1880年のアメリカ大陸の人口は5,000万人をわずかに超えていました。1900年には7,600万人弱となり、50%以上増加しますが、それでも19世紀のどの20年間でも人口増加率は最も小さかったのです。ミシシッピー以東のほとんどの州は、全国平均をわずかに下回る増加率を記録します。
人口増加の多くは、今世紀末の20年間にアメリカに流入した900万人以上の移民によるもので、それまでの比較可能な期間では最多の移民が流入してきました。共和国初期から1895年までは、移民の大半は北欧か西ヨーロッパからでした。しかし、1896年以降、移民の大半は南欧や東欧から来た人々です。すでに移民が政治的権力を持ちすぎたり、暴力や産業紛争を引き起こしたりしていると考えていた神経質なアメリカ人は、新しい移民がアメリカ社会に容易に同化できるわけがないと懸念し、新たな不安材料を見出していきます。こうした懸念は、アメリカへの入国資格を持つ移民の数を制限する法律を求める運動へと発展し、20世紀初頭には北欧や西ヨーロッパからの移民を優遇する割当法を制定するに至ります。
それまでは、移民に対する大きな規制といえば、1882年に合衆国議会で可決された中国人労働者のアメリカへの移民を10年間禁止する「中国人排斥法(Chinese Exclusion Act)」くらいでした。この法律は、10年以上にわたる西海岸の中国人排斥運動の成果であると同時に、あらゆる移民を受け入れるというアメリカの伝統的な考え方に、早くも変化をもたらすものでした。カリフォルニアからの圧力に応え、議会は1879年に排斥法を可決したのですが、1868年のバーリンゲーム条約(Burlingame Treaty)によって中国人に保証された権利を奪うものであるという理由で、ヘイズ大統領(President Hayes)が拒否権を行使します。1880年、この条約の条項は改正され、アメリカは中国人の移民を一時停止することができるようになります。中国人排斥法は1892年にさらに10年間更新され、1902年には中国人移民の一時停止が無期限とされます。