心に残る一冊 その138 Intermission 「遙かなノートル・ダム」

「遙かなノートル・ダム」の作者はフランス文学者の森有正です。呼び捨てにするのをためらうのですが、、氏の人となり、生き方、思索の方法が織り込まれていて、私の考え方の一つの道標になっているかけがえのない一冊です。森は明治の外交官、政治家、初代文部大臣であった森有礼の孫にあたります。森有礼が英語の国語化を提唱したのは有名です。

森有正は小さい時からフランス語を学び、やがて大学などで教えながらパリに滞在し、そこが著作の場となります。パリでの生活にあって、その間数々の随想や紀行などを著します。自然や人々の息づかいが伝わるような濃密な文体で知られています。読みこなすのは容易ではありません。晩年は哲学的なエッセイを多数執筆して没します。森有正全集全14巻の第4巻が「遙かなノートル・ダム」です。

著者はフランスの教育に深い関心を示します。著者の経験と思索の中には、いつもフランスの教育が陰を落としています。フランスの教育に触れる箇所があります。

「フランスにおいては、自国の言葉の学習に大きい努力が払われている。小学校に入る6歳くらいから、大学に入る18歳くらいで行われるバカロレア(Baccalaureate)という国家試験まで、12年間にわたり緻密に行われる。その目的は単に本を読むことを学ぶだけでなく、作文すなわち表現力を涵養するために行われる。漠然と感想を綴ることではなく、読解、文法、語彙、読み方にわたって教育が行われ、その総合的は把握が作文によってためされるのである。文法にしても、しかじかの規則を覚えることではなく、その規則の適用である短い文章を書くことが無数に練習され、理解はすなわち実際に間違いのない文章を書くことによって実証される」

教育の中心課題が知識の組織的蓄積であって、そこから自分の発想を磨くという眼目を忘れてはならないと説きます。近年は問題解決学習とかアクティブ・ラーニング(AL)ということが話題となっています。ALとは、学習者が能動的(アクティブ)に学習(ラーニング)に参加する学習法の総称です。しかし、その基礎になるのは知識や語いの集積です。これが不足していてはどうにも学習は成立しません。

心に残る一冊 その137 「虚空遍歴」 その八 中藤冲也と山本周五郎

山本周五郎は多くの短編小説を当時の月刊誌、たとえば婦人倶楽部、主婦之友、小説新潮、オール読物、講談雑誌、キング、さらに週刊朝日などいった大衆色の強い雑誌や週刊誌に発表します。どれも珠玉のような作品だと思います。山本が大衆小説作家であるかどうかは別として、多くの読者に感銘を与えています。

他方、「虚空遍歴」や「樅ノ木は残った」という二つの大作は山本の小説家としての地位や名声を確立したものといえるのではないでしょうか。主人公の中藤冲也や原田甲斐は、なにを達成したかではなく、なにを成し遂げようとする志を抱いて生きてきたかが描かれる作品です。それは芸の理想とか主君への忠義をどう実現するかということです。

そうした生き様を示す箇所が随所にあります。例えば「虚空遍歴」では死に瀕する冲也の呟きです。
「男が自分の仕事にいのちを賭けるということは、他人の仕事を否定することではなく、どんな障害があっても屈せず、また、そのときの流行に支配されることなく、自分の信じた道を守りとおしてゆくことなんだ」

山本は冲也に次のように云わせる箇所もあります。
「才能のある人間が新しい芸を創りだすのは、古い芸にかじりついているよりよっぽど本筋だ、世間なみの義理や人情のために、創りだせるものを殺しちまうとすればそれは本当の芸人じゃあねえ、本当の芸っていうものはな、・・・ときには師匠の芸を殺しさえするもんだぜ」

原田甲斐もまた、「樅ノ木は残った」のなかで自らの命を藩に捧げるという忠義を貫きます。
「私です、私が逆上のあまり、、これは甲斐めの仕業です、久世候、、」
「こやつの非で伊達藩に累が及ばぬようお頼み申し上げます、」

ここでの古い芸とは純文学、新しい芸は大衆文学のことのようです。師匠とは当時の文壇の大御所のことかもしれません。山本は痛烈に文壇に一石を投じていきます。1943年に『日本婦道記』で直木賞に推薦されますが、これを辞退ことに山本の矜持が示されています。自分の作品が文壇から認められなくとも大衆が認めてくれるはずだ、という主張です。その後も毎日出版文化賞や文藝春秋読者賞を辞退するのは、文壇に対する一種の挑戦状のようなものだったのです。

最後に、冲也は江戸でたいそう人気のあった端唄の名人としてもてはやされ、そのまま端唄で名声を確立できたほどの名手です。しかし、冲也が目指す高みは端唄の確立ではなく、浄瑠璃作品を作ることでした。端唄が大衆小説であれば、浄瑠璃は純文学作品にあたるのかもしれません。

山本は文学に大衆文学も純文学もないといいます。「小説にはいい小説と悪い小説があるだけ」とはいいながら、純文学作品を目指していたのではないか、そんなことを考えるのです。

心に残る一冊 その136 「虚空遍歴」 その七 おけいとお京との対面

雪の北陸路、今庄という小さな町の旅籠で冲也は、病床から呟きます。

「おれは浄瑠璃で生きる決心をし、一生を賭けても自分の浄瑠璃を仕上げようと、そのことにぜんぶを打ち込んでやって来た、これからも、生きている限りやりぬいてゆくだろう、――だが、この道には師もなければ知己もない、師にまなび、知己に囲まれているようにみえても、つきつめたところは自分ひとりだ、誰の助力も、どんな支えも役には立たない、しんそこ自分ひとりなんだ」

「おれは自分にできる限りのことをした」と冲也はまた云います。
「自分の力でできる精いっぱいのことをした、それがこんなことになってしまった、こんなみじめなざまに、――どうしてだ、どこで間違ったんだ、おれのどこがいけなかったんだ」

「男が自分の仕事にいのちを賭けるということは、他人の仕事を否定することではなく、どんな障害があっても屈せず、また、そのときの流行に支配されることなく、自分の信じた道を守りとおしてゆくことなんだ」

おけいは江戸にいるお京へ急飛脚をの手紙を出します。冲也の容態が非常に悪くなってきたからです。夜半ごろ、おけいがまだ寝床へ入る前に、名を呼ばれたように思います。いってみると、冲也は眼を大きくみはり口を開けて囁いています。
「なにかおっしゃって、」
「ああ、」といって眼が一点に向けられたまま動かなくなります。

冲也が亡くなって三日目、お京と冲也の弟子、常磐津由太夫が遺骸を引き取りにやってきます。その宿でお京とおけいが対面します。おけいは冲也の浄瑠璃に対する凄まじい執念と意志、どんなことであろうと本気でやろうとしたこと、人のおもわくなんぞ気にせず生き抜いてきた冲也を尊敬してきました。
「苦労したのね」
「できないことだわ、あたしなんかその半分もできやしないわ、、」お京がおけいに云います。
「なにか遺言のようなものはなかったかしら、、」
おけいはちょっと考えて、立ち上がって三味線をとり、調子をあわせながら遺言というのではないが、と断ってから唄いだします。
「いい唄だわ、」
「、、でもこうなってみると、しょせんうちの人は端唄作者だったのね」
おけいは口をあけ、眼をみはります。
「失礼ですが、、」とおけいは感情を抑えます。

お京は長旅で疲れたと云って宿に戻ります。おけいは遺骸に向かった座り直します。
「、、、いまのお京さんの云ったことをお聞きになりましたか、しょせんあなたは端唄作者だって、」
「ひどい、あんまりだわ、あなた、あんまりじゃありませんか」
冲也の死顔の目尻から涙のようなものが一筋、糸をひいたようにしたたり落ちます。

心に残る一冊 その135 「虚空遍歴」 その六 自分の浄瑠璃に絶望したことはない

江戸における興業の後ろ盾になろうとした妻、お京の親の援助も退けて、作品の価値だけで認められる自立した浄瑠璃作家になることを目指す中藤冲也です。依怙地なくらいに作品の独自性を求め、江戸を離れて大坂、金沢と、各地を転々とします。さすらう女「おけい」の献身的な介護があります。どこの土地でも認められることのない遍歴を続けます。

大坂にでて片岡仁左衛門という役者から、金沢でなら冲也の江戸浄瑠璃を上演してくれるのではと言われます。そして口入れ屋の仲山新平という者へのことづけての手紙を受取り金沢に向かいます。苦難の末、冲也は単身、金沢に着きます。口入れ屋仲山新平に会おうとします。何日も待たされて冲也は不安にかられ、四日間酒を飲み続けます。新平に会う当日はろれつさえ回らず、からだの自由さえききません。設けられた席でも、ろくに三味線も弾けず皆の笑いものになって玄関から放り出されてしまうありさまです。

そこへおけいが追ってきて、大坂に帰ろうと勧めます。だがもう彼には帰る場所はない状態です。ですが二人で雪の北陸路を大坂に向かいますが、途中で冲也は今庄という小さな町の旅籠で病に倒れます。それを介抱したのはおけいです。おけいは江戸から一緒についてきたもと芸妓です。冲也の端唄を聴いて自分が変身するような経験をして冲也の芸に傾倒し、兄妹のように尽くすのです。宿では別々に寝て、食事ではお京の陰膳をすえるような女でありました。

冲也は自分を鼓舞するかのように、自分の遍歴や放蕩じみた旅を次のように振り返ります。
「たいていの人間が、一生にいちどは放蕩にとらわれるものだ。同時に、その大部分の者がそこからぬけだし、ちょうど病気の恢復したあと、しばしば以前よりも健康になる例があるように、放蕩の経験のない者よりもはるかにしっかりした、堅実な人間になる場合が少なくない」

おけいの看病を受けながら大坂に戻ろうとしますが、病床で冲也は呟きます。
「こうしてはいられない」
「おれはこんなことをしてはいられないんだ」

暫くして、また冲也は囁きます。
「このままでは死にきれないんだがなあ」
「男が自分の仕事にいのちを賭けるということは、他人の仕事を否定することではなく、どんな障害にあっても屈せず、また、そのときの流行に支配されることなく、自分の信じた道を守りとおしてゆくことなんだ」

心に残る一冊 その134 「虚空遍歴」 その六 おけい

あるとき、冲也は箱根の気賀湯という湯治場にでかけ仕事をしようとします。そこにある藤屋という宿に泊まります。藤屋は大きな構えで平屋造ながら座敷も多い宿です。母屋と離れがあり、その庭に山から引いた水が溢れています。

宿にあがって三味線を取り出し調子を合わせ、静かに爪だきでふしをたどり始めます。五節ほどひいて、あとへ戻りまた初めからやり直します。今度は六節まで進み、その六節目を弾き直したのでまた元からやり直します。五節から六節めにかかると手がぴたりと停まってしまいます。
「くそっ、、」

そのとき、外で口三味線が聞こえます。彼は全身を硬くし、眼をつむったまま外からきこえてくるその口三味線の声に耳をすませます。自分の中の扉が開き、そこから広く伸びる自由な空間が見えるように感じます。彼は注意深く、そのふしを頭の中でためしてから三味線の糸に当ててみます。
「これだ、、」彼は昂奮します。
「これだ、これだ、これが捜していたふしだ、これで間違いなく伸びるぞ、、、」

冲也は三味線を下に置いて立ち窓の所へ行って障子をあけます。
庭には一人の女が立っています。
「失礼ですが、」冲也は窓から呼びかけます。
「いまの口三味線はあなたでしか、、」
女は傘の中でそっと頭を下げます。

「いまそちらへゆきます」と冲也は云います。
「ここで詳しいことは申せませんが、、いまのあなたの口三味線でひじょうに助かりました」
「失礼ですがあれはなにかの唄にあるふしですか、」
「ええ、、」
「綾瀬の月という端唄のかえ手です」
「綾瀬の月、、、端唄ですって、」

「あなたの三味線を聞いているうちに思い出して、つい知らず口から出てしまったんです」
「ご堪忍して下さいまし、」

この女は「おけい」という芸妓で、さる老旗本の囲い者のようです。おけいは芸者の頃から江戸で冲也節に惹かれていた女でした。箱根での出会いは運命的なものと冲也も感じたのですが、旗本に嫉妬されて、その家来から冲也は執拗に命を狙われることになります。

心に残る一冊 その133 「虚空遍歴」 その五 ”書物からまなぶ学問ではなく”

「虚空遍歴」の五回目です。浄瑠璃の台本作者、中島酒竹が冲也の家に夜遅くやってきます。酒竹は冲也のために台本を創作しています。二人は仕事仲間であり、ずけずけとものを言い合える仲です。
「このうちはあたたかすぎる」酒竹が云います。
「すきま風もはいらない、あたたかくて、穏やかで、いつも平穏無事で、心配事や不安などのかけらもない」
「酔っぱらいのくだを聞く暇もないぜ」
「ご新造さん、酒をたのみます」
酒竹は持っていた空の徳利を、トンと膳の上におき、冲也の顔を不審そうにみます。

  襖をあけてお京がはいってきます。勘徳利が二本、つまみものをいれた小さな鉢が皿にのっています。お京はいつものおっとりした笑顔で主が酒を飲まないため、接待がちぐはぐになって申し訳ない、と挨拶します。
「おかしなやつだ、」と冲也は云います。
「おまえは酒さえあればなんにもいらないようだな、もっとしごとに必要な勉強をしなくてはだめじゃないか」

「私に必要なのは」と酒竹は云います。
「書物からまなぶ学問ではなく、生きた人間と、その生活です」
「人間と生活と、それをとり巻く世間それが私の勉強の対象ですよ」

「人間のぶつかる悲劇や喜劇は、なまのままでは役にたたない、それを一度分解し、どこにしんの問題があるかをみきわめて、正しく組み直すことが必要だし、それにはまず学問をして、謝りのない観察眼や判断力を養わなければならないだろう」冲也は云います。

「私は誤ることを怖れませんね、悲劇も喜劇もなまのままで受け入れます」酒竹は手酌で飲みながら云います。
「いくら学問に精を出し、博学多識になったところで、人間の観察眼や判断力なんぞたかが知れたもんです」
「たとえば、ここである男が盗みをはたらいたとしますね」
「それを理性あるあたまで多くの判例を比較参照し、法律や常識論から詳しく検討して、その罪を裁くことはできるでしょうが、その男の内部を理解することはできない、、私が知りたいのは、その男の盗みがいかなる罪に値するかではなく、どうして盗みをしなければならなかったか、盗みをする気持ちはどんなだったか、ということです」
「これには学問も理性もいらない」酒竹はすぐ続けます。
「、、、ただその男といっしょに酒を飲む、いっしょに酔っぱらえばいいんですよ」

心に残る一冊 その132 「虚空遍歴」 その四 上方訛り

「虚空遍歴」には、中藤冲也の人格の形成や芸の発展にさまざまな影響を与える人物が登場します。まずはおけいです。冲也に対して唯一無二の理解を示し、彼に通じる特別な人物として描かれています。芸妓であり囲われ女なのですが、冲也の端唄を聴いて自分が変身するような経験をします。彼女が思い遣る視線や立ち居振る舞いによって、冲也の生き方が辛さにおいて一層引き立っていきます。冲也の理解者でありつつ、冲也に温かい感情の目線を与えることで、その献身さが魅力的に描かれます。

お京は冲也の妻で幼なじみです。料理茶屋「岡本」の娘で、冲也の芸を信じ彼の仕事にいっさい口をはさまぬ、彼の芸への情熱を信頼する忠実な女性です。

常磐津由太夫は本名幸次郎。常磐津を出て、冲也を弟子として〝冲也ぶし〟を教えていきます。常磐津繁太夫は冲也の兄弟子です。冲也に芸事、仕草、生活態度などにいろいろな忠告をし、冲也の成長に期待する人物です。

  中村勘三郎という芝居座元がいます。彼は江戸生まれで上方育ちです。座元は、どんな芝居をするか、誰に出演させるか、資金はどれくらいかかるか、などの総取締役です。冲也は、自分の浄瑠璃で中村座の舞台に立ちたいと考えています。それには勘三郎のような後ろ盾が必要なのです。

中島酒竹という浄瑠璃の台本作者が冲也と会話しています。冲也の浄瑠璃の台本を創作してきた男です。
「勘三郎はどこの生まれだ?」
「育ちが上方か、、」
「江戸生まれの江戸育ちですよ」酒竹が云います。
「なぜです?」
「上方訛りで饒舌ってた、初めて訊いたように思うが、今日は妙な上方訛りを使ってたぜ」と冲也が云います。
「ああ、あれですか、あれはしょうばいですよ」
「しょうばいとは?」
「つまりこうです、しょうばいをするときに、それもうまく纏める商談のときは、上方の言葉のほうがやわらかくていい、」
「江戸弁ははっきりしているから、纏まるはなしもこわれてしまうってね」
「いやならよしゃがれ、と云うよりも、あきまへんか、」酒竹は上方弁をまねます。
「そう云わんと、もう一つ思い直しとくんなはれいな、わてもしょうばいやよってな、辛うおまっせ、といったふうに云うほうが、はるかに事が荒立ちませんからね」

心に残る一冊  その131 「虚空遍歴」 その三 義太夫節

義太夫節の成立以前、浄瑠璃は古浄瑠璃と呼ばれていたようです。1684年ごろ、後に筑後掾となる竹本義太夫が道頓堀に竹本座を開設して義太夫節を広めるとともに、その後は浄瑠璃に新たな時代が訪れたといわれます。

名作者近松門左衛門と結びつくことによって、戯曲の文学的な成熟と詞章が洗練されていきます。義太夫節と人形浄瑠璃という新しい様式は、上方の人々から熱狂的な支持を受ます。こうして義太夫節と人形浄瑠璃は充分に芸術性が高くなったといわれます。義太夫節はそれ以前の古浄瑠璃を圧倒することになります。

古浄瑠璃時代には語り手の名を付して何某節と呼ばれていたようです。それがひとつの様式として後代に受け継がれる性格のものではなかったようです。ですが義太夫節にいたってはそのあまりに完璧な内容のために、「義太夫節」という流儀名が竹本義太夫死後もひとつの様式の名前として用いられ続けました。それが今日まで残っています。

義太夫節の特徴は「歌う」要素を極端に排して、「語り」における叙事性と重厚さを極限まで追求したところにあるようです。太夫と三味線によって作りあげられる間の緊迫、言葉や音づかいに対する意識、一曲のドラマを「語り」によって立体的に描きあげる構成力に特徴があります。そのいずれをとっても義太夫が浄瑠璃界に遺した功績は大きいといわれています。

他方、このころ竹本義太夫と同期の都太夫一中は京で一中節を創始し、その弟子宮古路豊後掾がさらに豊後節へと改めて、1734年これを江戸にもたらします。豊後節の特徴は義太夫節の豪壮な性格とは対照的に、一中節の上品な性格を生かしたやわらかで艶っぽい語り口にあり、江戸において歌舞伎の劇付随音楽として用いられたため、またたく間に大流行したといわれます。その人気は、心中ものの芝居にさかんに用いられたために江戸で心中が横行し、風俗紊乱を理由に豊後節が禁止されます。それだけ豊後節は話題を醸したということでしょう。

心に残る一冊  その130 「虚空遍歴」 その二 浄瑠璃

「虚空遍歴」で主人公が中藤冲也が浄瑠璃の新たな姿を追い求めた遍歴に入るまえに、「日本文化いろは事典」や「ジャポニカ 大日本百科事典」などを参照しながら、浄瑠璃とはなんぞやを考えていきます。以前、友人に連れられて大阪は日本橋にある国立文楽劇場で初めて文楽を鑑賞したときの印象も交えます。文楽劇場の座席正面右に出語り床があり、肩衣を着用する大夫という語り手と三味線弾が坐ります。見台には床本があります。

浄瑠璃は劇中の人物のセリフやその仕草、演技の描写をも含み、語り口が叙事的な響きをを持ちます。このため浄瑠璃を演じることは「歌う」ではなく「語る」と言います。浄瑠璃系統の音曲をまとめて語り物と呼ばれます。

中世以来の諸音典を綜合した語り物の総称が浄瑠璃です。初めは素朴な音楽的物語で、伴奏には扇拍子や琵琶が用いられました。やがて三味線が伴奏楽器となり、太夫が詞章を語る音曲・劇場音楽となっていきます。さらに操り人形も加わり独特の語り物による楽劇形態として完成していきます。

こうした諸芸能が統合され、近松門左衛門の詞章で、豪快華麗な曲節が特徴である義太夫節によって舞台の人形が操られるとき浄瑠璃は近世的、庶民的性格をもつ音楽、文学、演劇の融合芸能として発展します。

ところで、「浄瑠璃」という名称の出所です。16世紀の室町時代、誕生した語り物の中に、牛若丸と浄瑠璃姫のロマンスを題材にした物語があり、人気を集めたといわれます。岡崎の地で、牛若丸と浄瑠璃姫が出合い、お互いに恋い焦がれ、惹かれあうものの、揺れ動く時代の中で悲恋の結末となるのが「浄瑠璃姫物語」です。

心に残る一冊 その その129 「虚空遍歴」 その一 中藤冲也

昭和36年3月から翌々年2月まで『小説新潮』に掲載された山本周五郎の代表作の一つといわれるものです。題名にある「虚空」とはサンスクリット語で、空間とか大地、インド哲学では万物が存在する空間、広大無辺、永遠、清浄、超越という意味だそうです。絶対者、真理との概念で結びつけられるといわれています。

「虚空遍歴」の主人公は中藤冲也という旗本の二男です。侍を捨て芸人として生きる道を選ぶのです。端唄で人気を得ますが、それに満足せず浄瑠璃作りから〝冲也ぶし〟を生みだそうと苦闘するのです。江戸で端唄の名人と評判がたった若き冲也が、そういう浮名がたつほどの人気にもかかわらず、それに満足できずに自分を嫌悪し、あえて本格的な浄瑠璃をつくろうとして苦悶する遍歴が克明に描かれる作品です。

  「ジャポニカ大日本百科事典」によりますと端唄は、江戸時代中期以降における短い歌謡の総称といわれます。大正半ばまでは小唄も端唄の名で呼ばれていたようです。その後端唄・小唄俗曲とはっきりと区別されるようになります。

才能のある冲也による浄瑠璃の第一作が、江戸町奉行所によって歌舞伎興行を許された芝居小屋、中村座にかかって好評を博します。しかし冲也はこれにも満足できずにしだいに行き詰まっていきます。周囲では「あれは金の力だ」といった噂がたてられ、冲也はそれに潔癖に対峙してしまうのです。師匠の常磐津文字太夫からも離れてしまいます。

「才能のある人間が新しい芸を創りだすのは、古い芸にかじりついているよりよっぽど本筋だ、世間なみの義理や人情のために、創りだせるものを殺しちまうとすればそれは本当の芸人じゃあねえ、本当の芸っていうものはな、・・・ときには師匠の芸を殺しさえするもんだぜ」

こうして冲也はあてどもない浄瑠璃遍歴に旅立っていきます。江戸から東海道を上り、京都へ、近江へ、さらに金沢へと変転します。その流浪に冲也に惚れる「おけい」という女がかかわって、独白の挿入が入ってきます。長い独り言です。おけいはもともとは色街育ちなのですが、冲也の芸を聞きかれの歌いに傾倒し世話をする女性です。