南北戦争末期、北部の牛肉価格は異常なほど高騰します。その頃、テキサスの平原では、何百万頭もの牛が放牧されていました。特に、牛の世話をするカウボーイを数人雇い、春になると牛を市場まで連れて行くだけの資金があれば、綿花を耕作するよりも牛の世話のほうが大きな利益を生むかもしれないと考えたのです。当時牛の所有者はいなく、公有地で無償で放牧されていました。
当時は、牛を市場へ出荷することが大きな課題となっていました。カンザス・パシフィック(Kansas Pacific)は、1867年にカンザス州アビリーン(Abilene)まで西部鉄道路線を完成させ、この問題を解決します。アビリーンは、年間を通して牛が放牧されるテキサスの最も近い地点から300キロメートルも離れていました。しかし、テキサスのカウボーイたちは、毎年春に牛の群のうち市場に出す準備ができた部分を陸路でアビリーンまで運ぶという方法を採用します。そこで彼らは東部の食品加工業者(packinghouse)の代表に牛を売ります。
牛の放牧は予想以上に繁盛し、イギリスの保守的な投資家からも資金を得ることができます。1880年代には、放牧は平原地帯を北上し、ダコタ州まで拡大します。その間に、入植者の増加という新たな脅威が現れましたが、カンザス州ダッジシティ(Dodge City)からコロラド州ラジュンタ(La Junta)までのサンタフェ鉄道(Santa Fe Railway)の建設により、牧畜業者は入植者より先に西へ移動することができました。
ダッジシティはアビリーンに代わって、牧畜業者と買い手の年次会合の中心地となります。高地の大平原を開拓する入植者との散発的な衝突はありましたが、1886-87年の冬に一連の猛吹雪が大平原をかつてないほど激しく襲い、数十万頭の牛が死に、多くの業者が破産に追い込まれました。まだ牛と資本を持っていた業者は、放牧地を放棄し、家畜を保護できる西の土地に所有権を得て、開拓のフロンティアがやってこない土地で牧畜業を復活させていきます。このような新しい土地への移住は、この地域とシカゴや太平洋岸を結ぶ他の鉄道の建設によって可能になったともいわれています。