心に残る一冊 その その129 「虚空遍歴」 その一 中藤冲也

昭和36年3月から翌々年2月まで『小説新潮』に掲載された山本周五郎の代表作の一つといわれるものです。題名にある「虚空」とはサンスクリット語で、空間とか大地、インド哲学では万物が存在する空間、広大無辺、永遠、清浄、超越という意味だそうです。絶対者、真理との概念で結びつけられるといわれています。

「虚空遍歴」の主人公は中藤冲也という旗本の二男です。侍を捨て芸人として生きる道を選ぶのです。端唄で人気を得ますが、それに満足せず浄瑠璃作りから〝冲也ぶし〟を生みだそうと苦闘するのです。江戸で端唄の名人と評判がたった若き冲也が、そういう浮名がたつほどの人気にもかかわらず、それに満足できずに自分を嫌悪し、あえて本格的な浄瑠璃をつくろうとして苦悶する遍歴が克明に描かれる作品です。

  「ジャポニカ大日本百科事典」によりますと端唄は、江戸時代中期以降における短い歌謡の総称といわれます。大正半ばまでは小唄も端唄の名で呼ばれていたようです。その後端唄・小唄俗曲とはっきりと区別されるようになります。

才能のある冲也による浄瑠璃の第一作が、江戸町奉行所によって歌舞伎興行を許された芝居小屋、中村座にかかって好評を博します。しかし冲也はこれにも満足できずにしだいに行き詰まっていきます。周囲では「あれは金の力だ」といった噂がたてられ、冲也はそれに潔癖に対峙してしまうのです。師匠の常磐津文字太夫からも離れてしまいます。

「才能のある人間が新しい芸を創りだすのは、古い芸にかじりついているよりよっぽど本筋だ、世間なみの義理や人情のために、創りだせるものを殺しちまうとすればそれは本当の芸人じゃあねえ、本当の芸っていうものはな、・・・ときには師匠の芸を殺しさえするもんだぜ」

こうして冲也はあてどもない浄瑠璃遍歴に旅立っていきます。江戸から東海道を上り、京都へ、近江へ、さらに金沢へと変転します。その流浪に冲也に惚れる「おけい」という女がかかわって、独白の挿入が入ってきます。長い独り言です。おけいはもともとは色街育ちなのですが、冲也の芸を聞きかれの歌いに傾倒し世話をする女性です。