかは不明です。再建後のほとんどの期間、南部全域に深刻な経済不況が広がっていたからです。貧しい白人も貧しい黒人も、絶望的に貧しかったこの地域では、地位が向上する機会はあまりありませんでした。1890年までに南部は、一人当たりの所得、公衆衛生、教育など、アメリカ国内のあらゆる指標で最下位となります。つまり、1890年代の南部は、貧しく遅れた地域であり、南北戦争の惨禍から立ち直ることも、再建時代の再調整に順応することができていなかったのです。

アメリカ合衆国建国の歴史 その112 新しい南部の復興  1877–90年 Jim Crow法

南部におけるアフリカ系アメリカ人の投票は、救済系と保守系の対立の犠牲となりました。ジョージア州のトム・ワトソン(Tom Watson)のような一部のポピュリストの指導者は、南部の貧しい白人と貧しい黒人は、大農場主やビジネスマンとの闘いに利害関係を持つと考えたのですが、ほとんどの小規模の白人農民は、保守政権の維持に役立ったアフリカ系アメリカ人に対して執念深い憎しみを抱きます。1890年にミシシッピ州が新憲法制定会議を開いたのを皮切りに、1908年にジョージア州が憲法を改正するまで、旧連合国のすべての州がアフリカ系アメリカ人の選挙権を剥奪しようと動いたのです。

分離された待合室

合衆国憲法は、人種差別を全面的に禁止しているため、南部の州は、有権者に憲法のあらゆる条項を読解できる能力を要求し、アフリカ系アメリカ人を排除します。地元の登録機関は、この識字条件を白人には免除しますが、黒人が懸命に投票しようとすると厳格に識字条件を要求します。ルイジアナ州はさらに工夫を凝らし、憲法に「既得権条項(grandfather clause)」を追加し、1867年1月に議会が南部でアフリカ系アメリカ人の参政権を課す前に、投票権を有していた白人やその息子や孫をこの識字テストから免除するようにしたのです。他の州では、投票するために厳しい財産上の資格を課したり、複雑な投票税を制定したりします。

分離された客席

社会的にも政治的にも、南部の人種関係は、保守的な政権に挑戦する農民運動の高まりとともに悪化していきます。1890年には、南部保守系の勝利により、アフリカ系アメリカ人の地位は法律によって明確に定義され、従属的で完全に隔離された地位に追いやられてしまいます。「ブラックコード」とよばれる法的制裁がアフリカ系アメリカ人に課せられただけでなく、非公式、非合法、そしてしばしば残忍な手段が、彼らを特定の「場所」に留めるためにとられたのです。ジム・クロウ法(Jim Crow Laws)と呼ばれる人種差別的内容を含む南部諸州の州法により、一般公共施設の利用を禁止したり制限したりします。そのため、南部では年間平均188件ものリンチが起こります。

アメリカ合衆国建国の歴史 その111 新しい南部の復興  1877–90年

南部諸州の共和党政権は、1870年には早くも崩壊し始め、1877年にはすべて倒壊します。その後13年間、南部は、フランス王室のように、自分たちが経験した革命から何も学ばず、何も忘れていないとされるブルボン家(Bourbons)と呼ばれる白人民主主義者の指導下におかれたのです。ブルボン家は王国の心臓部に広大な所領を有し,強い独立性を保っていた貴族です。南部全体としては、この政治の特徴は正確とも公正ともいえませんでした。南部のほとんどの州では、新しい政治指導者たちは、農場主だけでなく、鉄道、綿織物、都市の土地投機に関心を持つ南部の新興財界の代表でもあったのです。

Bourbons


人種問題に関しても、南部の新しい政治指導者たちは、ブルボンというラベルから想像されるほど反動的ではありませんでした。南部の2州を除くすべての州で白人が多数派であったにもかかわらず、保守政権はアフリカ系アメリカ人の権利を剥奪しようとはしませんでした。彼らの抑制は、連邦政府のさらなる介入を恐れたこともあったのですが、主に、詐欺、脅迫、操作のいずれによってもアフリカ系アメリカ人有権者をコントロールできるという保守派指導者たちの確信から生まれていました。

実際、アフリカ系アメリカ人の票は、南部の実業家や農場主を優遇し、小規模な白人農民を犠牲にしたこれらの政権にとって、時として大きな価値を持つものでした。これらの「救済者政府」(Redeemer government)は、貧しい人々のためになる州政府のプログラムを大幅に削減し、あるいは廃止したりしました。1890年、南部の一人当たりの公教育費はわずか97セントで、国全体では2.24ドルでした。また、州の囚人、精神障害者、盲人のケアもないがしろにされ、公衆衛生のための措置も拒否されました。同時に、こうした保守的な政権は、しばしば驚くほどに腐敗し、公務員の横領や脱税は、再建時代よりもさらに多発していました。

Greenback

農場主の支配に憤る白人の小農民、ブラックベルト(Blackbelt) の選挙区で投票できない丘陵地帯の住民、支配者の陰謀から排除された政治家たちは、南部の保守政権を打倒しようと何度も試みました。1870年代には、彼らは無党派層やグリーンバック(Greenback)労働者層の候補者を支援しましたが、目立った成功は収められませんでした。1879年、ヴァジニア州のレドジャスター党(Readjuster Part)は、その支持者が同州の巨額の資金負債を再調整し、小規模農民の税負担を軽減しようとしたことから名付けられました。レドジャスター党は議会を支配し、1880年にはそのリーダーであるウィリアム・マホーン将軍(Gen. William Mahone)を合衆国上院議員に選出しました。しかし、1890年になると、それまで農業改革に専念していた有力な農民同盟が政治活動の禁止を解除し、保守の覇権に対抗するようになります。この年、同盟の支援を受けたベンジャミン・ティルマン(Benjamin R. Tillman)がサウスカロライナ州知事に、ジェームズ・ホーグ(James S. Hogg)がテキサス州知事に選出され、ここに南部ポピュリズムの全盛期が到来したのです。

アメリカ合衆国建国の歴史 その110 ユリシーズ・グラントの時代

グラント大統領(Ulysses S. Grant)の二期にわたる政権では、共和党の勢力が徐々に衰えていきます。政治家としてのグラントは消極的で、戦場で発揮したような輝きは全くありませんでした。彼の政権は、彼が忠実に擁護した部下の不誠実さによって汚点を残すことになります。サムナー(Sumner)、

Ulysses Grant

ウェイド(Wad)、スティーブンス(Stevens)といった急進派の指導者が亡くなり、共和党の指導者はロスコー・コンクリング (Roscoe Conkling)やジェームズ・ブレイン(James G. Blaine)といった、初期の共和党に見られたような理想主義的熱意を持たない者の手に移ってしまいます。同時に、多くの北部の人々は、再建問題全体に嫌気がさし、南部で毎年起こる暴動に対して連邦政府の度重なる武力行使を必要とすることに嫌悪するのです。

南部の急進派政権を強化するための努力は、次第に失敗を重ねるようになります。人種による投票差別を禁止する1870年の修正第15条の採択は、南部ではほとんど効果がありませんでした。テロ組織と農場主からの経済的圧力が、アフリカ系アメリカ人を投票所から遠ざけたからです。また、共和党が可決した3つの強制排除法(Force Act)は、大統領に人身保護令状を停止する権限を与え、テロ組織に重い罰則を課すのですが、長い目で見れば成功しませんでした。これらの法律は、クー・クラックス・クラン(Ku Klux Klan: KKK)を組織として解散させることには成功しますが、KKKメンバーと彼らの戦術によってこれまで以上に民主党陣営へと追いやることになります。

グラント大統領と明治天皇

急進的な再建とグラント政権に対する北部の幻滅は、1872年の自由共和党の運動で明らかになり、その結果、不安定なホレス・グリーリー(Horace Greeley)が大統領に指名されることになります。グラントは圧倒的に再選されますが、国民の感情は1874年の議会選挙で示され、南北戦争勃発以来初めて民主党が下院を支配することになります。グラントが3期目を希望していたにもかかわらず、ほとんどの共和党員は1876年までに候補者と再建計画の両方を変更する時期が来たと認識し、オハイオ出身のラザフォード・ヘイズ(Rutherford B. Hayes)が指名され、第19代合衆国大統領となります。彼は高い理念と南部への深い共感を持っている穏健派の共和党員で、ヘイズの指導によって共和党の急進派の支配が終ります。

1876年の選挙をめぐる状況です。ヘイズは、たとえ南部に残る少数の急進派政権を放棄することになっても、南部白人と協力する意思を強める姿勢をとります。不正行為が横行し、多くの不正が行われた選挙で、民主党候補のサミュエル・ティルデン(Samuel J. Tilde)は一般投票の過半数を獲得しますが、15人の委員からなる選挙委員会によって僅差でヘイズの勝利とします。ヘイズの陣営は、この行き詰まりを解決するために、南部の民主党議員と協定を結び、南部から連邦軍を撤退させ、南部の支援を民主党に分け与え、南部が要求する堤防や鉄道建設への連邦補助金の提供に賛成することを約束することとなりました。北部はアフリカ系アメリカ人を保護するために南部の選挙に干渉しなくなり、南部の白人が再び州政府を支配することになります。

ヘイズは能力主義の政府、人種に関係ない平等な待遇、および教育による改良を叫びます。1877年の鉄道大ストライキを鎮圧するよう連邦軍に命じ、再建が終了すると連邦軍の南部撤退を命じます。ヘイズは「黒人の権利は、南部白人に委ねたほうが安全である」と発言したりします。

アメリカ合衆国建国の歴史 その109 白人至上主義者の秘密結社

議会による復興計画のもとで南部の諸州に設立された政府は、従来の決まり文句とは異なり、かなり誠実で効果的な行政を行いました。この時期は「黒人の再建」と呼ばれることもありましたが、南部の急進派政府は、アフリカ系アメリカ人に支配されることはありませんでした。黒人の知事はおらず、黒人の上院議員も2人、下院議員も数人しかおらず、黒人が支配する議会は1つしかありませんでした。アフリカ系アメリカ人が政権を握ったとしても、その能力や誠実さは白人と同様であったと思われました。

Rutherford Hayes

このような急進派の政府は確実に資金を必要としましたが、戦後の復興全般や、南部の州で初めて公立学校の設置のために、多額の州による支出が必要だったのです。汚職は確かにありましたが、当時ニューヨーク行政を破綻させたツイード・リング(Tweed Ring)といったグループのような規模ではありませんでした。しかし、実際に起こったスキャンダルから言えることは、共和党員が民主党員よりも、あるいは黒人が白人よりも罪深いということを示すことは難しいことでした。

Ku Klux Klan

山岳地帯の南部白人の一部と豊かな低地の農場主は、新政府においてアフリカ系アメリカ人とその北部生まれの「カーペットバガー」(carpetbagger)と呼ばれた政治に関心のある者に協力することを望んでいましたが、そのような「スカラウグ」(scalawags)といわれるヤクザ者は比較的少数でした。南部白人の大部分は、アフリカ系アメリカ人の政治、市民、社会の平等に猛烈に反対し続けました。彼らの敵意は、いわゆる「高慢な黒人」を罰し、彼らの協力者である白人を南部から追い出そうとするクー・クラックス・クラン(Ku Klux Klan)のようなテロ組織を通じて見られることがありました。民主党は、南部で徐々に勢力を回復し、北部が急進派政権の支援に疲れるとともに、南部から連邦軍を撤退させるときを待っていたのです。

アメリカ合衆国建国の歴史 その108 南部における復興

南部では、復興期は無秩序を伴う再適応の時期となりました。南部の白人は、アフリカ系アメリカ人を準奉仕の状態に置くことを望み、市民権をほとんど拡大せず、社会的平等を断固拒否していました。他方、アフリカ系アメリカ人は完全な自由と、何よりも自分たちの土地を欲していました。必然的に両者の間に衝突が頻発しました。暴動に発展したものもありましたが、アフリカ系アメリカ人の指導者個人に対するテロ行為が目立ちました。

Gone with the Wind

こうした混乱の中で、南部の白人と黒人は、農場(プランテーション)を再び稼働させ、生計を立てる方法を模索し始めていきます。実際、再建時代の最も重要な出来事は、大々的に宣伝された政治的な争いではなく、南部社会で起こったゆっくりとした、ほとんど気づかないほどの変化でありました。アフリカ系アメリカ人は合法的に結婚できるようになり、従来型の安定した家族単位を築きました。彼らは静かに白人教会から離脱し、独自の宗教組織を形成し、それがアフリカ系アメリカ人社会の中心的存在となっていきます。土地もお金もないため、ほとんどの自由民は白人の主人のために働き続けなければなりませんでした。しかし、彼らはギャングとして働くこととか、奴隷として住んでいた宿舎で農園主によって看守されて暮らすことを嫌がるようになったのです。

Black Family in the South

南部の大部分では、小作は次第に労働システムとして受け入れられるようになります。資本不足の農園主は、現金での賃金を支払う必要がないため、この制度を好みました。アフリカ系アメリカ人は、借りた土地に個々の小屋で住むことができ、何を植えるか、どのように耕すかについてある程度の自由があったので、この制度を好みました。しかし、再建時代を通じて、この地域全体は絶望的に貧しく、1860年代後半に相次いだ凶作と1870年代の農業不況は、白人と黒人の双方に打撃を与えます。