アメリカ合衆国建国の歴史 その111 新しい南部の復興  1877–90年

南部諸州の共和党政権は、1870年には早くも崩壊し始め、1877年にはすべて倒壊します。その後13年間、南部は、フランス王室のように、自分たちが経験した革命から何も学ばず、何も忘れていないとされるブルボン家(Bourbons)と呼ばれる白人民主主義者の指導下におかれたのです。ブルボン家は王国の心臓部に広大な所領を有し,強い独立性を保っていた貴族です。南部全体としては、この政治の特徴は正確とも公正ともいえませんでした。南部のほとんどの州では、新しい政治指導者たちは、農場主だけでなく、鉄道、綿織物、都市の土地投機に関心を持つ南部の新興財界の代表でもあったのです。

Bourbons


人種問題に関しても、南部の新しい政治指導者たちは、ブルボンというラベルから想像されるほど反動的ではありませんでした。南部の2州を除くすべての州で白人が多数派であったにもかかわらず、保守政権はアフリカ系アメリカ人の権利を剥奪しようとはしませんでした。彼らの抑制は、連邦政府のさらなる介入を恐れたこともあったのですが、主に、詐欺、脅迫、操作のいずれによってもアフリカ系アメリカ人有権者をコントロールできるという保守派指導者たちの確信から生まれていました。

実際、アフリカ系アメリカ人の票は、南部の実業家や農場主を優遇し、小規模な白人農民を犠牲にしたこれらの政権にとって、時として大きな価値を持つものでした。これらの「救済者政府」(Redeemer government)は、貧しい人々のためになる州政府のプログラムを大幅に削減し、あるいは廃止したりしました。1890年、南部の一人当たりの公教育費はわずか97セントで、国全体では2.24ドルでした。また、州の囚人、精神障害者、盲人のケアもないがしろにされ、公衆衛生のための措置も拒否されました。同時に、こうした保守的な政権は、しばしば驚くほどに腐敗し、公務員の横領や脱税は、再建時代よりもさらに多発していました。

Greenback

農場主の支配に憤る白人の小農民、ブラックベルト(Blackbelt) の選挙区で投票できない丘陵地帯の住民、支配者の陰謀から排除された政治家たちは、南部の保守政権を打倒しようと何度も試みました。1870年代には、彼らは無党派層やグリーンバック(Greenback)労働者層の候補者を支援しましたが、目立った成功は収められませんでした。1879年、ヴァジニア州のレドジャスター党(Readjuster Part)は、その支持者が同州の巨額の資金負債を再調整し、小規模農民の税負担を軽減しようとしたことから名付けられました。レドジャスター党は議会を支配し、1880年にはそのリーダーであるウィリアム・マホーン将軍(Gen. William Mahone)を合衆国上院議員に選出しました。しかし、1890年になると、それまで農業改革に専念していた有力な農民同盟が政治活動の禁止を解除し、保守の覇権に対抗するようになります。この年、同盟の支援を受けたベンジャミン・ティルマン(Benjamin R. Tillman)がサウスカロライナ州知事に、ジェームズ・ホーグ(James S. Hogg)がテキサス州知事に選出され、ここに南部ポピュリズムの全盛期が到来したのです。