どうも気になる その2 「積極的平和主義」

国民の政治意識は投票率に表れるといわれる。低い投票率は政治への無関心ととらえられがちである。しかし、この無関心を規定するものは決して単なる外部的な権力組織だけに向けられるのではない。そうした機構に浸透して、投票の不行使という国民の心的傾向なり行動なりを一定の溝に流し込むような心理的な見えざる力のようなものが問題となる。「どうせ投票したって政治は変わらない」という厭戦的な気分である。

筆者が心配するの政治への無関心というよりは、扇動的なスローガンのようものが先走っていることである。その例を挙げる。集団的自衛権の憲法解釈が論議されていることは存知のはずである。この背景には、ISによるテロ、中国の南沙諸島や尖閣諸島などへの進出といった外的影響の変化、あるいは脅威が叫ばれていることである。これを機に、わが国の防衛力の強化、自衛権の拡大解釈、ひいては憲法第九条の改正という構図になっていると思われる。

今、内閣で使われる「積極的平和主義」とは、我が国の安全及びアジア太平洋地域の平和と安定を実現しつつ、国際社会の平和と安定及び繁栄の確保のための理念だそうである。そして、「我が国を取り巻く安全保障環境が一層厳しさを増している」ことや、「我が国が複雑かつ重大な国家安全保障上の課題に直面している」といった枕詞が必ず付帯している。国民は「そうだ、そうだ、、」と思い込んでこの方針に無言のエールを送る。

国民は確かにこうした近隣での地政学上の変化を報道を通して少しずつは理解している。それと同時に、国民としてのアイデンティを高揚するような雰囲気がうまれているようである。であるから「八紘一宇」とか「八紘為宇」と発言発言する議員はその意味や時代背景をご存じないお目出度い存在なのだが、危機を煽り立てる役割は十分果たしている。

集団自衛権の拡大、あるいは膨張の傾向は絶えずナショナリズムの内的な衝動をはらんでいると考えられる。忘れてはならない事実がある。戦前、国家が「真善美の極致たる日本帝国」という国体の精華を占有した。そこでは、学問も芸術もそうした価値的実体に依存し迎合するより他に存立しえなかったことだ。

国家のための学問や芸術が奨励された。そして、なにが国家のためかという内容の決定は「天皇陛下及び天皇陛下の政府に対し忠勤義務を持つところの官吏が下す」ということになる。学者も研究者も等しく既成事実に屈服したのである。まことにおぞましいことであった。

「積極的平和主義」とはかつての「大東亜共栄圏」の発想の匂いがするのであるが、、、いかがだろうか。

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