手書き その20 漢字を覚える方略–とりへん・ひよみのとり

漢字の偏を取り上げ、漢字を覚える方略を考えるこの拙稿も今回が「トリ」である。

とりへん・ひよみのとりは酉部と呼ばれる。十二支のとりである。とりへんの漢字を調べると、発酵にかんするものが目立つ。酒や酢、醤油など調味料などである。

醸造の歴史は深いようである。紀元前5000年頃のバビロニア(Babylonia)ですでに存在していたとある。酒の醸造と同じ時期に酢も作られるようになったと考えられている。酢は食品に酸味をつけたり増強し清涼感を増す。夏のおかずに酢は欠かせない。バルサミコ(Balsamico)酢はブドウの濃縮果汁から作られる。昔から葡萄はワインの醸造とともになくてはならないものだったに違いない。

毎年、ウィスコンシンに住む末娘には何種類かの麹を送っている。麹を入れた料理は亡くなった母親から教わったようだ。孫娘にも受け継いで欲しいものだ。日本酒、味噌、食酢、漬物、醤油、焼酎、泡盛などに麹が使われる。

「醍醐」は、牛乳からのほのかな甘味と濃厚な味わいのあるジュースのようなもの。醍醐味とはそんな味なのだろう。仏教用語でも使われるとWikipediaにある。飲むヨーグルトやチーズに近いようだ。筆者も365日、欠かさず自家製のヨーグルトをいただいている。

晩酌はもっぱらお湯割り焼酎。夕方5時くらいから手書きしたこの原稿のワープロ作業をしながらチビチビやるのが楽しみだ。酩酊することはないが、ちょっぴり量が増えてはいるので気をつけている。

「配」はとりへん、「酒・酔」はひよみのとり、とあるがその違いは分からない。「醜」という漢字と酉部の関連も残念ながら調べる時間がなかった。
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手書き その19 漢字を覚える方略–いぬ・けものへん

四足歩行する哺乳類に関する漢字につくのが「けものへん」とか「いぬへん」。犬に始まり、猫、狐、狸、猿、猪、狼など。「狗」とは犬のこと。まわしものとか間諜を意味する。羊頭狗肉という四文字熟語もある。

獣の性質を示すのが狂や猛。しかし、獣は本来は穏やかな性質ではないのか。子を守る本能が狂や猛に見られる。最近、子殺しとか女性の殺傷事件が報じられる。獣でもしないようなこうした行為に暗たんたる想いがする。現代の狼藉者である。こうした者は、独、狭、犯といった漢字から連想される生活をしているのだろうか。

狩りは獣を狙い捕獲となる。献は差し出すとか献上すること。「猶」とは以前の状態がそのまま続くこと。猶予という熟語がそれを示す。

「夷狄」という異民族を野蛮人といった蔑称に用いた熟語もある。民族間の根深い対立には優位、劣位の意識がある。戦争にはこうした誤った「大義」を国民に植えつける教育がある。

八王子の郊外にある高尾山には、天狗の言い伝えがある。もともとは慢心の権化とされ鼻が高いのが特徴。山伏姿で赤ら顔をしている。だが高尾山とか他の霊山では山の神として人々の信仰の対象となっている。

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手書き その18 漢字を覚える方略–ころもへん

「ころもへん」は衣服や布製品などを示す漢字が多い。衣装とか衣裳、袈裟はその典型である。「衣」には「裂」や「裁」のように下部に置かれるときはそのまま「衣」が使われる。「表」や「褒」などは漢字の下に同じく変形してつけられる。「初」や「袖」、「補」のように左の偏の位置に置かれるときも衣の変形が使われる。

敷き布団のことは「褥」。「褥そう」という熟語があるが、これは英語では”Pressure sore”。圧迫されて痛むこと、となる。英語のほうがわかりやすくてよい。

最近「褌」が男女に人気が出ていると報じられている。親父もつけていた。これは簡単でよい。衣服を脱ぐことは裸。筆者は「袴」を持っていない。袴をつけるという精神と経済面の余裕がなかったからだ。奈良の友人へ「一着いただきたい」と申し入れているが、背丈が違うといって断られている。

「襖」や「衾」もある。そういえば佐伯泰英の時代小説にはこの二つの漢字がしばしば使われる。「同衾」もそうだ。舞台は江戸。深川、浅草、吉原など下級武士や庶民の生活の場である。

片寄らないことは「衷」。心の中という意味もある。それが衷心である。折衷も納得できる熟語である。

我々はいつまでも若くはない。やがて衰え「喪」がやってきて次世代に役割を譲る。「禅譲」というと大袈裟だが、いつまでも先輩ぶらないで静かに舞台から退いていくのがいい。

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手書き その17 漢字を覚える方略–のぎへん

国語辞典と広辞苑を長く使っているが、いずれも岩波から出版されている。なぜか昔から信頼が置ける出版社という観念がある。大学で使った参考書などずいぶんお世話になった。新書も充実している。「広島ノート」、「憲法とはなにか」など忘れられない。

「のぎへん」である。穀物の総称とか代表して使われたとある。後々、稲を意味するようになった。

家の近くにある和食堂の名前が「穣」。毎日のように通りすがるので漢字を覚えて書けるようになった。「豊穣」という熟語は米のなり具合を農民が喜ぶ様を示すようだ。画数も多いが大事な漢字だ。

「私」とか「和」は画数が少ない。「禿」とくると少々辛い気分だ。

穀物を意味するだけあって、「租」、「税」という漢字も関連している。「租」はもともと「みつぎ」という意味である。米で年貢を払っていた。土地の大小、年貢の量などは日本の封建制度を支えていた石高と関連している。玄米の収穫量のことが石高。

「稽古」という熟語は穀物と関連はないようだ。「稽」という漢字を調べると、「考える」、「比較する」という意味もある。「とどこおる」ともあって少々驚く。毎日囲碁の稽古に余念がないのだが、上達への「径」は厳しいものがある。

穀物に戻るが、今春は稀代の大雪が見舞ったので水は十分だと思うが、、穏やかな秋になって稲穂が垂れるのをみたい。

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手書き その16 漢字を覚える方略–みみへん

耳偏の漢字はそうは多くない。

「聞く」と「聴く」の使い方について時に考え込むことがある。ただ、熟語にするとその意味が違うことがわかる。静聴、拝聴、傾聴などの熟語がそれを物語る。最近、大学にでかけて聴講する機会がない。

教会などで聖職者を呼ぶときのことを「招聘」という。「聘」とは賢者を招くという意味らしい。このことを文書化したのを招聘状という。「是非おこしいただきたい、そしてお働きいただきたい」という書類である。英語でいえばCalling(招き、天職)である。

口偏かみみへんかは分からぬが、「囁」は誠に当を得た漢字だ。
「”まったく下々の事情をよ、ご老中はわかっていねえぜ”と江戸の町々でこんな会話が囁かれていた。」と佐伯泰英の時代小説にでてくる。天保の改革で、江戸の町と民を疲弊させいく様子を描いている。

「耽溺」は一つのことに夢中になること、他を顧みないことである。ときにこうした状態にふけったりのめり込むのも悪くはない。耽美主義(aestheticism)とか審美主義という熟語もある。伝統にとらわれない新しい芸術主義のようだが、退廃的な印象もあり筆者にはわかりにくい。

耳が聞こえないことは「聾」。以前、こうした生徒が学ぶところを聾学校といった。聴覚に障がいがある生徒の学舎である。

「聡」は、賢い、耳がよくとおる、すばやくわかる、わかりがよいとある。しばしば名前にも使われたが最近はあまり見ないのが寂しい。

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綜合的な教育支援のひろばの再開にあたり

これまでのサイトがプラグインやデータベースの不具合のため、一時閉鎖し新しいサイトを開きました。これまでご覧いただいていたページは以上のような理由で閲覧できなくなりました。

7月1日よりこの場所にて新たに店開きをいたします。私の研究活動のサイトは以下に
あります。http://www.ceser.hyogo-u.ac.jp/naritas