北海道とスコットランド その8  スコットランド人の活躍は続く その1 トマス・グラバー

長崎にあるグラバー園は第一級の観光地である。なんといっても眺めが良く、建物も非日常的なたたずまいである。その館を建てたトマス・グラバー(Thomas Glover)もまたスコットランド人である。

グラバーは上海にあったスコットランド系の会社ジャディン・マセソン商会(Jardine Matheson Holdings)で働く。マセソン商会は、上海を拠点にしてアヘンの密輸と茶のイギリスへの輸出で巨万の富を得た。それは「アヘン戦争」に深く関わっていた。21歳で来日しやがてマセソン商会の長崎代理店として「グラバー商会」をつくる。

当時、イギリスは世界の貿易をめぐり、フランスとのし烈なライバル関係にあった。徳川幕府を支援していたフランスとの角逐である。「グラバー商会」は、当時船舶、武器弾薬、機械の輸入、さらに茶や貝類、絹織物の輸出で利益をあげていた。亀山社中とも取引があった。製茶工場を造ったり、肥前藩とで高島炭鉱開発に着手するなど商取引を広げていく。薩摩、長州、土佐ら討幕派の雄藩を支援し、日本の近代史の幕開けに貢献する。グラバーは、やがて生麦事件をきっかけに起こった薩英戦争などで悪化した関係修復や強化にも奔走する。

グラバーは商売だけでなく、長州や薩摩の志士を国禁をおかしてイギリスに留学させる。その中に井上馨や伊藤博文らがいた。グラバーは商人ではあったが、先進国の傲慢や優越感にとらわれなかったといわれる。日本文化の良さや利点を学び、それに溶け込もうとした柔軟な精神をもっていたともいわれる。そうした精神構造や適応性は、日本の近代化に参加したスコットランド人に共通した特性といわれる。この点はさらなる検証が必要だと筆者は考える。

日本にやってきたスコットランド人の多くが日本人と結婚している。歌劇「蝶々夫人」のモデルとされるのがグラバーと結婚した談川ツルである。その経緯だが、ツルが格式の高い士族の出身であること、商人である外国人と結婚したことなどが、著者ジョン・ロング(John Luther Long)というアメリカ人小説家の目にとまったようである。西洋の男性にとっては、ゴシップのような話題であったようだ。

809_13_ Jardine Matheson Holdings9長崎市グラバー園

北海道とスコットランド その7  スコットランド人と北海道の開拓 その2 ニール・マンロー

北海道、特に道東と道北は小生が育ったところである。北海道開拓の歴史でもう一人のスコットランド人を紹介する。ニール・マンロー(Neil Munro)である。彼の業績については筆者も使った副読本で紹介されていたのを覚えている。

マンローはエジンバラ大学で医学を学び、インド航路の船医としてやがて日本にやってくる。医師のかたわら考古学にも関心を示す。神奈川の根岸や三ツ沢で貝塚を発掘している。アマチュア考古学者であったが、日本列島における旧石器文化の存在を示唆した。1898年北海道に上陸し、そしてアイヌの文化に惹かれその理解者となっていく。アイヌの木彫りが縄文式土器の文様に酷似しているころから、縄文人はアイヌの祖先ではないかという仮説をたてる。

アイヌ研究はアイヌとの深い信頼関係に根ざしていたようだ。アイヌと一緒に生活し、その文化に深く傾倒していく。晩年は平取町二風谷に長く住みそこで医療活動をする。アイヌの悲惨な境遇に接し、貧困が飲酒と怠惰に原因すると考え、生活の改善策として果樹栽培や畑作、牧畜をアイヌに奨励する。

マンローは晩年になると、国際情勢の緊張によりスパイの嫌疑がかかったこともあったようだ。だがアイヌなど地元の人々はマンローの人柄や研究への情熱に尊敬の念を抱いていた。マンローの葬儀は、アイヌの人の古式にそって執り行われたといわれる。彼が蒐集したアイヌ民具などのコレクションはエディンバラにあるスコットランド国立美術館(The National Galleries of Scotland)に収蔵されているという。

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北海道とスコットランド その6  スコットランド人と北海道の開拓 その1 エドウィン・ダン

北海道開拓の歴史にもスコットランド人が貢献したことを忘れてはならない。その一人がエドウィン・ダン(Edwin Dun)である。

ダンもまた明治期のお雇い外国人の一人。獣医師であり畜産や肉の加工などで多くの弟子を養成したといわれる。ダンの両親はスコットランド人で、アメリカのオハイオ州に移民しそこで酪農を始める。同州オックスフォード市(Oxford)にあるマイアミ大学(Miami University)を卒業後、父の経営する牧場で牧畜全般の経験を積み、さらに叔父の牧場で競走馬と肉牛の育成法を学ぶ。

1873年に明治政府との間で1年間の雇用契約を結び北海道にやってくる。技術指導者として、また獣医として畜産状の技術指導にあたる。札幌西部に牧羊場を、真駒内に牧牛場を開設し、バター、チーズ、練乳の製造およびハムやソーセージの加工技術を指導した。

競走馬の養成にも力を注ぎ、日高の新冠牧場では最高千数百頭もの馬が飼育されたといわれる。種馬や種羊を積極的に輸入し、品種改良や増産にあたった。日高地方がやがて日本における競走馬の主要な産地となっていく。

彼の功績を称える「エドウィン・ダン記念公園」が札幌の中心のやや南の真駒内にある。その中に記念館もある。札幌付近がスコットランドの風土と気候に類似していることから、酪農や食肉加工の地として相応しいこともダンの技術力が発揮できたとも考えられる。

hitsujigaoka  羊ヶ丘展望台Edwin-Dun エドウィン・ダン記念館

北海道とスコットランド その5 スコットランド人と日本のかかわり その3

スコットランドは産業革命より前から世界の科学技術の中心地であり、それを支えた多くの科学者や技術者を輩出している。数学、物理学、化学、細菌学など基礎的科学にはじまり、電気通信、医学など技術・工学の分野、さらに文学、思想、哲学、経済学に至るまで、あらゆる分野で希有な能力をもつ人材を輩出してきた。これは世界に類例を見ないことといわれている。

多くのスコットランド人が北米大陸に渡って行くが、その他の大陸にも発見を求めて雄飛していく。そして日本に、北海道にもわざわざやってくるスコットランド人の心意気は一体はどこにあるのか、どうして生まれたのかを考えている。それがこのシリーズの原点である。

有名な歴史学者のアーノルド・トインビー(Arnold Toynbee)は、スコットランド人をして近代のディアスポラ(diapora–離散された者)と呼んだということである。こうしてスコットランド人の歴史を調べていくと、そこに探検家、宣教師、医師など、特別な技術や知識を有する者が日本にもはるばるやってきていることがわかる。なにか感慨深いものがある。

デヴィッド・リヴィングストン(David Livingstone)は、スコットランド人。ヨーロッパ人で初めて「暗黒大陸」と呼ばれていたアフリカ大陸を横断する。ハワイ諸島、オーストラリア、ニュージーランドなどを発見したジェームス・クック(James Cook)の父親もスコットランド人である。

明治維新は、封建の世から目覚めたばかりであった。司馬遼太郎が「坂の上の雲」と呼んだ欧米の列強を目の当たりにして、明治政府は日本の近代化のために多くの技術者を招聘した。それに貢献したのがスコットランド人の技術者である。幕末から明治維新にかけ工部大学校(東京大学工学部の前身)の初代総長となったヘンリー・ダイヤー(Henry Dyer)がいる。彼はグラスゴー大学(University of Glasgow)を卒業後、東京で技術者の養成にあたる。

同じく東大医学部の前身東京医学校の初代校長ウィリアム・ウィリス(William Willis)がいる。彼はエディンバラ大学(University of Edinburgh)の出身である。鉄道技師にエドモンド・モレル(Edmund Morel)がいる。1876年に来日し、やがて新橋と桜木町を結ぶ鉄道を建設する。今も「鉄道発祥記念碑」が桜木町駅付近にある。

エディンバラ大学は1583年に設立された、英国で6番目に長い歴史を有する国立研究大学である。エディンバラ大学はこれまで11名のノーベル賞受賞者がいる。グラスゴー大学からも6名の受賞がいるともWikipediaに記されている。すごい業績である。

IMG_00022  ヘンリー・ダイヤーの記事330px-Cook-death クックとハワイ島上陸

北海道とスコットランド Intermission NO2

国籍の話題である。ニューヨーク・タイムズ(New York Times)を始めとするアメリカのメディアは、ノーベル物理学賞の受賞者となったカリフォルニア大学サンタバーバーラ(University of California, Santa Barbara)校の中村修二教授を「アメリカ人」と紹介しているという。この記事の見出しは「2人の日本人と1人のアメリカ人がノーベル物理学賞を分け合った」となっていた。AP NewsやThe Times-Tribuneも”Japanese-born American professor”と紹介している。筆者はこれでよいと考える立場だ。

合衆国では、自らの意志で米市民権を取得した場合は、帰化の時点で日本国籍を喪失するとなっている。中村教授は「米国の市民権」を取得しているのだからアメリカ人なのである。

国籍で気になることだが、アメリカ大使館が「米国籍取得で日本国籍を離脱」と主張しても、戸籍離脱届けをしないかぎり、国籍は残存している。我が国には国籍離脱届という制度がある。それを行使しないかぎり戸籍謄本に残こる。

そこでだが、中村教授は国籍離脱届けを提出していないだろうと察する。中村氏は外国籍取得と国籍離脱届提出の間の段階に留まっており、戸籍は残存している状態にある二重国籍なのだろうと考える。それ故、我が国のメディアが中村教授は日本人とするのも得心する。

何故こんなことを主張するかといえば、筆者の次女がそうなのだ。彼女は米国籍をもつ日本人である。だが筆者の戸籍に依然として記載されている。筆者は二重国籍が望ましいのかどうなのかを尋ねるために役所に相談にいった。まず戸籍から抹消するためには、市民権の証書、それも原本を役所に持参しなければならない。複写は受けつけないとのことである。だが吏員の対応には自信があるように感じなかった。

役所は曰く。戸籍法では、国籍離脱から3ヶ月以内に提出が義務付けられている。だが外国籍を取得したことは、日本政府は知りようがないのでなんの罰則規定もあてはまらないのだと。国籍法第13条に国籍離脱の届けの規定がある。それには届け書を作成して添付書類を添えて,法務局,地方法務局又は在外公館に届け出る、とある。

我が国は「国籍単一の原則」から二重国籍を原則的に認めていない。だが中村教授も筆者の娘のように、なんの手続きもしていない事例が多々あるはずだ。手続きがややこしいのと、二重国籍でも何の不自由もないからである。わざわざ旅費をかけて日本に戻り、国籍離脱手続きをするだろうか。しかも国籍法に二重国籍への罰則規定がないから、国籍剥奪の強制執行制度もない。日本政府が中村教授や娘らの現状をかえりみて、「国籍離脱届を出すように」と説得する可能性は1%位ある。

ノーベル賞の受賞者がアメリカ人か日本人かについては、中村教授にきくのがよい。だが氏の関心は国籍ではないことははっきりしている。

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北海道とスコットランド Intermission NO1

シリーズもこれから佳境に入る。その前にちょっと珈琲タイムとしたい。

スコットランドへはまだ行ったことがない。だが、こうしてブログの話題にするのは、筆者が北海道育ちだからだと思っている。それは、この二つの地にはどこか共通点があることを「スコットランド文化事典」から学んでいるからである。この本は写真や図版が多く、読んで楽しめる。

人はその土地に住まなくとも、少なくとも想像力をかき立てられるものだ。不思議なことに、知らぬ土地のことについての活字や写真や音楽に触れることによって、それまで自分が育ってきた風土と重ね合わすことができる。そして未知の土地に対する想いと憧れがわいてくる。

小さいときから音楽という文化に触れたことも幸いしている。スコットランド民謡もそうである。アニー・ローリー、マイボニー、アフトンの流れ、ロッホ・ローモンドなど。どれも郷愁に満ちた旋律である。口ずさむとどこでいつ歌ったのかを想い出すことができるから不思議だ。

スコットランドの隣にあるアイルランドからも学ぶものがあった。それは自分の父親とつながっている。国鉄を退職後は、読書の虫であった。青年時代に読むことがなかった作品をもっぱら読んでいた。その中にジェイムス・ジョイス(James Joyce) の「ユリシーズ(Ulysses) 」がある。「何度読んでもわからない、、」と呟いていた。トルストイ(Lev Nikolayevich Tolstoy)の「戦争と平和(War and Peace)」もそう言っていた。小生は、スウィフト(Jonathan Swift)の「ガリヴァー旅行記(Gulliver’s Travels)」といった作品しか知らない。小人に取り巻かれたガリヴァーの冒険物語である。

ジョイスはアイリッシュであった。アイルランドの歴史はイングランドとの宗教や政治の複雑な経緯でもある。1100年代からのイングランドによる植民地化である。経済や貿易の中心がロンドンへと移りアイルランド経済は疲弊していく。ジャガイモ飢饉も起こる。そして北米大陸への移民によって人口が減少する。カトリック教徒が占めるアイルランド民族主義者とプロテスタント教徒が占める連合主義者との対立がたびたび激化する。この北アイルランド紛争は1998年まで続く。

小さい頃学んだ地理や人物、簡単な歴史の追体験が、やがてなんらかのことで蘇ってくるようなできごとに出会う。スコットランドやアイルランドは、司馬遼太郎の「街道をゆく」を読んで「かんかーん」と響いてきた。何故か身近な国のような気がした。

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北海道とスコットランド その4 スコットランド人と日本のかかわり その2

前回、スコットランドの大学では多くの技術が実用化され、はやがて産業革命の中心地としての地位を確立していくことを簡単に述べた。実学を重視したのは、イングランドの中心、オックスフォード大学(University of Oxford)やケンブリッジ大学(University of Cambridge)との違いを強調したためかもしれないことも述べた。

全世界の産業革命の先駆的なこととして日本の教科書にでてくるのは、蒸気機関の発明である。それは工場や機関車に応用された。その発明家ジェームズ・ワット(James Watt)は、グラスゴー大学(University of Glasgow)で機械工学を学び、その後技術者として知られ産業革命の進展に多大な貢献をした。

同じく教科書に登場したスコットランド人にアレクサンダー・フレミング(Alexander Fleming)がいる。彼は細菌学者としてアオカビから抽出した世界初の抗生物質、ペニシリンの発見者として知られている。その功績で卿(Sir)の称号を与えられた。

グラハム・ベル(Alexander Graham Bell)も我々には記憶に残る人物だ。スコットランド生まれの科学者で発明家である。世界初の実用的電話器の発明で知られている。Wikipediaによれば彼は1876年のフィラデルフィアでの万国博覧会で電話を公開して国際的注目を集めたといわれる。ベルの父はマサチューセッツ州ボストンのボストン聾学校、現在のHorace Mann School for the Deafのインストラクターとして手話を教えてほしいと頼まれた。だがその申し出を辞退して代わりに息子のグラハムを推薦したといわれる。

多くのスコットランド人が1800年代に北アメリカ大陸に渡っていった。アメリカの鉄鋼王と呼ばれたアンドリュ・カーネギー(Andrew Carnegie)もスコットランド人である。1848年に両親と共にアメリカに移住した。カーネギーはU.S. スティール会社(U.S. Steel Corporation)などを創設し莫大な資産を残す。それを基金としてカーネギーメロン大学(Carnegie Mellon University)、世界の音楽の殿堂といわれるニューヨークのカーネギーホール(Carnegie Hall)などの建設に使った。偉大な篤志家ともいわれる。

第13代将軍徳川家定に電話機をプレゼントしたのがアメリカ海軍提督のマシュー・ペリー(Matthew Perry)である。彼もスコットランド系である。

前述したが、スコットランドの厳しい経済や自然が移民を促した。多くのスコットランド人が北米大陸に渡る。スコットランド移民がつくったカナダの小さな州がノバ・スコシア州(Nova Scotia)である。ラテン語でNew Scotlandという意味である。New Englandの隣というか、北の方角の大西洋に面している州だ。
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北海道とスコットランド その3 スコットランド人と日本のかかわり その1

明治政府は、いわゆるお雇い外国人を招いて富国強兵のために貢献してもらおうとした。その中にスコットランド人が多かったことも判明している。北海道開拓使もスコットランド系のアメリカ人を雇った。それは何故だったかが筆者の関心事である。それにはスコットランドの地理、気候、風土、歴史を調べることがどうしても必要のようだ。

今はテレビや新聞でスコットランドの歴史や政治が頻繁に報道され、我々に身近な地となっている。通称イギリス(UK)は、United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland(UK)のことである。スコットランドはUKの一部である。だがスコットランドは独特の歴史を有する。

スコットランドはブリテン島の北部に位置する。スコットランドの名称は、この地を統一したスコット人(Scots)に由来する。グレートブリテン王国(Kingdom of Great Britain)が成立するまでは独立したスコットランド王国であった。イスコットランド王国のイングランド王国との争いは長く続いたようだ。13世紀から14世紀にかけて両国間の緊張を象徴するスコットランド独立戦争が起こった。それから何百年も経ち、去る9月18日のイギリスからの独立の賛否を問うたスコットランドの住民投票もその延長にある。

スコットランドはグレートブリテン島の北部3分の1を占め、南部でイングランド国境に接する。東方に北海、北西方向は大西洋、南西方向はノース海峡およびアイリッシュ海に接する。自然環境も経済環境も厳しいことが察せられる。気候や風土は北海道に似ているようである。

スコットランド人(Scots)の気質としては、独創性、独自性が豊かだといわれる。それを起業精神につなげる識者もいる。スコットランドの自然と経済環境の厳しさにも由来するとされる。1701年にイングランド王国に併合されると、スコットランド人の就労の機会は先進地域のイングラントや海外への植民地へと向かっていく。

スコットランドの高等教育機関では、主に農業、工業、土木、獣医学、医学などの実学が重要視された。その理由は、イングランドにあるオックスフォード大学(University of Oxford)やケンブリッジ大学(University of Cambridge)などは、官僚を養成することを重視したことによる。スコットランドは「大英帝国の工場」と呼ばれた時期もあったようである。今も鉄道、鉄鋼、機械、石炭、畜産、綿織、海運、造船などが盛んである。

理論を実践に移し、ものづくりに傾注することの重要性を深く認識していたようだ。多くの技術が実用化され、スコットランドはやがて産業革命の中心地としての地位を確立していく。

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北海道とスコットランド その2 民謡

網走郡美幌町の美幌小学校では文部省唱歌を歌った。教科書はすべて唱歌ではなかったかと思えるほどである。明治43年「尋常小学読本唱歌」というのが最初の音楽の教科書らしい。文部省が編集したものを唱歌というようである。

なぜ小生が歌に関心を向けたかは、小さなリードオルガンを弾く先生に小学校で教わったからだ。「故郷の空」、「麦畑」、「蛍の光」を歌った。こうした歌からスコットランド(Scotland)を意識することはなかったが、やがてスコットランドという地名だけは、終生記憶から消えることはなかった。

文部省唱歌にスコットランド民謡が取り入れられた理由はわからない。だが、センチメンタルな歌詞とともに日本人の琴線に触れるような旋律(melogy)が日本人に受け入れられたと思われる。

スコットランド民謡の「故郷の空」の旋律には、長音階のド(C)から四つ目のファ(F)と七つ目のシ(H)の音はでてこない。いわゆる「ヨナ抜き」という特徴である。ドレミファソラシは楽譜では「CDEFGAH」と書いたり読んだりする。ドイツ語読みが多い。「ヨナ抜き」では「CDEGA」となる。

後年、琉球に住むことになったが、琉球民謡というのか島唄というのが、独特の旋律であることに気がついた。それは、旋律が「ヨナ抜き」ならぬ「ニロ抜き」なのである。長音階の二番目のレと六番目のラが抜かれるので「ニロ抜き」なのである。「ニロ抜き」は「CEFGH」である。「てぃんさぐの花」を是非聴いて欲しい。歌詞も味わいがある。

筆者は音楽はずぶの素人であるが、唱歌や民謡は大好きだ。叙情歌しか教科書に載っていなかった教科書のお陰か。スコットランド民謡のような旅情に富む歌、島唄のような哀愁を帯びた曲に出会ったことは幸いなことだと思っている。

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北海道とスコットランド その1 余市とニッカ

私は樺太生まれ。育ちは北海道であるから、自分では一応道産子と呼んでいる。最も長く暮らしたところは美幌とサッポロである。

秋を迎えると北海道に自然の厳しさの前触れが訪れる。どんよりとした曇り空。気温は日に日に下がっていく。そして冬支度が始まる。大根干しや漬け物づくり、石炭やストーブの用意、野菜の台所にある土間への収納や庭への埋め込み作業である。山葡萄を一升瓶につけ、ジュースやワインをつくる。木箱にいれたリンゴも凍らないように土間に貯蔵する。今となっては懐かしい風物詩だ。

リンゴといえば小樽の西にある余市という寒村を想い出す。積丹半島の付け根に位置する。とりたてて特徴があるわけではない。かつてはニシン漁で栄えたが、人口は年々減り続け、高校を卒業するとサッポロを目指していく。余市は漁業のほか、果樹の栽培が盛んなところである。リンゴも梨もとれる。しかし、なんといっても余市を全国に知らしめたのがニッカウヰスキーである。敷地に入るトンガリ屋根の楚々としたウイスキーの貯蔵庫が建っている。

最近とみに余市が脚光を浴びるようになってきた。NHKの朝ドラ「マッサン」である。主人公は、ニッカウヰスキーの創業者であり、「日本のウイスキーの父」と呼ばれている竹鶴政孝、その妻である竹鶴リタ(Rita Taketsuru)が主人公である。

竹鶴は後に大阪大学となる大阪高等工業学校の醸造学科で学ぶ。1918年(大正7年)にスコットランド(Scotland)のグラスゴー大学(University of Glasgow)に留学し、有機化学を勉強する。1920年にリタ(Jessie Roberta Cowan)と結婚する。帰国後、寿屋、後のサントリーに入社しウイスキーの製造に従事する。

1934年、昭和9年に竹鶴は寿屋を退社し、同年ウイスキーづくりの理想郷と考えた余市に「大日本果汁株式会社」をつくる。その後名称をニッカ(日果)ウヰスキーとした。スコットランドに似た風土の北海道の余市を選んだのは竹鶴の慧眼によるものだ。

暫く、私と余市、サッポロ、スコットランドを話題としてみる。

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