「幸せとはなにか」を考える その6 「良き人生とは」についての調査

ボストン郊外にあるハーヴァード大学(Harvard University)で75年余りをかけた「良き人生とはなにか」に関する研究がある。1930年代に大学にやってきた268名の男子学生とボストンに在住する社会的に恵まれない環境にいた若者332名を被験者とした調査である。その間、戦争があり、職業を得て、結婚や離婚し、子育てをし、孫が生まれて退職し高齢化していった。半数以上が80代となっているそうだ。

いろいろな質問紙や心理検査を受けてもらい、面談によって心身の健康状態を長期的に調査してきた。そのために約20億円の費用をかけたというのである。気が遠くなりそうだ。この調査の主査はDr. George Vaillantというハーヴァード大学の精神病理学者である。

こうした調査にはDr. Vaillantがハーヴァード大学のメンタルヘルスセンター(Mental Health Center)での何人もの精神病患者との出会いがきっかけのようである。この間、人々の健康、疾病、そして死の原因などを調べてきた。Dr. Vaillant調査に携わり次のような言葉を残している。

「豊かに齢を重ねるということは、矛盾語法ではない。年齢を重ねるのではなく、生きることを加えることである。」

50歳に達してからの健康法で、一人ひとりができることに7つのことがある。それが70代、80代へと繋がるというのである。よくいわれる煙草を吸わないこと、適度な運動をすること、適度にお酒ををたしなむこと等々であるという。それらはさておき、Dr. Vaillantは「教育」こそがお金や社会的地位を凌駕し、健康や幸せにむすびつくのだと主張する。

社会的に恵まれない環境にいて、貧困で育ち学力テストも低く、厳しい就労を経験してきた者の中で高等教育を受けた者は、ハーヴァード大学をでた若者と遜色ない健康状態を維持しているということに現れている。

人々が健康を維持するために自らが心掛けることができることは、教育に加えて、前述した適度な飲酒、禁煙、安定した結婚、運動、体重管理、そして問題解決力であるという。

c4960969 Tennis_Blog_20130226-thumb-400x300-2183

「幸せとはなにか」を考える その5 「Blessed are , , , 」

新約聖書、マタイによる福音書5章1節〜12節(Gospel of Matthew)の中には興味ある言葉が登場する。それは「幸い」とか「貧しい」という言葉である。そこから話を進めていきたい。

この箇所は「山上の垂訓」(The Sermon on the Mount)と呼ばれ、キリストが弟子と群衆に教えを伝える場面である。

“Blessed are the poor in spirit,
for theirs is the kingdom of heaven.
Blessed are those who mourn,
for they will be comforted.”

日本語聖書の翻訳は次のようになっている。

心の貧しい人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものだからである。
悲しむ人々は、幸いである、
その人たちは慰められるからである。

「貧しい」ということだが、基本的には「困窮している」という意味合いである。誰もが富んでいるほうがよいと考える。だがここで使われている”Spirit”というのは心というよりはむしろ「霊」とか「精神」、といった意味としておく。「霊において貧しい」、「霊に関して貧しい」という状態と考えのである。

「貧しい」という単語のギリシャ語(Greek)は「プトーコス」(ptochos)という。辞書で調べると、絶望している(helpless) 、無力な(powerless to accomplish)、貧窮した(destitute)などとある。神の前にどうしようもなく欠乏し、飢え渇いている人間の姿、それが貧しい人ということになる。

しかし、喜ぶべきことは、「霊において貧しい者」は救いの対象となるということである。これが”Blessed”という言葉である。「祝福されている」「恵まれている」ということをあらわす。自分の霊的な必要を自覚している人たちは幸いな存在だというのである。それをギリシャ語ではマカリオス(Makarios)といい、「至高の幸い」とか「至福の」(supremely blessed)という意味で使われる。1970年代後半にキプロス共和国大統領で宗教家であったマカリオス大主教という人がいた。

ついでだがヘブル語(Hebrew)ではアシュレイ(ashrei )とか、それが変化したエシェル(esher)が、幸いなるかな、という意味で使われる。詩篇40章4節(Psalm 40:4, 41:1)などで見られる言葉である。

言葉の語源を調べると昔の人の知恵や英知が伝承されていて、今にその意味を問いかけているようだ。

00085701  山上の垂訓Arxiepiskopos_Makarios マカリオス大主教

「幸せとはなにか」を考える その4 国民総幸福量

1972年頃の話である。ヒマラヤ近くにあるブータン王国(Buhtan)の国王ジグミ・シンゲ・ワンチュク(Jigme Singye Wangchuck)が国民総幸福量(Gross National Happiness, GNH)という考え方を提唱して話題となった。どうしてかというと、これまでのような経済的な指標を用いた国の発展の度合いや国民の生活を、全く別の方向から比較・評価する指標を提案したからである。これは思いも寄らないような見方であった。

「国民全体の幸福度」は、なぜ注目されたか。国の社会全体の経済的生産及び物質主義的な側面での「豊かさ」を数値化したのが、これまでの豊かさの基準であった。国民総生産(Gross National Product, GNP) や国内総生産 (Gross Domestic Product, GDP) は「金額」として計算されてきた。

国民総幸福量という概念は、きわめて数値化しにくい指標である。しかし、それを提唱した人々の英知に感じ入るものがある。なぜならこれまで比較対象するために用いてきた物差しを全く別な目盛りのついた物差しを使ったからだ。

国民総幸福量では、繁栄と幸福が強調されている。だが幸福の方がより大切だとされて宣言している。人間社会の発展とは、物質的な発展と精神的な発展が共存することだという。

だが、この「幸福」とか「幸せ」ということはまだ不確かさに満ちている。それは、個人のものか、共通な資産なのかがはっきりしないからだ。

1024x768_download_bhutan_market bhutan ブータン

幸せとはなにか」を考える その3 脳腫瘍と闘う友人

友人や家族から送られてくるクリスマスカードやメールでのニュース、そして写真などを見ながら考えることである。それは「幸せとは」とか「生きるとは」ということである。

長男家族からは「今年一年」のアルバムが送られて来た。孫たちの成長する姿が写っている。一緒にスペインはバルセロナを旅した。山深い僧院のMontserratやAntoni GaudiのSagrada Familiaを満喫した。孫娘らとディズニーランドへも一緒に行った。しかし、旅や再会が終わると興奮と寂しさの落差が伝わってくる。夢だったのか、という感慨である。

親しい友人のDr. Carl Selle師からは、脳腫瘍と共に生きるさまが二週間毎に伝えられてくる。留学生への支援と伝道に携わる牧師である。病と向き合う心の動揺と周りの支えに感謝している内容である。無力な存在ながら、医療スタッフや家族の支えによって生かされていることを書いている。一緒にガンと闘う心持ちとなり、こちらが励まされる。

そこで自分の心境にかえるのだが、年金生活をしながら、思い描いていた生活水準が維持できるのかとか、身体の衰えと病、死を予期する精神的な不安などを考えることが多い。年齢を重ねると幸せの度合いが低くなる可能性は理解できる。だが、老年なるほど幸せを感じるのが欧米人だという。30代を底にU字型に幸福度は上がっていくといわれる。不思議である。なぜだろうか。

このような「幸せ」とか「不幸」ということの捉え方の原点はどこにあるのか、それがこのブログの出発点である。

430082_10150619698444731_1578536466_n  Dr. Carl Selle’s Wood Works10487280_10152609442469731_2552620412501102442_n Dr. & Mrs. Carl Selle

「幸せとはなにか」を考える その2 不幸だと考える社会は、、

若い世代からみると、高年齢の人の生活水準は高く見えるらしい。一握りの人は、そうかもしれないが大概の高齢者はそんなことはない。友人が飲みながら「あなたは人生の勝ち組だ」といったのが妙にひっかかっている。「どうして?」ときくと、公務員だったので年金がきちんともらえるからだという。公務員といってもピンからキリまである。筆者のように人生を徘徊し遠回りしてきた者の年金額は生活保護費のようなものだ。

調査によると、ある程度の資産を持っている中高年すら幸せを感じられなくなっているようだ。恐らくがむしゃらに働き、もしかしたら趣味を広げるとか、スポーツを楽しむとか、ボランティアをするとか、人脈作りをすることを忘れたせいかもしれない。退職すると特に付き合いというつながりはガクンと減る。中高年が不幸だ、と感じる社会はどこか変だ。

我々はどうしても、周りが豊かで幸せな生活をしているのではないかと感じる。そして「自分は惨めだ」という気分に襲われがちになる。周りの人の生活水準を意識するから不幸感がやってくるのである。クリスマスや正月の時期が最も自殺率が高いのはその現れである。

「幸せ」とか「不幸」ということは一体なにか。物質的な生活とか、友達関係とか、高齢化とか、仕事の安定さとか家族の絆とか、、そうした周りの状況に左右されがちだ、ということは理解できる。だがそれでは本題のテーゼに迫ることが難しいような気がする。

これがあれば本当に幸せと思える物は何ですか
tm_08092005 (3)