【話の泉ー笑い】 その四十五 パントマイム その5 映画「ユダヤ孤児を救った芸術家」

マルセル・マルソーはユダヤ人でした。ドイツ軍のフランス侵攻に伴い、ユダヤ人であることを隠すために姓を「Mangel」から「Marceau」に名前を変えたようです。彼の父はゲシュタポ(Gestapo)によって捕らえられ、1944年にアウシュビッツ強制収容所(Auschwitz Concentration Camp)で亡くなります。若いとき、マルソーは第二次大戦中にナチと協力関係にあったフランス政権に立ち向かうべく、レジスタンス運動に身を投じます。彼はフラン語、英語、ドイツ語に堪能だったようで、一時、連合軍第三軍のジョージ・パットン(General George Patton’s Third Army)の連絡将校として働いたとあります。

沈黙のレジスタンス

このマルソーの実体験を映画化したのが「沈黙のレジスタンス–ユダヤ孤児を救った芸術家」という作品です。第二次世界大戦が激化するなか、彼は兄のアランらとでナチに親を殺されたユダヤ人の子どもたち123人の世話をします。悲しみと緊張に包まれた子どもたちにパントマイムで笑顔を取り戻させます。それでもナチの勢力は日に日に増大し、1942年、遂にドイツ軍がフランス全土を占領します。マルソーらは、険しく危険なアルプスの山を越えて、子どもたちを安全なスイスへと逃がそうとします。

マルセル・マルソー

「戦時中だからこそ、子ども達を笑わせたい」「真の抵抗とは人を殺すことではなく、命を繋ぐこと」と映画の中でマルソーは言います。「芸術とは、見えないものを見えるようにし、見えるものを見えないようにする」とも言います。この考え方はまさに彼のアートそのものであり、彼が子ども達を救おうとしたシーンにも表れています。

【話の泉ー笑い】 その四十四 パントマイム その4 マルセル・マルソー

1998年に日本でも公演したことのあるマルセル・マルソーのことです。彼は、パントマイムという芸術形式における第一人者で、近代パントマイムの歴史で最も有名な演者の一人といわれます。マルソーは、5歳のとき母に連れられてチャーリー・チャップリンの無声映画を見たことがきっかけで俳優を志したと回想しています。やがて演劇や身体を使ったパフォーマンスを学びます。

Marcel Marceau

ちなみに映画『天井桟敷の人々』(Les enfants du Paradis)のバチスト役(Baptiste)で世界的に有名になるジャン・ルイ・バローは、マイム研究家であったエチエンヌ・ドゥクルー(Etienne Decroux)の生徒でした。マルソーはバローが立ち上げた劇団に参加しますが、バローが映画を中心とした活動になり、マルソーはパントマイムを追求するためにバローから離れます。マルソーはこの劇団のパントマイムのバチストで演じた道化役で好感触を得たことを弾みに、最初の無言劇(mimodrame)『プラクシテレスと黄金の魚–Praxitele and the Golden Fish』をサラ・ベルナール劇場(Sarah Bernhardt Theater)という所で公演し高い評価を得るのです。

Marcel-Marceau

1947年には、マルソーの代名詞ともいえるキャラクター「Bip」を名乗ります。「Bip」は白く塗られた顔、よれよれのシルクハット、帽子に力なく飾られた花、ストライプのシャツなどはパントマイムの一般的なイメージとして認知されるほど、大衆にアピールします。言葉を発せず体ひとつで表現されるそのパフォーマンスは高い評価を受け、とりわけ有名な『若さ、成熟、老年そして死』(Youth, Maturity, Old Age, and Death)と呼ばれているパフォーマンスは有名となります。このパフォーマンスについて、評論家は「彼は小説家が何冊書いても表現しきれない世界を2分で表現してしまう」と言ったといわれます。

【話の泉ー笑い】 その四十三 パントマイム その3 道化役とピエロ

コンメディア・デッラルテが衰退すると、その遺産を取り入れた道化芝居がフランスで発達していきます。現在の道化役(ピエロ: pierrot)のイメージ、白塗りでちょっととぼけたキャラクターは、この時期のフランスの道化芝居から生まれたものといわれます。その後、時代の流れとともに19世紀後半にはこのような道化芝居も衰退していきますが、その流れを取り入れたジャン・ルイ・バロー(Jean-Louis Barrault)などが身体技法としてのパントマイムを洗練させていきます。やがてバローの生徒として、マルセル・マルソー(Marcel Marceau)が登場します。マルソーは後に「パントマイムの神様」「沈黙の詩人」と呼ばれ、今日のマイムの大衆化に大きな貢献をしたといわれます。そしてパントマイムを「沈黙の芸術–Art of Silence」として確立するのです。

Street Performance

ピエロとかクラウン(Clown)は、西洋の道化役のことです。原型はイタリアの即興喜劇コメディア・デッラルテの、のろまでずうずうしい居候の道化役ペドロリーノ(Pedrolino)です。17世紀後半にパリのイタリア人劇団によってフランス化され、白いだぶだぶの衣装を着て顔を白塗りにし、円錐形の帽子,黒い仮面、鳥の嘴のような大きい鼻を持ちシルクハットを被った小柄な老紳士プルチネラ(Pulcinella) が登場します。おそらくペドロリーノの後身であるピエロ〈悲しき道化〉だったようです。

Performer and Children

ピエロは、男子名ピエール(Pierre) の愛称を名のって、歌と対話を交互に入れた通俗的な喜劇・舞踊・曲芸などのボードビル (vaudeville)やバレエで活躍します。19世紀にはボヘミヤ(Bohemia) 出身のパントマイムの名優ドビュロー(De Bureauがこの役柄をさらに洗練して、まぬけだが繊細なロマンチストで恋に悩み哀愁に満ちたピエロ像を完成していきます。またサーカスでは、より活動的な役柄であるプルチネッラ (Pulcinella)や即興劇のアルレッキーノ(Arlecchino)の要素が加えられ、イギリスのクラウンとも混ざり合って、ひだ付きの襟飾りと目や口の周りの赤い化粧が強調された道化師となります。そのいずれもが多くの作家や画家の題材にもなり、笑いのキャラクターとして定着していきます。

【話の泉ー笑い】 その四十二 パントマイム その2 コンメディア・デッラルテ

現代のパントマイムといえば、チャーリー・チャップリン(Charles Chaplin)の無声映画を思い浮かべます。サイレント作品「街の灯:City Lights」は、盲目の女性との恋を悲しくも暖かに描き世界中で大ヒットとなったことは、すでにこのシリーズで紹介しました。丁度トーキーの波が押し寄せる頃です。英語圏においては、パントマイムという単語は、主にクリスマスに子ども向けに演じられるコメディ要素の強い伝統的演劇を指すようです。

City Lights

今日私たちが知っているパントマイムに強い影響を与えたものとして、ルネサンス期(Renaissance)のイタリアの即興喜劇で起こったコンメディア・デッラルテ(Commedia dell’arte) が引用されています。デッラルテとは、今で言う旅芸人一座のことです。ヨーロッパ全土を放浪し大道芸を行ったといわれます。ヨーロッパの各地を訪れるのですから、言語の壁を乗り越える必要がありました。そうしてパントマイムの技法が洗練されていったようです。

Limelight

コンメディア・デッラルテは観客を楽しませるために様々な手段を使ったようです。演技は誇張され、やがてラッツィ(Razzi)と呼ばれる独特の笑いのテクニックも編み出されていきます。時にはパントマイムやジャグリング、アクロバットなどの身体表現も交えて演じられます。仮面を使用する即興演劇の一形態で、演じる内容の多くは時代や社会の風刺喜劇が中心であったといわれます。

【話の泉ー笑い】 その四十一 パントマイム その1 その語源

話の泉は、パントマイムという「沈黙の芸術–笑い」へと展開していきます。週末、ヨーロッパやアメリカの大都会の繁華街を歩くと、必ずといってもよいほど大道芸(ストリートパフォーマンス;street performance) に出会います。ジャグリング(juggling)もそうです。台詞ではなく身体や表情で表現する演劇の形態で黙劇とか無言劇とも呼ばれる「パントマイム」(pantomime)も見かけます。

大道芸人

パントマイムでは、実際には無い壁や扉、階段、エスカレータ、ロープ、風船などがあたかもその場に存在するかのように身振り手振りのパフォーマンスで表現します。特異な服装や化粧をして全く身じろぎをしないパフォーマンスにも会い、子ども達を驚かせたり喜ばせたりします。

パントマイムの語源をWikipediaから引用します。パントマイムとは「全てを真似る人」「役者」を意味する古典ギリシア語 「pantomimos」とあります。古代ギリシアの頃のパントマイムは、演劇の一演目という扱いだったようで、今とは違い仮面舞踏に近いものだったといわれます。

「泣き笑いして我がピエロ」(堀口大学)

パントマイムをする人を、パントマイミスト(pantomimist)、マイマー(mimer)、パントマイマー(pantomime)などと呼びます。英語圏ではマイムアーティスト(mime artist)という呼びかたもあるくらいです。イギリスでは18世紀以降、台詞のある滑稽劇として独特の発展を遂げ、クリスマスの風物詩となるくらい人気がでます。

【話の泉ー笑い】 その四十 真打ち「話の泉」 その5 「二十の扉」

「話の泉」の次ぎに生まれたのが、「二十の扉」です。1947年11月から1960年4月まで毎週土曜日の午後7時30分から30分間、NHKラジオ第1放送からの番組です。アメリカで放送されていたクイズ番組『Twenty Questions』(20の質問)をモデルにした番組といわれます。動物、植物、鉱物の3つのテーマから出題された問題に、回答者は司会者に20まで質問ができ、その間に正解を探しだしていきます。質問を扉とみなして20の扉を開けていくという趣向でした。

「二十の扉」の問題はすべてリスナーから寄せられました。リスナーからの問題の投稿は「話の泉」の比ではないくらい多く、1日に2万通を超える日があったと言われています。「話の泉」に比べて、番組を楽しむためのハードルはやや低かったと思われます。「話の泉」が「クイズに付随したトークを楽しむ番組」だとすれば、「二十の扉」は「クイズ的なゲームを楽しむ番組」だったようです。

「話の泉」との差別化を徹底的に図ったこの番組は、ゲーム性をとことん追求していました。企画段階では1か月半、週3回ほどテンポの速さと司会者の応答の仕方の猛練習が行われたことにより、スピーディな進行とエンターテイメント性を兼ね備えた超人気番組になったといわれます。番組終了まで司会を担当したのは藤倉修一というアナウンサーです。彼の功績は非常に大きかったと言えます。

司会者の藤倉修一

「二十の扉」では、観客は答えを知っており、回答者の質問が良い質問をすると、観客から拍手が起きます。そのほか笑いが起きたり、薄い拍手が起きたりします。そしてそれが回答者に対するヒントになります。こうした形で観客も番組に参加していたのです。

レギュラー回答者による通常の放送のほかにも「ゲスト大会」が頻繁に開かれます。歌舞伎、政治家、プロレス、文壇などといった、普段あまりクイズとは縁のなさそうな分野からもゲストを招いて番組を盛り上げたようです。「話の泉」の次ぎに生まれたのが、「二十の扉」です。1947年11月から1960年4月まで毎週土曜日の午後7時30分から30分間、NHKラジオ第1放送からの番組です。アメリカで放送されていたクイズ番組『Twenty Questions』(20の質問)をモデルにした番組といわれます。動物、植物、鉱物の3つのテーマから出題された問題に、回答者は司会者に20まで質問ができ、その間に正解を探しだしていきます。質問を扉とみなして20の扉を開けていくという趣向でした。

二十の扉

「二十の扉」の問題はすべてリスナーから寄せられました。リスナーからの問題の投稿は「話の泉」の比ではないくらい多く、1日に2万通を超える日があったと言われています。「話の泉」に比べて、番組を楽しむためのハードルはやや低かったと思われます。「話の泉」が「クイズに付随したトークを楽しむ番組」だとすれば、「二十の扉」は「クイズ的なゲームを楽しむ番組」だったようです。

「話の泉」との差別化を徹底的に図ったこの番組は、とことんゲーム性を追求していました。企画段階では1か月半、週3回ほどテンポの速さと司会者の応答の仕方の猛練習が行われたことにより、スピーディな進行とエンターテイメント性を兼ね備えた超人気番組になったといわれます。番組終了まで司会を担当したのは藤倉修一というアナウンサーです。彼の功績は非常に大きかったと言えます。

「二十の扉」では、観客は答えを知っており、回答者の質問が良い質問をすると、観客から拍手が起きます。そのほか笑いが起きたり、薄い拍手が起きたりします。そしてそれが回答者に対するヒントになります。こうした形で観客も番組に参加していたのです。レギュラー回答者による通常の放送のほかにも「ゲスト大会」が頻繁に開かれます。歌舞伎、政治家、プロレス、文壇などといった、普段あまりクイズとは縁のなさそうな分野からもゲストを招いて番組を盛り上げたようです。

【話の泉ー笑い】 その三十九 「話の泉」 その4 司会者

放送番組に欠かせないのが司会者です。特にトーク番組はそうです。徳川夢声をはじめとする一癖も二癖もある文化人のレギュラー回答者たちを相手に絶妙な問答を繰り広げ、1946年から1964年の間にかけて、タレントとしての才能も高い人気地位を保ちます。

第1回の放送では徳川夢声が司会を担当します。出場者は、サトウハチロー、中野五郎、中野好夫、堀内敬三でした。徳川夢声はもとより自他共に認める鉄道ファンであり、「話の泉」での共演者からは「彼のモノ知りは非常に本格的なのである」と評されたようです。多くの著名人とのインタビューを通して博識が育まれたようです。司会者と回答者、丁々発止のやりとりが聴衆者に受け入れられます。ということは、この番組は「クイズそのものを楽しむ番組」ではなく「『クイズを出題し、回答したり、内容について話したりして楽しんでいる人』を楽しむ番組」だったとわれます。

中野好夫

徳川夢声は、最初は無声映画の弁士で知られるようになります。しかし、トーキー映画の登場により活弁の仕事が無くなると、ラジオやテレビの司会者・俳優・作家として活躍し、持ち前のユーモアと博識で人々に愛されます。特に吉川英治作「宮本武蔵」の朗読で国民的人気を得ます。

回答メンバーは、自他ともに「雑学」という知識の持ち主と自負?していたようです。「話の泉」のメンバーは諸事に詳しいことが要求されます。そこで「偏学」という用語も使われてきます。メンバーの人々自らもその知識は偏っていると認め、大学教授のようないわゆる学者バカを「偏学」というべきだ、と広言してやまないような文化人です。

堀内敬三


徳川夢声の後を引き継いだ司会者が和田信賢です。一癖も二癖もある文化人のレギュラー回答者たちを相手に絶妙な問答を繰り広げ、タレントとしての才能も高い人気アナウンサーの地位を高め、司会者としての人気は絶頂期を迎えます。後に不世出の名アナウンサーと呼ばれるほどでした。その後は高橋圭三らが担当します。 回答者には、堀内敬三、サトウ・ハチロー、徳川夢声、渡辺紳一郎、山本嘉次郎、大田黒元雄、春山行夫といった当時の知識人・著名人たちです。彼らの当意即妙のユーモアを加えるところに、その知性の高さを聴衆者に感じさせたものです。

【話の泉ー笑い】 その三十八 「話の泉」 その3 知的な推理ゲーム

「話の泉」は、わが国のクイズ番組の嚆矢であり、知的な推理ゲームとして定着し18年間873回続きます。ラジオが全盛期の頃です。そこには、クイズ番組を面白くする要素がありました「話の泉」に含まれる構成要件は次のようなものです。
1 リスナーを巻き込む    本番組の場合は問題投稿・公開放送とする
2 クイズをしている人を見せる   本番組では解答者と司会者の軽妙なトークをいれる
3 難問奇問を選定する   問題のジャンル調整しリアクションのとりやすい問題を選ぶ
4 名司会者を配置する   回答を引き出す助けもする

話の泉-公開放送

今、思えば現在ではわざわざ指摘する必要がないくらい当たり前な構成要件です。ですがテレビと違いラジオ番組ですから、リスナーがイメージを形成するような質問と応答であることが大事でした。聴覚からの情報によって、いかにして笑いを形成するかに関して番組製作者と司会者は苦労したことと察します。

問題は全国から募集し、集まった問題を番組製作者らがしぼります。公開録音の前日に司会者と番組製作者でそこからが13通位を選びます。一般常識、文芸、スポーツ、音楽、科学、社会、地理、歴史など、あらゆる分野に平等に行きわたるように按配したようです。放送されるクイズ問題に正確を期するために、事実関係を確認する「ウラ取り」をしたかどうかです。今のように正確さや厳密さが求められることからすると、放送直前に「ウラ取り」するというのは考証が不足するという懸念が浮かびます。

【話の泉ー笑い】 その三十七 「話の泉」 その2 リスナーが参加する番組 

前回は、クイズ番組の出発点としての「民主化教育」のことに触れました。「話の泉」の製作にあたってはGHQから「リスナーの声が反映された番組」「リスナーが参加する番組」を制作すべし、という指導があったとか。戦前戦中のラジオ放送が軍部の一方的な情報伝達であったことを打破する意図がありました。リスナーの希望や質問を放送に反映するというお触れは、ジオ番組制作において一般的に行われていたGHQからの指導でした。

サトウイチロウ

話の泉」における「リスナーの参加」はどのような形で行われたのかです。リスナーから寄せられた問題に、博学博職の回答者が10秒以内にユーモアを交えて答えるという形式です。司会者のアナウンサーが、リスナーからの難問奇問に対して回答者にヒントを交えて答えを促すのです。リスナーからの出題は1日1,000通を超え、採用されるのは1,300通にたった1通という難関であったようです。採用された問題には30円、回答者が回答できなかった問題には50円の賞金が出されたとあります。

「NHK放送史」HPでは、当時の放送をごく一部ですが聞くことができます。
出題者 「これから並べる数字はいったい何を表しているでしょう。三・三・四。」
回答者A 「三・三・九なら分かるけどなあ」
出題者 「まだ数字をもう一つ言うと分かるんです。前の方を。三・三・四の」
回答者B 「あーそりゃ学校だ。六・三制のね、六・三・三・四でしょ。」
出題者 「はい、よろしゅうございます」
回答者B 「だけどね、私の場合はね、もう少しかかりますな。六・六・六・六くらいかかりますな」

回答者Bはサトウハチローです。最後の言葉は、自分が中学を退学したことを踏まえた「くすぐり」でしょう。クイズの回答に関するやりとりの中で聞かれる、こうした軽妙で珍妙な会話が魅力だったのです。

和田信賢

【話の泉ー笑い】 その三十六 「話の泉」 その1 民主化教育 

戦後間もない頃、クイズ番組がNHKのラジオに登場します。それが1946年から放送された「話の泉」です。当時の呼称は「当てもの」で、一般リスナーからの問題に5人の文化人が10秒で解答するというものでした。

当時の問題「がんもどきの作り方をご存知ですか?」に10秒以内で誰も答えられなかったといわれれます。正解は「豆腐を潰して切り昆布と人参を混ぜて揚げます」。少々難易度が高かった「話の泉」です。ですがこの番組の解答者は、難問もあまり苦にしない博学博識の文化人たちでした。

話の泉ー公開放送

「話の泉」はクイズ番組の原型といわれます。こうしたクイズの内容は、当時のGHQ(General Headquarters)内の民間情報教育局(Civil Information and Educational Section: CIE)の指導を受けて制作されたといわれます。興味深い経緯です。この番組はアメリカの人気ラジオ番組「Information Please」を下敷きにしたといわれます。ラジオ放送しかない時代です。日本を「民主化教育」する目的で、アメリカのクイズ番組が輸入されたといわれます。

話の泉と回答者

しかし、GHQのいう「民主化教育」がどういうものだったのかということは、判明していません。たとえば、Wikipediaでは、クイズ番組を通じて、戦前の家族に見られる家父長的な関係性を突き崩すことを意図した、というような考え方が紹介されています。どうもその意味はすっきりと理解しにくいです。クイズ番組による民主化教育の推進や家父長的な関係性の打破は、少々付け足しのような印象です。