アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その76 アメリカの自治領 その五 アメリカ領サモア

アメリカ合衆国の州に付けられている愛称を取り上げて歴史や地理を辿ってきました。76回の今回で終わりとします。アメリカ領サモア(American Samoa)は、太平洋の南西、ハワイとニュージーランドの中間に位置するサモア群島は紀元1000年以上前から人々が暮らしていましたが、ヨーロッパ人によって発見されたのは18世紀になってからです。主都はパゴパゴ(Pago Pago) 5つの島とローズ環礁(Rose Atoll)など2つの珊瑚礁からなります。

サモアは、ポリネシア文化を体験できる場所といわれ、トゥトゥイラ島(Tutuila Island)、タウ島(Ta’u Islands)オフ島(Ofu Island)の各島の一部は、アメリカンサモア国立公園(National Park of American Samoa)に指定されています。

Market

サモアを巡る列強による争いの歴史です。サモアでのキリスト教宣教活動は、ロンドン宣教師協会(London Missionary Society)のジョン・ウィリアムズ(John Williams)がクック諸島(Cook Islands)とタヒチ(Tahiti)から到着した1830年後半に始まります。 19世紀後半までに、フランス、イギリス、ドイツ、アメリカの船舶は、パゴパゴ港を石炭燃料船と捕鯨のための給油所として評価し、サモアに日常的に停泊していたようです。1839年にアメリカ合衆国の探検隊がこの島々を訪れたという記録もあります。

1889年3月、ドイツ帝国海軍部隊がサモアの村に入り、その際、アメリカ人の財産を破壊します。その後、3隻のアメリカ軍艦がアピア港(Apia)に入港し、そこにいた3隻のドイツ軍艦と交戦する準備をしていました。しかし、交戦する前に台風が来て、アメリカとドイツの軍艦は大破します。そのために両軍はやむなく休戦したとあります。

Samoa

20世紀に入り、国際的な対立は、1899年にドイツとアメリカがサモア諸島を2つに分割する三国間条約によって決着します。 東部の島々はアメリカの領土となり、現在アメリカ領サモアとなっています。西部の島々はドイツ領サモアとして知られるようになります。こうした協議は、1887年のワシントン会議、1889年のベルリン条約、1899年のサモアに関する英独協定の3つです。アメリカは、東部の小さな島々を正式に併合し、そのうちの一つには有名なパゴパゴ港(Pago Pago)があります。アメリカ海軍がサモア東部を所有した後、パゴパゴ湾の既存の捕鯨基地は、アメリカ海軍ツツイラ基地(Tutuila)として拡張されます。

アメリカ領サモアは合衆国議会により自治法 (Organic Act) が制定されていない非自治的領域 (unorganized territory)となっています。1967年7月1日に発効した憲法によって自治政府が成立し、領内の行政執行権は準州知事が、立法権は自治領議会が担っています。住民はアメリカの国籍を持ちますが、市民権はありません。なんとも不思議なことです。

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その75 アメリカの自治領 その四 北マリアナ諸島

北マリアナ諸島(Northern Mariana Islands)は、サイパン島(Saipan)やテニアン島(Tinian)、ロタ島(Rota)などの14の島から成るアメリカ合衆国の自治領です。主都は、サイパン島のススペ(Susupi)です。小笠原諸島の南側に連なるミクロネシア最北端の島や北から南へ15の島が並びます。

Map of Saipan

マリアナ諸島の歴史です。東南アジアから渡って来たチャモロ人(Chamorro)が定住し、古代にはタガ王朝(Taga Dynasty)が成立します。1521年にマゼランがグアム島にやってきます。1668年からカトリックの布教が始まります。当時のスペイン皇后マリアンナ(Mariana)を記念して命名されたのがマリアナ諸島です。1565年には全島がスペインの支配下に入りますが、チャモロ人の反乱は絶えず、スペインーチャモロ戦争が勃発します。1698年には全島民がグアムに強制移住させられるという歴史を辿ります。

戦前のサイパン

1898年、米西戦争の結果マリアナ諸島はカロリン諸島(Caroline Islands)とともにドイツ領となり、第一次世界大戦後、日本の国際連盟委任統治領となります。当時は「南洋諸島」と呼ばれた地域です。日本の委任統治下で、サイパン、テニアンではサトウキビ農場の開発に成功します。サイパン島では1934年に砂糖生産のために南洋興発という会社が設立され、砂糖キビを運搬する鉄道も敷設され1944年まで使われます。今も砂糖王公園(Sugar King Park)があります。

助けられた避難民

太平洋戦争中、サイパン島やテニアン島は住民を巻き込んだ日米の地上戦が展開されました。統治下のパラオ諸島(Palau Islands)に優る繁栄をします。1978年、他のミクロネシア地域から離脱し、自治政府をつくり1986年アメリカの自治領となります。北マリアナ諸島の住民は、アメリカの市民権を有しています。マリンスポーツ、キューバ・ダイビングなど観光が主な産業で日本人旅行者も絶えません。

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その74 アメリカの自治領 その三 グアム

マリアナ諸島(Mariana)の南端に位置し、ミクロネシア(Micronesia) では最大の島がグアム(Guam)です。その大きさは淡路島よりやや小さいようです。南北に細長く、北部は高原で南部は密林に覆われています。1521年に世界一周途上のマゼラン(Magellan) によって発見され、1668年に正式にスペイン領となります。米西戦争の結果、1898年にアメリカ領となります。1941年から3年間は日本軍が占領します。現在は、太平洋の交通の要所で、軍事的、経済的な重要性を有しています。今はアメリカの準州で主都はアガニア(Agana)となっています。住民はチャモロ族(Chamorro)です。

チャモロの家族

グアムにおいて最初に宣教活動をしたのはフランシスコ派のカトリック教会です。イエズス会のディエゴ・ルイス・デ・サン・ビトレス神父(Diego Luis San Vitores)は1668年からグアム島で約4年間、布教に献身し殉教した伝説的な人物です。ビトレスは、グアムの中に会堂を建てます。その最も大きく最も格式が高いのがハガニア大聖堂(The Dulce Nombre de Maria parish)です。場所は、グアムの首都ハガニアにあるスペイン広場の東側に位置しています。1672年にビトレスは、酋長の子どもに洗礼を強行したとして殺害されます。それが契機となり、グアムやマリアナ諸島は、チャモロとスペイン軍の間の戦争が勃発し、それが終結するまでに 20 年以上かかったといわれます。

Map of Guam

隣接する北マリアナ諸島が信託統治を経て1978年に実質的なコモンウェルス(Common Wealth)と呼ばれる準州となります。その動きを受けて、グアムでは1980年代から1990年代前半にかけて、プエルト・リコや北マリアナ諸島と同様の自治のレベルを付与したコモンウェルスに向けた推進運動が起こります。しかし、連邦政府はグアム準州政府の提案したコモンウェルスへの変更を拒否します。運動は徐々にアメリカ本国からの政治的独立、国家としての独立、唯一の独自領土として北マリアナ諸島との連合、あるいは現在合衆国の一州となっているハワイとの連合に軸足を置いているといわれます。日本、アメリカによる統治を経て、現在もアメリカの未編入領土であるグアムは、未だにコロニアリズム的状況(Colonialism)から脱却できていないといえそうです。

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その73 アメリカの自治領 その二 プエルト・リコ

プエルト・リコ(Puerto Rico)は、カリブ海(Caribbean Sea)北東に位置する合衆国の自治的・未編入領域でコモンウェルス(Common Wealth)という政治的地位にあります。プエルト・リコ本島、ビエケス島(Vieques)、クレブラ島(Culebra)、モナ島(Mona)などから成ります。主都はサン・フアン(San Juan)となっています。多くの島から成るプエルト・リコでは、今でも建築、食べ物、音楽、言語にさまざまな形でスペインの伝統が色濃く残っています。英語も広く話されており、島全体でアメリカドルが流通しています。

Map of Puerto Rico

1493年11月のクリストファー・コロンブス(Christopher Columbus)による到着以来、スペインやアメリカを始めとするヨーロッパ人によって開発が進められ現在に至っています。スペイン語でプエルトは「港」、リコは「豊かな」(rich port)を意味しヨーロッパ人の到来以前は、この島は先住民のタイノ族(Taíno)によってボリケン (Borikén)、またはボリクアス (Boricuas) と呼ばれていました。ボリケンとは「勇敢なる君主の地」(Land of the Valiant Lord)を意味します。現在のプエルト・リコの名称は、一説にコロンブスがサン・フアンに入港した時に「Qué Puerto Rico!」(なんと美しい港か!)と叫んだことに由来するといわれています。

El Morro Castle

1898年の米西戦争後、アメリカに併合されてからはポルト・リコ (Port Rico, Rich Port) と地名表記も英語化されますが、プエルト・リコ人の感情に配慮して1932年にプエルト・リコ (Puerto Rico) と表記されるようになりました。スペインではプエルト・リコは「魅力溢れる島」(island of enchantment)と呼ばれます。

パリ条約によって完全にアメリカ合衆国の領土となったプエルト・リコ内では、フォラカー法(Foraker Act)によって1900年7月にプエルト・リコ民政府が成立し、1898年3月に生まれた自治政府は解体されます。プエルト・リコは知事を合衆国大統領が任命する直轄領となりました。このため、プエルト・リコでは主権を求める完全・独立派や合衆国への編入派が今もしのぎを削っています。

島内にはいろいろな史跡があります。サン・ファンにあるエル・モロ砦(Castle El Morro)はスペイン軍が、フランス、イギリス、オランダやカリブの海賊達などの敵対勢力から、サン・ファンの街を守るために建てたカリブ最強の砦と言われた要塞です。1539年頃建設が始まり、1790年頃に完成したという記録があります。今は、ユネスコの世界遺産となっています。

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その72 アメリカの自治領 その一 北ヴァージン諸島

州の愛称をたどってアラバマ州からワイオミング州、そしてワシントンD.C.までやってきました。合衆国の州に準ずる地域、あるいは本土未編入の自治領的な仕組みは、コモンウェルス(Common Wealth)とか、準州と呼ばれます。アメリカでは自治が認められている地域がいくつかあります。北ヴァージン諸島(Virgin Islands)、プエルトリコ(Puerto Rico)、グアム(Guam)、北マリアナ諸島(Northern Mariana)、サモア(Samoa) といった地域です。今回からは、順番にこうしたアメリカの自治領を紹介します。まずは北ヴァージン諸島です。

カリブ海(Caribbean Sea)の東端から東南端にかけて分布する諸島である小アンティル諸島(Lesser Antilles)がヴァージン諸島といわれます。その西側半分は約50の島々からなるアメリカ領で、東側半分は約60の島々からなるイギリス領となっています。アメリカ領とイギリス領に人が住むそれぞれ3つある主な島以外は、ほとんど無人島です。

Virgin Islands in Caribbean Sea

北ヴァージン諸島のような自治領とは、その地域の政治や行政などを主権国家の許可を得ずに行うことができる体制です。国家は主権を持っていますが、自治領は主権は持っていません。主権というのは、「領土・領海・国民・国家体制」などを支配する権限のことを指します。北ヴァージン諸島の人口は102,000人ほどで、サトウキビ栽培を中心に農業従事者が多いのですが、近年は観光への投資が盛んなところとなっています。火山島と珊瑚礁が多く、亜熱帯に属しますが貿易風のおかげでしのぎやすい地帯といわれます。

観光客が訪れる主要な島はセント・トーマス島(Saint Thomas)、セント・クロイ島(Saint Croix)、セント・ジョン島(Saint John)の3島で、主都はセント・トーマス島のシャーロット・アマリー(Charlotte Amalie)です。セント・トーマス島には、ブラックビアーズキャッスル(Blackbeard’s Castle)とか 99 段の階段といった見どころがあります。空中トラムのスカイライド(Skyride)も知られています。セント・クロイ島のクリスチャンステッド(Christiansted)では、デンマークがこの地域に及ぼした影響を18 世紀の建築物の街並みから体感できるといわれます。

Harry Belafonte

北ヴァージン諸島は、少々大袈裟ですが「アメリカの楽園」とかカリプソ音楽(calypso)の発祥地などといわれます。カリプソはカーニバルで発達した音楽ジャンルで、リズムは4分の2拍子となっています。カリプソの歌詞は、島の生活に関連するあらゆる話題に及ぶようです。

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その71  ワシントンD.C.

合衆国首都のワシントン.(Washington District of Columbia)は、通称ワシントンD.C.と呼ばれています。D.C.は連邦直轄地という特別区で、東海岸のメリーランド州とヴァジニア州に挟まれたポトマック川河畔(Potomac River)に位置しています。各州とは別に、首都としての役割を果たすため、連邦の管轄する区域が与えられていて、合衆国三権機関である大統領官邸(White House)、連邦議会(Capitol)、連邦最高裁判所(Supreme Court)が所在し、多くの連邦省庁が集中しています。いわば日本の霞ヶ関のようなところです。

Washington Memorial and Cherry Flowers

ワシントンD.C.には、他にも多くの記念建造物やスミソニアン博物館(Smithsonian Museum)などが立ち並んでいます。172か国の大使館に加え、世界銀行(World Bank)、国際通貨基金 (IMF)、米州機構 (OAS)、米州開発銀行(IDB)、汎アメリカ保健機関 (PAHO) の本部も置かれています。労働組合、学術などロビイストの各種団体本部もこの地に居を構えています。連邦政府の所在地として国際的に強大な政治的影響力を保持する世界的都市で、また金融センターとしても重要な街です。首都としての機能を果たすべく設計された計画都市ともいわれています。

Smithsonian Castle

ワシントンD.C.の設計に携わってのは、ピエール・ランファン(Pierre Charles L’Enfant)というフランス生まれの建築家です。連邦都市建設計画のコンペに当選し、基本計画案を作成した人として知られています。ランファンはジョセフ・ラファイエット(Joseph La Fayette)と共にアメリカ植民地にやってきた移民です。独立戦争ではヨークタウンの戦いなどに一緒に参加してイギリス軍と戦った技師で軍人です。1791年、ランファンはバロック様式を基に基本計画を作成します。開かれた空間と景観作りを最大限に重視し、環状交差路から放射状に広い街路が伸びるという設計となっています。

Washington National Cathedral

興味深いのは、バラエティに富んだ建築物がワシントンD.C.にあることです。アメリカ建築家協会が選ぶ2007年の「アメリカ建築傑作選」では、10位までにランクされた建物のうち6つがワシントンD.C.にあることです。ホワイトハウス、ワシントン大聖堂(Washington Cathedral)、トマス・ジェファーソン記念館(Thomas Jefferson Memorial)、連邦議会議事堂、リンカーン記念館(Lincoln Memorial)、ヴェナム戦争戦没者慰霊碑(Vietnam War Veterans Memorial)といった建築物です。どれも第一級の気品を備えています。

ワシントンD.C.には、ジョージ・ワシントン大学(George Washington University)、ジョージタウン大学(Georgetown University)、ハワード大学(Howard University)などもあります。ハワード大学は、全米屈指の名門歴史的黒人大学となっています。白人系やアジア系の学生も入学できる超難関の大学です。現合衆国副大統領のカマラ・ハリス(Kamala D. Harris)も卒業生です。

Rev. Martin Luther King, Jr.

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その70 『Equality State』とワイオミング州

アメリカで最も人口が少ないワイオミング州(Wyoming)は、手つかずの自然が非常に多く残っている州でもあります。ワイオミングとはアルゴンキン語族(Algonquian)インディアンの言葉で「大平原」を意味し、州の東側3分の1はハイプレーンズ(High Plain)と呼ばれ、広大なグレートプレーンズの西部にあたる標高の高い平原地帯が広がっています。

Yellowstone National Park

白人の到来以前、プレーリーに大群をつくって生息していたバイソン(bison)をねらい、18世紀の中頃からフランス人毛皮商人が、フォートララミー(Fort Laramie)と名付けた交易所が作られます。19世紀の中頃、白人の侵入に対するインディアンの怒り高まります。レッドグランド(Red Grand)に率いられたスー族(Sioux)とシャイアン族(Cheyenne)の戦士たちが1876年まで合衆国軍隊と戦うという歴史が残っています。1990年に作られた映画「ダンス・ウイズ・ウルブス」(Dances with Wolves)は、その事実を取り上げた作品です。

Dances with Wolves

ワイオミングには、アメリカでも特に有名な2つの国立公園、イエローストーン国立公園(Yellowstone National Park)とグランドティトン国立公園(Grand Teton National Park)があります。この2つの国立公園は、アウトドア愛好家や冒険家に大人気です。ワイオミング州では広大な美しい大地をクマ、バイソン、エルク(elk)、コヨーテ(coyote)などの野生動物が生息して大事に保護されています。グランドティトン国立公園は、1953年に制作された西部劇映画「シェーン」(Shane)のロケ地となったところです。流れ者シェーンと開拓者一家の交流や悪徳牧場主との戦いを描いた世紀の名作です。

イエローストーンには熱湯を噴出する間欠泉や、カラフルな熱水泉が点在しています。間欠泉ではオールドフェイスフル(Old Faithful Geyser)が世界的に有名です。「faithful」とは「忠実に」を意味し、一定間隔で忠実に噴出することを指します。熱水泉ではグランド・プリズマティック・スプリング(Grand Prismatic Spring)が特に人気があります。

Dances with Wolves

州のニックネームは平等の州『Equality State』と少々地味なフレーズです。それには次のような事実があります。すなわち1870年、ララミー(Laramie)という街では女性が初めて陪審員を務め、同年ララミーではメアリー・アトキンソン(Mary Atkinson)が女性初の廷吏となり、同年サウスパスシティ(South Pass City)ではエスター・モリス(Esther Morris)が女性初の治安判事になります。1925年に全米で最初の女性知事としてネリー・ロス(Nellie T. Ross)が就任します。これら女性に与えられた権利の故に、ワイオミング州は「平等の州」と呼ばれるようになりました。

一体、どうしてワイオミング州では女性が活躍するようになったかは不明です。通常、ワイオミングのような田舎の州は農業や酪農に従事する人々が多く、考え方は伝統的で保守的なのです。しかし、女性参政権を主張していたモリスを指導者に選ぶという大らかさが会った州民にあったからだろうと察します。「ワイオミングというアメリカ合衆国で最も若くまた最も裕福な準州の1つが、言葉だけでなく行動で女性に平等な権利を与えた」というのは、エスター・モリスの才能に依ったことも事実のようです。

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その69 『Easy Rider』が今に伝えるもの

ウィスコンシン州の紹介が、ハーレー・ダビッドソンに移り、映画『Easy Rider』へ行き着くという不可解な展開です。舞台は1965年前後のアメリカ社会です。この映画は、アウトローと呼ばれた若者の生き方を通じて、支配的だった白人至上主義、権威主義等によって現実に起きている問題の不可思議さ、残酷さを表現するというコンセプトで作られています。こうした問題提起を行ったアメリカン・ニューシネマと呼ばれる作品群は広く大衆に支持され、現実社会の人権に対する意識の高まりに見事に寄与しています。それでは「Easy Rider」のあらすじです。

ワイアット(Wyatt)とビリー(Billy)は自由奔放な青年です。メキシコからロサンゼルスまでコカインを密輸した後、そのコカインを売って大金を手に入れます。ワイアットの乗るチョッパーバイクの星条旗柄(Stars & Stripes-painted)の燃料タンク内に隠されたプラスチックチューブに現金を詰め込みます。そしてルイジアナ州ニューオーリンズのマルディグラ祭り(Mardi Gras)に間に合うように東へ向かって走ります。チョッパーバイクとは、ヴェトナム戦争によって心が病んでしまった元兵士たちが平和に馴染めず、バイクを盗んで原型がわからないように弄り倒して生まれたスタイルのバイクといわれます。

Steppenwolf

旅の途中、ワイアットとビリーはアリゾナ州の農家でバイクのパンクを修理し、農夫とその家族と食事をするために立ち寄ります。その後、ワイアットはヒッピーのヒッチハイカーを拾い、荒野を走っていくと、大勢の旅人を受け入れているコミューンへとやって来ます。そのコミューンに誘われ、そのまま滞在することになります。リサ(Lisa)とサラ(Sarah) という2人の女性と知り合い、ヒッチハイクのコミューンのメンバーと自由恋愛(free love)を楽しみます。ヒッチハイカーはワイアットにLSDを渡し、「正直な人たち」と共有するように勧めるのです。

その後、ニューメキシコ(New Mexico) でパレードに同乗していた2人は、「無許可パレード」の罪で逮捕され、刑務所に入れられます。そこで2人は、酒に溺れて留置場で一夜を明かした弁護士ジョージ・ハンソン(George Hanson)と知り合います。ワイアットは、アメリカ市民自由連合( American Civil Liberties Union:ACLU)のために働いたことがあるという話をすると、ジョージは2人の出所を助け、ワイアット、ビリーとともにニューオーリンズへ向かうことにします。その夜、キャンプをしながら、ワイアットとビリーはジョージにマリファナ(marijuana)を紹介するのです。アルコール依存症だったジョージは、中毒になってもっと悪い薬物に手を出すことを恐れ試そうとしないのですが、手をだしてしまいます。

Tavan In Lousiana

ルイジアナ州の小さな町の食堂で3人は、アウトローかつ長髪であるためか、地元の人々にじろじろ見られます。店員の女の子たちは、そんな3人を面白がるのですが、地元の男たちや警察官は、彼らを誹謗中傷し嘲笑するのです。3人は騒ぎを起こさずに立ち去り、町の外でキャンプをします。夜中、地元の男たちは寝ている3人を襲い棍棒で殴ります。ビリーが叫び、ナイフを振り回すと、襲撃者たちは立ち去ります。ワイアットとビリーは軽傷を負いますがジョージは撲殺されます。

ニューオーリンズに向かった2人は、ジョージから聞いた娼家を見つけ、そこの娼婦のカレン(Karen)とメアリー(Mary) を連れて、マーディグラ(Mardi Gras)の祭典でパレードが行われる通りを歩き回ります。4人はフレンチ・クオーター(French Quarter)の墓地にたどり着き、そこでヒッチハイカーがワイアットに渡したLSDを吸うのです。

翌朝、田舎道で古いピックアップトラックに乗った地元の男2人に追い抜かれます。トラックの運転手らは、彼らを脅してやるとショットガンを手にします。ビリーとすれ違ったとき、助手席の男が発砲し、ビリーは転倒します。ワイアットがビリーの元へ戻ると、彼は道端に倒れて血まみれです。自分の革ジャンでビリーの傷口を覆い、ワイアットは、Uターンしてきたピックアップに向かって車を走らせます。今度は運転席側の窓からショットガンが再び発射されます。ワイアットのバイクは宙を舞い、バラバラになって炎に包まれます。

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その68 『Harley-Davidson』とEasy Rider

映画「イージー・ライダー」(Easy Rider) は、1960年代後半からアメリカで作られた反体制的な若者の心情を映したアメリカン・ニューシネマ(American New Cinema)というジャンルの作品です。大衆文化やカウンター・カルチャーの先駆けとなった名作ともいわれ、1965年のヴェトナムへの軍事介入によって、閉塞的な状態になったアメリカ社会に若者たちが抵抗していくのです。やがて反戦運動が全国的な広がりをもつようになり、映画や音楽界にも厭戦ムードが込められていきます。

1960年代のアメリカ社会ではアウトロー(Outlow)の乗り物というイメージの強かったのがハーレー・ダビッドソン(Harley-Davidson)です。それに反戦運動が展開するにつれ、徴兵忌避を生み、ヒッピー(Hippy)とかドラッグ(drug)が横行していきます。このようなアウトローの出現が国家権力への静かな抵抗となり、アメリカン・ニューシネマの大きなコンセプトになった考えられます。

冒頭で主人公らがバイクで疾走するシーンに使われ曲は、ステッペンウルフ(Steppenwolf)というロックバンドが演奏する「あるがままに生きよう」(Born to Be Wild)でした。当時、大衆文化およびカウンターカルチャーでバイク乗りの姿や態度を表現するときに、こうしたロック音楽は効果的であったようです。

Easy Rider

「Easy Rider」とは、「仕事をせずにのんびり生きている人」とか、「簡単に落とせそうな女」というアメリカで使われる隠語です。白人主義者たちから差別されても自由を謳歌しながら生きようとする作品です。こうした映画は「ロード・ムービー」(road movie)とよばれ、旅の途中で起こる様々な出来事が展開されるのです。

さて、燃料タンク、ヘルメット、革ジャンの背中に星条旗が貼り付けながら、麻薬の密売に成功し大金を稼いだ2人のバイク乗りが、真のアメリカを発見しようと出発します。「自由を求める旅」ですが、やがてどこにも見付けられないと嘆いていくのです。次回は、「イージー・ライダー」の中味を取り上げます。

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その67 『Harley-Davidson』と日本

ハーレー・ダビッドソンの海外での販売の歴史です。アメリカ以外で継続的に営業している最古のハーレー・ダビッドソンディーラーは、1918年にオーストラリアに設立されます。 日本での販売は1912年に始まり、1929年にはハーレー・ダビッドソンの名前で、同社の工具を使用してライセンス生産します。1935年にライセンスのみならず設備まで買い取ることで国産化の目処が立ち、その際に設立されたのが「三共内燃機株式会社」です。

Easy Rider


翌1936年には社名も三共内燃機から「陸王内燃機」に変更されました。そして「陸王」という新車名で日本でハーレー・ダビッドソンを生産します。陸王内燃機は1949年に業務を停止しますが、翌1950年に昭和飛行機が権利を買い取り「陸王モーターサイクル」として復活します。生産された車名は「陸王グローリー号」です。ロータリーチェンジ式や国産初のスイングアーム式など最新の性能を兼ね備えたモデルで当時は人気を呼びました。

Harley Davidson

やがてスーパーカブで王者に上り詰めていたホンダ、スポーツとデザインに秀でていたヤマハ、最初からコスト・パフォーマンスが優れていたスズキが台頭し、陸王も対抗することが出来ず1959年に生産がストップします。ちなみに陸王という名前の由来は一説では、1927年に作曲された慶應義塾大学の応援歌『若き血』から引用したといわれています。「陸の王者ケイオー」をご存じでしょうか。

1993年の創立90周年から、ハーレー・ダビッドソンは「ライドホーム」(Ride Home)と呼ばれるミルウォーキでの祝賀ライドを行っています。この新しい伝統は5年ごとに続き、ミルウォーキの他のフェスティバル、例えばサマーフェスト、ドイツフェスティバル、フェスタ・イタリアーナなどと同様に、非公式に「ハーレー・ホームカミング・フェスト」(Harley Homecoming Fest)と呼ばれるようになっています。110周年記念式典は、2013年8月29日から31日にかけて開催され、120周年記念は、2023年7月13日から16日まで、ミルウォーキで開かれます。

Road Glide

ハーレー・ダビッドソンミュージアム(Harley-Davidson Museum)はミルウォーキでも有数の観光名所となっています。2011年3月の東日本大震災で流されてブリティッシュコロンビアに漂着した”Night Train”と呼ばれたハーレーも展示されています。入場料は8ドルから20ドルくらいです。それにしてもハーレーのズズーンという鼓動には圧倒されます。