アメリカの文化 その2 「選ばれた民族」

アメリカの政治や経済に大きな影響を持つのがユダヤ系アメリカ人です。約600万人を数えます。ユダヤ人の生き様の歴史は紀元前に遡ることができます。時代を経て1800年代に起こったのが反ユダヤ主義(Antisemitism)です。ユダヤ教においては、ユダヤ民族が選民であると示します。ユダヤ人が神と特別な契約を結ぶ唯一の人々であり、その契約を守っていくことによって終末において救われるという考えです。この選民思想とは、旧約聖書の『出エジプト記』に登場する民族指導者モーセ(Moses)の戒律から生まれます。こうした教えにユダヤ人は従わなければならないことを指しています。自分たちの進むべき道が神より示されたのは、ユダヤ人に特別に与えられた恩寵であると解釈されています。この選民思想が後の迫害行為にもつながるといわれます。

東ヨーロッパやロシアで起こった迫害はポグロム(Pogrom)と呼ばれます。『屋根の上のヴァイオリン弾き』(Fiddler on the Roof)は、帝政ロシア領となった村に暮らすユダヤ教徒の生活を描いたものです。「牛乳屋テヴィエ」(Tevye)を原作としています。テヴィエ家族などユダヤ人に対して行なわれた集団的迫害行為が下敷きになっています。ちなみに「ポグロム」とはロシア語で「破滅させる、暴力たで破壊する」という意味です。

ユダヤ系アメリカ人は、大きく三種類に分けられます。 1900年代に中央ヨーロッパや東ヨーロッパから移民してきたユダヤ人は「アシュケナジム」(Ashkenazim)と呼ばれます。彼らの言語はイディッシュ語(Yiddish)として知られています。第二のユダヤ人は「セファルディム」(Sephardim)と呼ばれ、主に トルコや北アフリカ からやってきた人々です。セファルディムのユダヤ人は、スペイン語等を話していました。第三のユダヤ人は「ミズラヒム」(Mizrachim )と呼ばれ、イスラム教が多数派な中東のアラブ世界からアメリカにやってきたユダヤ人です。多くのユダヤ人コミュニティはその独自性を今なお保持しており、その宗教のみならず他のヨーロッパ系とは異なる文化を形成しています。

モーセの十戒は知られていますが、もう一つの律法による「口伝律法」があります。これは「タルムード」(Talmud)と呼ばれています。ヘブル語の原意は「学習」という意味です。タルムードの一つは「ハラハー」(Halakhah)と呼ばれ「歩き方」という意味ともなっています。古代から受け入れられてきた習慣や権威ある律法学者の判定が網羅されています。ユダヤ人の共同体成員の正しい「歩き方」を示しています。

アメリカの文化 その1 多言語、多文化の国

今回から「アメリカの文化」というテーマでいろいろな話題を提供してみます。とはいっても原稿は私の狭い経験によるものばかりです。

アメリカは英語を話す国というのは当たり前ですが、アメリカには法によって定められた公用語は存在しません。アメリカ国籍の90%以上が、英語を使用しており事実上の公用語となっています。ですからビジネスや学校では英語を使用しています。驚くなかれ、アメリカ国内では300種類以上の言語が使用されていると言われています。それだけにアメリカは多言語とか多民族国家の代表といえます。英語に続いて使われるのがスペイン語、フランス語、アラビア語、中国語などとなっています。

民族ですが、ドイツ系アメリカ人 (German American)が最も多くを占めています。ドイツ(Germany) およびオーストリア(Austria)、スイス(Switzerland) 、リヒテンシュタイン (Liechtenstein)、ルクセンブルク(Luxembourg)、アルザス=ロレーヌ(Alsace-Lorraine)などのドイツ語圏に住んでいた者やその国籍所持者、またはその子孫のことです。今でもドイツ語での礼拝が行われるほど、ドイツ人としての思い入れは深いといえます。

私がかつて住んでいたウィスコンシン(Wisconsin)のマディソン(Madison) には、ノルウェー人(Norwegian)を祖先に持つ者が住んでいます。現在、全米には450万人以上もいるといわれ、その55%が中西部のミネソタやウィスコンシンに住んでいます。ノルウェー人の北米への組織的な移住は1825年に始まります。その理由や、母国におけるクエーカー(Quaker)及びハウゲ運動(Haugean) に対する宗教弾圧から逃れてきたのです。最初に北米にやってきた人々のことを「ノルウェーのメイフラワー号」と呼ぶこともあります。ノルウェー系アメリカ人のコミュニティが各地にあり、母国の独立記念日を祝う集いを続けています。

旅のエピソード その52 「謝ることと保険」

以前、ニューメキシコ州(New Mexico)のアルバカーキ(Albuquerque)で、院生が運転中にマイルとキロを勘違いして捕まり、平謝りして許してもらったことを披露しました。この場合は、運転手の運転ミスでしたから、弁解の余地はありません。しかし、謝るという行為は、状況によって使い分けるのが大事だというのが今回の話題です。

例を挙げましょう。たまたま車の事故を起こしてしまったとしましょう。自分には9分、相手には1分の責任がある例です。車間距離をとらなかったために、前方車が急ブレーキをかけたために自分がバンパーにぶつけたという想定です。車間距離に関わることですから、双方に責任が生じてきます。

事故を起こしたとき、事故にであったときは保険会社に電話して解決してもらいます。自分が相手の運転手やパトカーの警官に謝ってはいけません。そうした行為は、「自分の非を認める」 ことであり、あとの補償にも響いてきます。保険会社も困るのです。

第三者である双方の保険会社が仲介するのが、事故を円滑に解決する最善の方法なのです。これが保険にはいる者が心得るべき車社会の鉄則です。オリンピック中止保険もあって然るべきですが、失業保険とか休業保険があるのですから、コロナ保険もあってよいでしょう。紛争保険とか戦争保険というのはどうでしょうか。

旅のエピソード  その51 サラダの注文とチップ

旅の楽しみはなんといっても夕食の時間です。一行の大学院生とで何を食べようか、どこの店に入ろうかと相談します。宿のフロントでいくつかの店を紹介してもらいます。宿の近くにはこじんまりとしたレストランがあるものです。さしずめファミリーレストランのような雰囲気です。いわゆる典型的なアメリカンフードを提供する店です。値段も安く安心して入れます。

アメリカンフードに定義はありません。西部にいきますとメキシコ料理、東部ではイタリア料理、南部ではフランス料理という具合に、多様な食文化が定着しています。共通しているグルメといえばサンドイッチとかハンバーガーでしょうか。サンドイッチは、トーストしたパンにたっぷりの具材を挟んだクラブハウスサンドが一般的です。3枚のパンを使い、具材を二段重ねにするのが主流で、崩れないよう上から爪楊枝などで留めるほど分厚いのが特徴です。ハンバーガーは、肉は牛肉100%と決まっています。あとは好みでチーズやレタスなどの野菜をのせて食べるのが一般的です。

次ぎにステーキです。アメリカのステーキは価格も手頃でカジュアルに食べられるお店が多いのが特徴です。観光客でも気軽にステーキを楽しめます。またアメリカの牛肉は脂質が少なく、日本の肉ほど胃もたれせずにすむのも特徴です。付け合わせにポテトや蒸し野菜をのせるでけでも十分なボリュームです。

さて、レストランでの一つのエピソードです。店に入るとウエイトレスがにこやかにやって来て席に案内してくれます。そしてやおら、メニューを一人ひとりに渡し、しばらくして注文をとりにやってきます。一緒の院生の一人は50歳くらいの方で、英語は苦手のようです。ウエイトレスは、「本日のお勧めは、、、、」といって説明してくれます。この説明は微に入り細に入りで、私でも全部を理解できないくらいです。この院生は「もう一度お願いします」と頼みます。ウエイトレスは、初めから詳細に説明してくれます。こちらの英語の理解力などは無視して、早口なのです。院生は再度「済みません、もう一度ゆっくりとお願いします」。

ウエイトレスは客に親切に対応しないと食事後のチップに響きますので、三回目の説明を始めます。そこで私の出番で通訳するとようやく注文ができます。前菜はサラダです。ドレッシングはなににするのかで、またまたちんぷんかんの対話となります。種類が多いのでなにがよいかがわからないのです。まさか「和風ドレッシング」というわけもいかず、知っていたイタリアン、フレンチということで落着します。ステーキの焼き具合には上手く対応できて、やれやれとなります。アメリカは「サラダボウル」とも形容されるほどです。

旅のエピソード その50 「モスクワの空港と税関」

イタリアへ始めて行ったときです。成田空港とローマ(Rome)の郊外にある国際空港、フィウミチーノ空港(Fiumicino) を往復しました。この空港は、イタリアのフラッグキャリアであるアリタリア航空(Alitalia)の本拠地です。しかし、私と家内は安い料金を選んだのでアエロフロート航空(Aeroflot)としました。成田からモスクワ(Moscow) のシェレメーチエヴォ国際空港(Sheremetyevo)、そしてローマのフィウミチーノ国際空港という航路です。この選択は間違ったことを後で知りました。

まずは、機内の飲み物と食事などです。ジュースは氷もなくぬるいのがきました。珈琲も熱くないのです。ビールは有料です。食事は可もなく不可もなくといったところです。フライトアテンダントは誠にぶっきらぼうです。

シェレメーチエヴォ空港では、ローマ行きへの乗り換えに2時間半ありました。珈琲を頼むと5ユーロ取られました。フィウミチーノ空港に着いたのは夜の9時頃です。そこには長男が迎えにきているはずです。しかし、持参した2つの大きな荷物が出て来ないのです。1時間あまりターンテーブルのところで待ちました。待つのを諦めて係員に翌朝に再度来るといって荷物を保管してもらうよう頼みました。その間90分くらいかかり、待ち合わせ場所にいくと長男はいません。タクシーで空港近くのホテルに行くと、すでに到着していた長男夫婦が 「待っても来ないので、明日来るのだろうと思った」 というのです。

翌朝空港に行くと家内のスーツケースが届いていましたが、わたしのは行方不明です。調べてもらうと、まだモスクワにあるというのです。一緒に来ていた孫に持ってきた土産が渡せません。荷物が届いたのは3日後のフィレンツェ(Florence)のホテルでした。

思い出深い中部イタリア旅行を楽しんだのですが、帰りローマからの経由地モスクワのシェレメーチエヴォ空港でまた嫌な思いをしました。購入したトスカーナワイン(Toscana Wine)の免税品証明書が袋から剥がれてないのです。税関の女性職員が、厳しい顔をして 「ワインをゴミ箱に捨てなさい」と、頑として持ち出しを許しません。再三懇願しましたが、結局没収となりました。税関職員があとでそのワインを楽しんで仕事の疲れを癒したはずです。

旅のエピソード その49 「北投温泉とカラオケ」

旅の楽しみは、地元の人としばし語らう体験です。国内でも海外でも同じです。今回は台北でのエピソードです。かつて沖縄にいたとき、台北と台中に旅行したことがあります。台湾は街が清潔だという印象を受けました。

どうしても1度は台北の郊外にある温泉に行ってみようということになりました。満員の電車に乗り、地図を見ながら連れ合いとでどこで降りて、どの温泉に入ろうかと立ち話していました。すると前の座席に坐っていたお年寄りが、「日本のどこからきましたか?」と声を掛けてきました。台北の小学校時代に日本語で授業を受けていた、というのです。懐かしそうに授業の様子を語ってくれました。その方の担任だった先生は練馬区に住んでいて、練馬では校長先生として活躍したのだそうです。この恩師を毎年台北に招待して、同窓会をやっていると嬉しそうに語っていました。こちらも思わず良い心持ちになりました。

温泉地は「北投(べいとう)」というところです。台北から電車で30分位です。電車を降りると硫黄の匂いが漂います。北海道の登別や箱根の温泉地に来たような気分になりました。しばらく歩くと、ラジカセをベンチにおいてカラオケを楽しむ一団に出くわしました。聞くとすべて美空ひばりの曲を歌っているとのこと。沢山のカセットを見せてくれるのです。まさか、美空ひばりの歌を聞くとは驚きでしたが、地元のお年寄りがいかに日本の歌謡曲に親しみ、人生を楽しんでいるかにも驚きました。

北投で温泉を発見したのはドイツ人といわれます。1895年の下関条約により台湾は日本に割譲され、日本の温泉文化が始まります。1896年に大阪出身の平田源吾により、北投に台湾初の温泉旅館「天狗庵」が建てられます。北投温泉の大きな特徴のひとつは、3種類の泉質のお湯を楽しめることです。白硫黄泉、青硫黄泉、そして鉄硫黄泉です。私ども夫婦が楽しんだところは公衆浴場の「瀧乃湯温泉」。創業は1907年頃で台湾最古クラスの公衆浴場とあります。強酸性のかなり熱い湯です。日本円で350円位です。

台湾人と日本人の共学制が採用された1929年で、初等教育において民族による区分が廃止され「日本語を常用する児童」が小学校で学びます。教育面でいいますと1943年では台湾の子どもの就学率71%とアジアでは日本に次ぐ高い水準に達していたといわれています。台湾における日本統治時代への評価は朝鮮に比べて肯定的で、特に日本統治時代を経験した世代の人々は、その時代を懐かしみ評価する人々も多いようです。

旅のエピソード その48 「ジョージアからウィスコンシンへ」

U-Hallに10個位のスーツケースを載せてウィスコンシンへ向かう途中のエピソードです。車はGM製のシボレーマリブ(Chevrolet Malibu)という中型の中古車です。ジョージア(Georgia) にいた元宣教師さんから譲り受けました。中型のセダンといっても日本では大型車のようにゆったりしています。長距離運転にはたいそう楽です。

インターステイト(Interstate) という州を結ぶ高速道路を走り、テネシー州(Tennessee)やケンタッキー州(Kentucky) の景色も楽しみました。インディアナ州(Indiana) に入ったとき、車の調子がおかしくなりました。高速道路から外れて、小さな街に入りそこのサービスステーションで具合を調べてもらいました。トランスミッションの部品を交換する必要があるというのです。部品を取り寄せるので、修理は翌日となるとの見立てです。街にはモーテルはありません。

仕方なく従業員に頼んで持参していたテントを駐車場に張らせてもらいました。そこで野宿となりました。クーラーに詰めてあった食糧や飲み物で夕食をとっていると、不審者だと思ったのかパトカーがやってきて、「どうしたのか」と尋ねるのです。事情を説明すると「気をつけなさい」 という言葉です。日本人の家族がテントを張っているのは、この街では始めてではなかったでしょうか。

この経験から学んだことは、サービスステーションは給油だけでなく、車も修理をする所だということでした。従業員は車のことを熟知しているのです。このマリブは20万マイルも走って大分疲れていたようでした。32万キロという距離です。後に車輪のベアリングが摩滅して動かなくなったり、バッテリーが破損するなどのトラブルに見舞われました。アメリカで最初に乗った車でしたので、自分でも見よう見まねで簡単な修理をしました。エンジンオイル、トランスミッションオイル、スパークプラグなどの交換、ラジエーター液やフィルターの交換などの作業です。450ドルで手放すときは少々しんみりしたものです。

旅のエピソード その47 「U-Hall」

U-Hall。ユーホールと発音するこの単語は、登録商標でもあります。引越の際は、車で引っ張るトレーラーに家財道具を積んで目的地に向かいます。このトレーラーの代名詞がU-Hallです。移動が好きなアメリカ人にはU-Hallは馴染みのものです。

U-Hallの大きさは様々です。今もU-Hallをとりつける連結器がついた大型のセダンを見かけます。田舎を走るピックアップトラックには必ずといってよいほどついています。U-Hallの事務所は小さな街にも必ずあります。このトレーラーを借りて自分で引っ越しするのです。そういえば専門の引越業者のようなものはアメリカには珍しいのです。U-Hallには車の電源から流れて点滅するテールランプが付いています。

大型のU-Hallは自分で運転して家財を運びます。このとき、大型U-Hallに自分の車を取り付けて移動するのをよく見かけます。運転手が一人ですむという案配です。U-Hallをつけてバックするときは少し経験が必要です。駐車するとき、ハンドルを右に切るとU-Hallは左側に回ります。ハンドルとは逆にU-Hallは回るのです。慣れると面白いように操作できます。引越の途中はもちろんモーテルを利用します。移動や引越にU-Hallは切っても切り離せません。自分のことは自分でやる(Do It Yourself: DIY)という考えがU-Hallの発展にみられます。

旅のエピソード その46 「ニシンと窓口のイチゴ」

私が10歳のときです。「ヘルシンキ・オリンピック」(Helsinki)の様子がラジオや新聞で報道されていました。1952年に開かれた第15回オリンピックです。日本にとっては、敗戦から立ち直りつつある時代です。ヘルシンキはフィンランド(Finland) の首都です。フィンランドのフィンランド語での正式名称はスオミ(Suomi)。語源は「湿地」を意味する「suomaa」です。フィンランドは湖や森に覆われているのでこの語源も頷けます。

このオリンピックでは石井庄八という選手が、レスリングのフリースタイルバンタム級にて戦後初の金メダルをとります。このときの報道はすごかったのを覚えています。もう一つ、当時のチェコスロバキア(Ceskoslovensko)のエミール・ザトペック(Emile Zatopek)という選手が陸上競技で3つの金メダルをとります。その頃、彼は「人間機関車」と呼ばれていました。

私にとっては、ヨーロッパを知ったきっかけはこのオリンピックであり、ザトペックであり、ヘルシンキなのです。どこの街よりも思い出に残る地名です。そして、1995年頃学会の発表でこの街を訪れることになりました。ダウンタウンにある小さなホテルを宿にしました。丁度7月で白夜でした。午後11時になっても、外では若者がサッカーをするのが見えました。

宿の朝食にはニシンのマリネが並んでいます。稚内の生活時代、ニシンは飽きるほど食べていましたが、その後ニシンはぷっつりと獲れなくなり、長い間食べていませんでした。懐かしくて毎食マリネをたらふくいただきました。

ヘルシンキでは学校や障害者施設を訪ねました。どこへ行っても受付のカウンターにはイチゴがバスケットに盛られています。もちろん訪問者をもてなすためです。市場では山のように並べられたイチゴが売られています。イチゴがこんなに採れるものとは知りませんでした。フィンランドの豊かさの一端を味わったときです。今や通信設備メーカーのノキア (Nokia)や航空会社のフィンエア(Finnair)が国の代名詞になっているようですが、豊かな教育や福祉の水準もそれに劣りません。この国の豊かさは、バスケットに盛られたイチゴにあるのではないかと感じるくらいです。

旅のエピソード その45 「ロンドンの駅にて」

ロンドン中心部の少し北にユーストン(Euston)という主要な鉄道駅があります。ロンドンで6番目に乗降客数が多いといわれるターミナル駅です。この駅は、ロンドンからウェスト・ミッドランド(West Midland)、ウェールズ(Wales)、そしてスコットランド(Scotland) への向かう際の玄関口です。別名、頭端式ホームといわれるように発着駅であり終着駅です。「東京駅」とは違い「ロンドン駅」というのはありません。ロンドン駅グループの一つがユーストン駅です。この駅には16のトラックがあります。

ユーストンからバーミンガム(Birmingham) へ向かうときです。バーミンガム市の小学校を見学にいくことになっていました。そこで案内してくれるのはバーミンガム大学(University of Birmingham)の先生です。バーミンガムは人口100万人ほどの工業都市です。首都ロンドンに次ぐ第2の大都市です。最初の蒸気機関を発明したジェームズ・ワット(James Watt)の出身地です。

ユーストン駅には切符売り場があちこちにあります。鉄道会社がいくつかあるからです。運賃は乗り降りする時間帯によって違います。ラッシュアワーが最も値段が高く設定されています。切符を購入して目指す電車に乗ろうとして改札口へいきますと、大勢の乗客が出発時刻表を眺めています。皆、自分が乗る電車がどのホームに入ってくるかを注目しているのです。ようやくホームの番号がでると、人々は小走りにホームに向かいます。もちろん座る席を確保するためです。我々はグリーン車に近い切符を買っていたのでゆっくりと歩きだしました。

乗りたい電車が何番ホームに入るかは、出発直前になるとわかることを始めて経験しました。通常、どのホームからはどの路線の電車がでる、という習慣で育ってきたからです。しかし、空いているホームに電車が入って出て行くという合理的な考えに納得したものです。