日本にやって来て活躍した外国人 その四十五 イザベラ・バード

Isabella L. Bird

イギリスの女流作家にイザベラ・バード(Isabella L. Bird)がいます。当時の女性としては珍しい「旅行家」として、世界中を旅した女性でもあります。バードは1831年、イングランド北部ヨークシャー(Yorkshire)で牧師の2人娘の長女として生まれます。1878年、47歳で来日し東京を起点に日光から新潟へ抜け、日本海側から北海道に至る北日本を旅します。このときヘボン博士の紹介で伊藤鶴吉という従者兼通訳の日本人男性一人が同伴します。伊藤には英語能力のほか、英国人で植物学者であったチャールズ・マリーズ(Charles Maries)の植物採集に従事した経験があったからです。

国内旅行にはさまざまな制約がありました。イギリス公使であったハリー・パークス(Harry S. Parkes)の尽力で「外国人内地旅行免状」をもらい旅します。そのような時代にバードはアイヌの一拠点集落である平取をめざして北海道へ、そして関西・伊勢神宮へと旅します。彼女は日本滞在の7カ月で4,500キロ以上を旅したようです。その目的は当時の日本を記録すること、そしてキリスト教伝播の可能性を探ることでありました。

北海道平取町ペンリウク長

これらの記録を全2巻800ページを超える大著『日本の未踏の地:蝦夷の先住民と日光東照宮・伊勢神宮訪問を含む内地旅行の報告』(Unbeaten Tracks in Japan)として残しています。北海道の旅の目的地を平取に定め、アイヌの長ペンリウク宅で3泊4日滞在し、アイヌの生活や文化を学び知ろうと全力を注ぎ、濃密な記録を書き残します。実はアイヌへのキリスト教伝道とも結びついていたようです。彼女の記録は、まだアイヌ文化の研究が本格化する前の明治時代初期の状況を詳しく紹介したほぼ唯一の貴重な文献となります。彼女の報告の原題は「Unbeaten Tracks in Japan: An Account of Travels in the Interior Including Visits to the Aborigines of Yezo and the Shrines of Nikkō and Ise」とあります。アイヌのことをアボリジニ(Aborigines)と呼んでいるのは興味あります。

バードの旅は時に地元紙にも紹介され、視察の旅であることが読者に伝えられていたといわれます。旅は用意周到に準備・計画され、ルートは目的に従い事前に設定されていました。例えば、日光から会津を抜け、津川から阿賀野川を舟で下って日本海側の新潟に出たのは、開港場であるが故にそこに宣教師がおり、その活動を学び知り新潟のさまざまな実態を明らかにするためだったようです

日本にやって来て活躍した外国人 その四十四  エライザ・シドモア

Eliza R. Scidmore

アメリカ人で著作家・写真家・地理学者であったエライザ・シドモア(Eliza R. Scidmore) のことです。オハイオ州のオーバリン大学(Oberlin College)に学びます。旅行に関心を抱いたのは、1884年から1922年まで在横浜米国総領事館に外交官として勤務していたジョージ・シドモア(George Scidmore)に因るところが大きかったようです。当時の日本は、西洋からの訪問者に対して門戸を開いたばかりだったので、シドモアはしばしば兄の任務に同行し、一般の旅行者にはアクセスできない地域へも渡航することができました。

19歳のときに初めて「National Republican」紙のコラムを担当し、その後、「New York Times」紙を含むさまざまな新聞に、ワシントンD.C.の社会に関する記事を投稿し、文筆が認められていきます。日本には3度も訪れて合計3年間滞在し、全国を行脚して様々な記録を残します。『ナショナルジオグラフィック』(National Geographic)の紀行作家であり地理学者。女性として初めて米国地理学協会の理事に就任し、東洋研究の第一人者として活躍した。後に、シドモアはナショナル ジオグラフィック協会の理事に選ばれた最初の女性です。

日本に関する記事や著作も残しています。「日本・人力車旅情」(Jinrikisha Days in Japan)を著し、1896年には三陸地震津波の被災地に入って取材し、「The Recent Earthquake Wave on the Coast of Japan」をナショナル・ジオグラフィックの9月号に寄稿しています。この投稿で、彼女は「Tsunami」という言葉を使っています。

Potomac River, Washington DC

日本にやって来て活躍した外国人 その四十三 ポール・ブリュナ

フランス人の生糸技術者でお雇い外人にポール・ブリュナ(Paul Brunat)がいます。ドローム県(Droma)のブール・ド・ペアージュ(Bourg de Peage)に生まれます。お雇い外国人として、富岡製糸場の設立に携わり 計画、建設、操業の全てに関わった技師です。

Paul Brunat

1870年に明治政府は、自前で器械製糸工場の設立を決めます。大蔵省の役人だった深谷出身の渋沢栄一らは、フランス人公使、ロシュ (Michel Jules Roches)の紹介で指導者としてブリュナを製糸場建設・運営、指導の責任者として契約します。設立場所としてもともと養蚕業が盛んで東京や横浜に近い群馬・富岡に日本初の器械製糸工場の地として選びます。

ブリュナは、母国フランスから建築家や技師らを招き、さらに日本人工女に器械による繰糸の操作方法を教えるために、フランスから何人かの女性技術者を招き入れます。繰糸機や蒸気機関等を輸入して1872年に操業を開始します。この時に導入された機械は蒸気機関を利用した繭から糸を巻き取る繰糸作業を行うだけのものでした。やがて、この官営富岡製糸工場は日本の殖産興業に大きな貢献をします。

フランス人女性技術者

日本にやって来て活躍した外国人 その四十二 ルイ・エミール・ベルタン

フランスの海軍技術者で日本海軍に招かれフランス人にルイ・エミール・ベルタン(Louis-Emile Bertin)がいます。1886年から1890年の4年間、日本海軍のお雇い外国人としてベルタンは、日本人技術者と船舶設計技師を育て上げ、近代的な軍艦を設計・建造し、海軍の施設を建造します。来日したときは45歳でした。フランス政府にとっては、当時工業化していた日本への影響力を高め、イギリスとドイツの技術を凌駕する機会ととらえていたようです。

Louis-Emile Bertin

ベルタンは、近代的な軍艦を設計して建造し、海軍の施設・呉、佐世保工廠などを建造するのを指揮します。この間に彼が手がけた軍艦に海防艦「松島」「橋立」「厳島」(通称「三景艦」)をはじめとする7隻の主力艦と22隻の水雷艇に及びます。これらは日清戦争における日本艦隊の主力となります。彼の努力は1894年9月の黄海海戦での勝利へとつながります。ベルタンは海防艦と一等巡洋艦建造のための設計を確立しただけではなく、艦隊組織、沿岸防御、大口径砲の製造、鉄鋼や石炭などの材料の使用法も教授しています。

フランスに帰国後は海軍機関学校校長、大将、海軍艦政本部部長を歴任し、在任中にフランス海軍を世界2位の海軍に育て上げます。その功績を記念してフランス海軍にはエミール・ベルタンの名を冠した巡洋艦が生まれます。

巡洋艦ベルタン

日本にやって来て活躍した外国人 その四十一 フランシス・ホール

私の住む多摩にやってきたことのある幕末期のアメリカ人商人、新聞の通信員、フランシス・ホール(Francis Hall)のことです。あまり知られてはいない外国人です。1822年にコネチカット州(Conneticut)エリントン(Ellington)に生まれた。地方判事の父親ホール(John Hall)はイェール大学(Yale University)出の教育者でもあり、「エリントン・スクール(Ellington School)」という初めての学校を作った人物です。

Francis Hall

ホールは父親が作った学校を1838年に卒業し、兄がマサチューセッツ州に開いた本屋を手伝ったのち、1841年にシラキュース(Syracuse)の本屋で働きます。知人の旅行作家が1855年のペリーの日本来航に同行したことに触発され、1859年日本へ冒険旅行に出かけます。

1859年に来日し、ジェームス・ヘボン(James C. Hepburn)らの宣教師家族とともに神奈川宿の成仏寺住みます。1860年に横浜の居留地に移ります。横浜居留地に店を構えていた貿易商社のウォルシュ・ホール商会(Walsh Hall)の友人ジョージ・ホール(George Hall)が1862年に帰国することになり、その後任として同社に参加します。

ホールはニューヨーク・トリビューン紙(Tribune)の通信員も兼ねていて、貿易業の傍ら7年間の日本滞在中に同紙に約70本の記事を送信します。滞在日記も1859年から離日するまで書き続けます。日本で一財産を築き、1866年にアメリカに帰国します。兄のエドワード(Edward Hall)は、1844年にエリントンに「ホール・ファミリー・スクール・フォー・ボーイズ(Hall Family School for Boys)」という男子校を創立します。同校には、ウォルシュ・ホール商会と懇意にしていた岩崎弥太郎の弟・岩崎弥之助が1872年に留学します。その学校の記念図書館建設に当たり、弥之助は2,000ドルを日本コレクション整備のために寄付するという記録が残っています。

岩崎弥之助

日本にやって来て活躍した外国人 その四十  ニコライ・カサートキン

東京は神田にきたとき、是非訪れて欲しいのが通称「ニコライ堂」です。ロシア正教(Russian Orthodox Church)の宣教師、ニコライ・カサートキン(Ian D. Kasatkin)を紹介することにします。名前はイアンですが、ニコライ(Nikolai)は修道士となって付けられた名前です。イアンは1860年6月に按手を受けて修道士となり名をイアンからニコライと改めます。サンクトペテルブルグ神学大学(St. Petersburg Seminary)の十二聖使徒聖堂で司祭に叙聖され聖ニコライとなります。

Ian D. Kasatkin

聖ニコライが箱館領事館付司祭として渡来したのは1861年です。サンクトペテルブルグ神学大学在学中にゴロウニン(Vasilii Gorovnin)の書いた「日本幽囚記」を読み日本に興味を抱いたと伝えられています。聖ニコライは後に日本での伝道活動が軌道に乗ってくると、正教会において、十二使徒のうちの聖使徒ペトル(ペテロ)と聖使徒パウェル(パウロ)を記憶して祝う祭り、ペトル・パウェル祭の日を日本における伝道方針を定める日とします。

東京復活大聖堂

日本ハリストス正教会(Orthodox Church in Japan) を組織後、上京し神田駿河台に本部となる東京復活大聖堂(Holy Resurrection Cathedral in Tokyo)を創建します。通称神田ニコライ堂と呼ばれ、ビザンティン様式の教会建築として有名です。ニコライ堂には苦難の歴史があります。1894年に竣工されますが、高台にあって皇居など東京を見渡せるので、スパイ活動をするのではないかと疑われたのです。

それに先立ち、日本人最初のイコン画家になったのが、山下りんです。帝政ロシアの首都サンクトペテルブルクに留学し、女子修道院にてイコン(Icon) 製作技術を学び、1883年に帰国します。そしてニコライ堂内にイコン画を納めます。 

1904年には日露戦争が勃発しますがニコライ大主教はロシアに帰国しません。反ロシアの機運が高まることによって、聖堂が破壊されるのを恐れたからです。1923年9月1日に関東大震災が起こり、ニコライ堂の鐘楼やドームが破壊され、内部のイコン画などが焼失します。ニコライ堂が再建されたのは1924年です。関東大震災で消失したと思われていた日記-『宣教師ニコライの日記抄』が発見され2007年に日本語版が出版されます。