日本にやって来て活躍した外国人 その四十一 フランシス・ホール

私の住む多摩にやってきたことのある幕末期のアメリカ人商人、新聞の通信員、フランシス・ホール(Francis Hall)のことです。あまり知られてはいない外国人です。1822年にコネチカット州(Conneticut)エリントン(Ellington)に生まれた。地方判事の父親ホール(John Hall)はイェール大学(Yale University)出の教育者でもあり、「エリントン・スクール(Ellington School)」という初めての学校を作った人物です。

Francis Hall

ホールは父親が作った学校を1838年に卒業し、兄がマサチューセッツ州に開いた本屋を手伝ったのち、1841年にシラキュース(Syracuse)の本屋で働きます。知人の旅行作家が1855年のペリーの日本来航に同行したことに触発され、1859年日本へ冒険旅行に出かけます。

1859年に来日し、ジェームス・ヘボン(James C. Hepburn)らの宣教師家族とともに神奈川宿の成仏寺住みます。1860年に横浜の居留地に移ります。横浜居留地に店を構えていた貿易商社のウォルシュ・ホール商会(Walsh Hall)の友人ジョージ・ホール(George Hall)が1862年に帰国することになり、その後任として同社に参加します。

ホールはニューヨーク・トリビューン紙(Tribune)の通信員も兼ねていて、貿易業の傍ら7年間の日本滞在中に同紙に約70本の記事を送信します。滞在日記も1859年から離日するまで書き続けます。日本で一財産を築き、1866年にアメリカに帰国します。兄のエドワード(Edward Hall)は、1844年にエリントンに「ホール・ファミリー・スクール・フォー・ボーイズ(Hall Family School for Boys)」という男子校を創立します。同校には、ウォルシュ・ホール商会と懇意にしていた岩崎弥太郎の弟・岩崎弥之助が1872年に留学します。その学校の記念図書館建設に当たり、弥之助は2,000ドルを日本コレクション整備のために寄付するという記録が残っています。

岩崎弥之助