東京は神田にきたとき、是非訪れて欲しいのが通称「ニコライ堂」です。ロシア正教(Russian Orthodox Church)の宣教師、ニコライ・カサートキン(Ian D. Kasatkin)を紹介することにします。名前はイアンですが、ニコライ(Nikolai)は修道士となって付けられた名前です。イアンは1860年6月に按手を受けて修道士となり名をイアンからニコライと改めます。サンクトペテルブルグ神学大学(St. Petersburg Seminary)の十二聖使徒聖堂で司祭に叙聖され聖ニコライとなります。
聖ニコライが箱館領事館付司祭として渡来したのは1861年です。サンクトペテルブルグ神学大学在学中にゴロウニン(Vasilii Gorovnin)の書いた「日本幽囚記」を読み日本に興味を抱いたと伝えられています。聖ニコライは後に日本での伝道活動が軌道に乗ってくると、正教会において、十二使徒のうちの聖使徒ペトル(ペテロ)と聖使徒パウェル(パウロ)を記憶して祝う祭り、ペトル・パウェル祭の日を日本における伝道方針を定める日とします。
日本ハリストス正教会(Orthodox Church in Japan) を組織後、上京し神田駿河台に本部となる東京復活大聖堂(Holy Resurrection Cathedral in Tokyo)を創建します。通称神田ニコライ堂と呼ばれ、ビザンティン様式の教会建築として有名です。ニコライ堂には苦難の歴史があります。1894年に竣工されますが、高台にあって皇居など東京を見渡せるので、スパイ活動をするのではないかと疑われたのです。
それに先立ち、日本人最初のイコン画家になったのが、山下りんです。帝政ロシアの首都サンクトペテルブルクに留学し、女子修道院にてイコン(Icon) 製作技術を学び、1883年に帰国します。そしてニコライ堂内にイコン画を納めます。
1904年には日露戦争が勃発しますがニコライ大主教はロシアに帰国しません。反ロシアの機運が高まることによって、聖堂が破壊されるのを恐れたからです。1923年9月1日に関東大震災が起こり、ニコライ堂の鐘楼やドームが破壊され、内部のイコン画などが焼失します。ニコライ堂が再建されたのは1924年です。関東大震災で消失したと思われていた日記-『宣教師ニコライの日記抄』が発見され2007年に日本語版が出版されます。