どうも気になる その5 緊急防護措置区域と避難計画

原発の話題を考え筆を執るとなんとなく気が重くなる。今回は原発事故発生による避難計画のことである。原発事故には十分な対策が必要とされているそうである。それはそうだ。だが、一体どんな対策が要求されるのか、住民はどう対応したらよいかを考えると頭を抱えてしまう。

国際原子力機関(International Atomic Energy Agency: IAEA)は原子力施設から半径30キロ圏を緊急防護措置計画区域(Urgent Protective Action Planning Zone : UPZ)として規定しているようである。一旦火急の事態になったときは、重点的に防災対策を行うために設定されるのだという。わが国もこのUPZを採用している。そのために多くの帰宅困難者が不自由な生活をしている。

3.11以来、拙宅でも食料や水、電池や携帯ガスコンロなどを備え始めた。屋外には庭の遣り水のためにタンクを四つ設置している。隣近所でもトイレなどに使えることを念頭においている。倉庫が壊れない限り、一週間は電気やガスなしに暮らしたいと思っている。だが放射能の拡散には全く無力である。逃げようにも手段がない。大勢の避難で道は大混乱となるだろう。いっそう、子どものいる家庭は優先して避難対象とし、年寄りは最後まで待機するか、座して死を迎える心構えが必要である。

さて、住民の避難訓練、とりわけ幼稚園や小中高の取り組みである。文科省の発表によると、原発の近くのUPZに立地する公立の小中高校や幼稚園などが19道府県で2,077校あり、事故想定の避難訓練をしているのは34.4%の714校にとどまるということである。

緊急避難では、原発から5キロ圏内では、バスやヘリコプターで30キロ圏外に移動させ、屋内待避するのだという。避難所では保健職員が避難者の放射線量を調べるとある。しかし、このように円滑に住民が退避できるとは到底考えられない。風向き次第では、避難経路も避難先も変えなければならない。

原発事故への学校側の対応を定めた指針はなく、訓練などの取り組みは各学校に委ねられているようである。しかし、見えない敵を相手にして、文科省は原子力規制庁と連携して学校での訓練実施率の向上に取り組むなどとしている。こんな無責任な発表には虫酸が走る。原発そのものの存在が根源的な問題だ。

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どうも気になる その4 教育基本法と道徳教育

教育基本法を読んでいる。ここには素晴らしい条文というか、徳目が並んでいてほれぼれとする。その第二条の一項には次のようにある。

幅広い知識と教養、真理を求める態度、豊かな情操と道徳心、健やかな身体の育成

「教育ニ関スル勅語」にも同じような徳目が示されている。例えば、
勉学に励み職業を身につけよう(修業習学)、知識を養い才能を伸ばそう(知能啓発)、人格の向上につとめよう(徳器成就)といったことである。

教育基本法の第二条の二項以下は次のように規定されている。
二 個人の価値の尊重、創造性を培い、自主及び自律の精神を養い勤労を重んじる
三 正義や責任の自覚、男女平等、社会の形成への参画
四 生命を尊び自然を大切にし、環境の保全に寄与する
五 伝統と文化を尊重し、郷土を愛し他国を尊重し、国際社会での平和と発展に寄与する

「教育ニ関スル勅語」に戻ると、教育基本法のような格調高い文言は少ない。むしろ、家族、夫婦、兄弟、友達などにおける倫理観を強調しているように思える。さらに公共の秩序とか天皇の護持といった面も表れている。具体的には次ような徳目である。

———- 教育ニ関スル勅語 ————–
親に孝養をつくそう(孝行)
兄弟、姉妹は仲良くしよう(友愛)
夫婦はいつも仲むつまじくしよう(夫婦の和)
友だちはお互いに信じあって付き合おう(朋友の信)
自分の言動をつつしもう(謙遜)
広く全ての人に愛の手をさしのべよう(博愛)
広く世の人々や社会のためになる仕事に励もう(公益世務)
法律や規則を守り社会の秩序に従おう(遵法)
事ある時には進んで国と天皇家を守ろう(天皇護持)
——————————————————

「教育ニ関スル勅語」は1890年11月に公布されるのだが、明治天皇が首相と文部大臣にみずから与えた勅語とされている。文中では「爾臣民」(なんじしんみん)と呼びかけ、天皇が国民に語りかける形式をとっている。「斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所」、皇祖皇宗、つまり皇室の祖先が日本の国家と日本国民の道徳を確立したのでありそれを遵守すべき、としたのである。

国体の精華である皇祖皇宗、云々は現代になじまないナショナリズムの思想ではある。天皇も神聖を明確に否定し、国の象徴としての身分となっている。「教育ニ関スル勅語」は、国家と国民の和を重んじる色彩が濃く、個人の価値や創造性とか自律、自然の保護、国際平和と発展への寄与といった側面は強調されていない。

私見であるが、現在の教育基本法の理念に加えて、個人や家族、朋友の間の徳目を強調する「教育ニ関スル勅語」の理念を入れても良いのではないかと考えるがどうであろうか。

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どうも気になる その3 道徳教育

文教政策で気になることがある。特に道徳教育が声高に叫ばれていることである。中央教育審議会は、道徳教育の充実のため道徳を「特別の教科」にするなどという答申をまとめ、早ければ2018年後に全面的に導入される予定のようである。当然、検定教科書の導入も進むだろうが、検定教科書の検定作業は悩ましいはずだ。学術的な通説がない分野を多く含む道徳で、教科調査官が何を根拠に検定意見を示せるのかは難しい。もっと難しいの小中学生の道徳の評価だろうと思うのである。

八王子市内の小中学生に配布されている道徳教材の「私たちの道徳」では、「人とのつながり」や「自他の姓名を尊重して」、「自然の偉大さを知って」、「法やきまりを守って」、「公正、公平な態度で」、「自分の役割を自覚して」などが強調されている。だがこうした分野における人間教育は本来、社会科や理科、国語などの教科で具体的な事例をもとに教えられるべきもののはずだ。

「修身」という科目をご存じだろうか。かつての小学校である国民学校における科目の一つであった。1890年10月30日に教育勅語がだされ、その一か月後に第一回帝国議会が開かれる。教育勅語は1945年まで存在した。1903年に文部省より国定修身教科書が発行される。「修身」では、友情とか努力、親孝行、公益や正直など25項目に及ぶ徳目を過去や現代の偉人や有名人の言葉やエピソードを交えて教えていた。例えば、「親孝行」や「勤勉」には、二宮金次郎のエピソードが登場する。別名二宮尊徳は、報徳思想による農村復興でも知られている。小学校に薪の束を背負い本を読む金次郎の銅像が必ずあった。

修身教育は、明治、大正、昭和と三つの世代を通じて長い間日本人の精神形成の中心的な役割を担ってきた。知識教育で定義や理屈を教授するのではなく、実在した人々の体験を題材として、道徳教育を進めていた。教育勅語が、道徳を国家に対する道徳、人間関係についての道徳、そして個人の道徳の三分野を強調した。国家に対する道徳では国体に関すること、万世一系の国家といったことである。人間関係についての道徳では公益や興産の心得であった。また個人の道徳では学問、知識、理性の尊重、そして勤労勤勉が強調された。

1941年7月に文部省の教学局から「臣民の道」が刊行される。これは国体の尊厳を観念として、国家奉仕を第一とする「臣民の道」を日常生活の実践とする生き方のことである。戦争も傾きかけ、挙国一致と戦争の遂行のために奉仕が国民に求められてきた頃である。もとより個人主義、自由主義、唯物主義を否定する観念でもある。

これから終戦までなお厳しい言論統制が敷かれる。

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どうも気になる その2 「積極的平和主義」

国民の政治意識は投票率に表れるといわれる。低い投票率は政治への無関心ととらえられがちである。しかし、この無関心を規定するものは決して単なる外部的な権力組織だけに向けられるのではない。そうした機構に浸透して、投票の不行使という国民の心的傾向なり行動なりを一定の溝に流し込むような心理的な見えざる力のようなものが問題となる。「どうせ投票したって政治は変わらない」という厭戦的な気分である。

筆者が心配するの政治への無関心というよりは、扇動的なスローガンのようものが先走っていることである。その例を挙げる。集団的自衛権の憲法解釈が論議されていることは存知のはずである。この背景には、ISによるテロ、中国の南沙諸島や尖閣諸島などへの進出といった外的影響の変化、あるいは脅威が叫ばれていることである。これを機に、わが国の防衛力の強化、自衛権の拡大解釈、ひいては憲法第九条の改正という構図になっていると思われる。

今、内閣で使われる「積極的平和主義」とは、我が国の安全及びアジア太平洋地域の平和と安定を実現しつつ、国際社会の平和と安定及び繁栄の確保のための理念だそうである。そして、「我が国を取り巻く安全保障環境が一層厳しさを増している」ことや、「我が国が複雑かつ重大な国家安全保障上の課題に直面している」といった枕詞が必ず付帯している。国民は「そうだ、そうだ、、」と思い込んでこの方針に無言のエールを送る。

国民は確かにこうした近隣での地政学上の変化を報道を通して少しずつは理解している。それと同時に、国民としてのアイデンティを高揚するような雰囲気がうまれているようである。であるから「八紘一宇」とか「八紘為宇」と発言発言する議員はその意味や時代背景をご存じないお目出度い存在なのだが、危機を煽り立てる役割は十分果たしている。

集団自衛権の拡大、あるいは膨張の傾向は絶えずナショナリズムの内的な衝動をはらんでいると考えられる。忘れてはならない事実がある。戦前、国家が「真善美の極致たる日本帝国」という国体の精華を占有した。そこでは、学問も芸術もそうした価値的実体に依存し迎合するより他に存立しえなかったことだ。

国家のための学問や芸術が奨励された。そして、なにが国家のためかという内容の決定は「天皇陛下及び天皇陛下の政府に対し忠勤義務を持つところの官吏が下す」ということになる。学者も研究者も等しく既成事実に屈服したのである。まことにおぞましいことであった。

「積極的平和主義」とはかつての「大東亜共栄圏」の発想の匂いがするのであるが、、、いかがだろうか。

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どうも気になる その1 「八紘一宇」

毎日新聞を読みながら考えることがある。それは政治や経済、その他、教育や文化に関する話題である。新聞記者が書いたものは、どこまで信憑性や公平性があるかは別として、もの申したい話題はたくさんある。それを考えていくことにする。

最近、国会議員が質問の際に、「八紘一宇」とか「八紘為宇」とかの表現を用いて話題となった。あまりに叫喚的な表現なために、真面目に取り上げるに値しないように扱われた。このフレーズを引用した議員は「八紘一宇」の時代に生きた人ではない。従ってその意味するところをどこまで理解していたかは疑問である。だがこの「超国家主義的」と呼ばれるスローガンは戦前戦中は見えざる網によって十重二十重に国民の思想と行動を縛ってきた。

今年の戦後70年談話の内容と表現のことも話題となっている。それはわが国の戦前の帝国主義と植民地支配が近隣諸国に与えた影響をいかにとらえるかに関わっている。近隣の国々は、「未来志向の戦略的互恵関係とは、既存の現実の自体が如何なるものか顧みることから始まる」と考えている。それを今の安倍政権に期待しているようである。どのような談話になるのかは興味津々である。

思うに「八紘一宇」のスローガンを頭からデマゴーグときめてかかるのではなく、その底に潜む論理はなになのかを今一度問う時期に来ている。「八紘一宇」の呪縛からもはや解放されていると考えるべきではない。それが70年談話の意義だと思うのである。

憲法改正の動きも活発になっている。それに先だって閣議は、集団的自衛権を使えるようにするため、憲法解釈の変更を決定した。武器の行使による他国への攻撃を禁じてきた立場を転換し、関連法案成立後は、日本が攻撃されていなくても国民に明白な危険があるときなどは、自衛隊が他国と一緒になって反撃できるようになる。少々大雑把であるが、そんなことで一体どこまで自衛権は拡大されるかが「どうも気になる」のである。

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