フランス人の生糸技術者でお雇い外人にポール・ブリュナ(Paul Brunat)がいます。ドローム県(Droma)のブール・ド・ペアージュ(Bourg de Peage)に生まれます。お雇い外国人として、富岡製糸場の設立に携わり 計画、建設、操業の全てに関わった技師です。
1870年に明治政府は、自前で器械製糸工場の設立を決めます。大蔵省の役人だった深谷出身の渋沢栄一らは、フランス人公使、ロシュ (Michel Jules Roches)の紹介で指導者としてブリュナを製糸場建設・運営、指導の責任者として契約します。設立場所としてもともと養蚕業が盛んで東京や横浜に近い群馬・富岡に日本初の器械製糸工場の地として選びます。
ブリュナは、母国フランスから建築家や技師らを招き、さらに日本人工女に器械による繰糸の操作方法を教えるために、フランスから何人かの女性技術者を招き入れます。繰糸機や蒸気機関等を輸入して1872年に操業を開始します。この時に導入された機械は蒸気機関を利用した繭から糸を巻き取る繰糸作業を行うだけのものでした。やがて、この官営富岡製糸工場は日本の殖産興業に大きな貢献をします。