北海道とスコットランド Intermission NO1

シリーズもこれから佳境に入る。その前にちょっと珈琲タイムとしたい。

スコットランドへはまだ行ったことがない。だが、こうしてブログの話題にするのは、筆者が北海道育ちだからだと思っている。それは、この二つの地にはどこか共通点があることを「スコットランド文化事典」から学んでいるからである。この本は写真や図版が多く、読んで楽しめる。

人はその土地に住まなくとも、少なくとも想像力をかき立てられるものだ。不思議なことに、知らぬ土地のことについての活字や写真や音楽に触れることによって、それまで自分が育ってきた風土と重ね合わすことができる。そして未知の土地に対する想いと憧れがわいてくる。

小さいときから音楽という文化に触れたことも幸いしている。スコットランド民謡もそうである。アニー・ローリー、マイボニー、アフトンの流れ、ロッホ・ローモンドなど。どれも郷愁に満ちた旋律である。口ずさむとどこでいつ歌ったのかを想い出すことができるから不思議だ。

スコットランドの隣にあるアイルランドからも学ぶものがあった。それは自分の父親とつながっている。国鉄を退職後は、読書の虫であった。青年時代に読むことがなかった作品をもっぱら読んでいた。その中にジェイムス・ジョイス(James Joyce) の「ユリシーズ(Ulysses) 」がある。「何度読んでもわからない、、」と呟いていた。トルストイ(Lev Nikolayevich Tolstoy)の「戦争と平和(War and Peace)」もそう言っていた。小生は、スウィフト(Jonathan Swift)の「ガリヴァー旅行記(Gulliver’s Travels)」といった作品しか知らない。小人に取り巻かれたガリヴァーの冒険物語である。

ジョイスはアイリッシュであった。アイルランドの歴史はイングランドとの宗教や政治の複雑な経緯でもある。1100年代からのイングランドによる植民地化である。経済や貿易の中心がロンドンへと移りアイルランド経済は疲弊していく。ジャガイモ飢饉も起こる。そして北米大陸への移民によって人口が減少する。カトリック教徒が占めるアイルランド民族主義者とプロテスタント教徒が占める連合主義者との対立がたびたび激化する。この北アイルランド紛争は1998年まで続く。

小さい頃学んだ地理や人物、簡単な歴史の追体験が、やがてなんらかのことで蘇ってくるようなできごとに出会う。スコットランドやアイルランドは、司馬遼太郎の「街道をゆく」を読んで「かんかーん」と響いてきた。何故か身近な国のような気がした。

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北海道とスコットランド その4 スコットランド人と日本のかかわり その2

前回、スコットランドの大学では多くの技術が実用化され、はやがて産業革命の中心地としての地位を確立していくことを簡単に述べた。実学を重視したのは、イングランドの中心、オックスフォード大学(University of Oxford)やケンブリッジ大学(University of Cambridge)との違いを強調したためかもしれないことも述べた。

全世界の産業革命の先駆的なこととして日本の教科書にでてくるのは、蒸気機関の発明である。それは工場や機関車に応用された。その発明家ジェームズ・ワット(James Watt)は、グラスゴー大学(University of Glasgow)で機械工学を学び、その後技術者として知られ産業革命の進展に多大な貢献をした。

同じく教科書に登場したスコットランド人にアレクサンダー・フレミング(Alexander Fleming)がいる。彼は細菌学者としてアオカビから抽出した世界初の抗生物質、ペニシリンの発見者として知られている。その功績で卿(Sir)の称号を与えられた。

グラハム・ベル(Alexander Graham Bell)も我々には記憶に残る人物だ。スコットランド生まれの科学者で発明家である。世界初の実用的電話器の発明で知られている。Wikipediaによれば彼は1876年のフィラデルフィアでの万国博覧会で電話を公開して国際的注目を集めたといわれる。ベルの父はマサチューセッツ州ボストンのボストン聾学校、現在のHorace Mann School for the Deafのインストラクターとして手話を教えてほしいと頼まれた。だがその申し出を辞退して代わりに息子のグラハムを推薦したといわれる。

多くのスコットランド人が1800年代に北アメリカ大陸に渡っていった。アメリカの鉄鋼王と呼ばれたアンドリュ・カーネギー(Andrew Carnegie)もスコットランド人である。1848年に両親と共にアメリカに移住した。カーネギーはU.S. スティール会社(U.S. Steel Corporation)などを創設し莫大な資産を残す。それを基金としてカーネギーメロン大学(Carnegie Mellon University)、世界の音楽の殿堂といわれるニューヨークのカーネギーホール(Carnegie Hall)などの建設に使った。偉大な篤志家ともいわれる。

第13代将軍徳川家定に電話機をプレゼントしたのがアメリカ海軍提督のマシュー・ペリー(Matthew Perry)である。彼もスコットランド系である。

前述したが、スコットランドの厳しい経済や自然が移民を促した。多くのスコットランド人が北米大陸に渡る。スコットランド移民がつくったカナダの小さな州がノバ・スコシア州(Nova Scotia)である。ラテン語でNew Scotlandという意味である。New Englandの隣というか、北の方角の大西洋に面している州だ。
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北海道とスコットランド その3 スコットランド人と日本のかかわり その1

明治政府は、いわゆるお雇い外国人を招いて富国強兵のために貢献してもらおうとした。その中にスコットランド人が多かったことも判明している。北海道開拓使もスコットランド系のアメリカ人を雇った。それは何故だったかが筆者の関心事である。それにはスコットランドの地理、気候、風土、歴史を調べることがどうしても必要のようだ。

今はテレビや新聞でスコットランドの歴史や政治が頻繁に報道され、我々に身近な地となっている。通称イギリス(UK)は、United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland(UK)のことである。スコットランドはUKの一部である。だがスコットランドは独特の歴史を有する。

スコットランドはブリテン島の北部に位置する。スコットランドの名称は、この地を統一したスコット人(Scots)に由来する。グレートブリテン王国(Kingdom of Great Britain)が成立するまでは独立したスコットランド王国であった。イスコットランド王国のイングランド王国との争いは長く続いたようだ。13世紀から14世紀にかけて両国間の緊張を象徴するスコットランド独立戦争が起こった。それから何百年も経ち、去る9月18日のイギリスからの独立の賛否を問うたスコットランドの住民投票もその延長にある。

スコットランドはグレートブリテン島の北部3分の1を占め、南部でイングランド国境に接する。東方に北海、北西方向は大西洋、南西方向はノース海峡およびアイリッシュ海に接する。自然環境も経済環境も厳しいことが察せられる。気候や風土は北海道に似ているようである。

スコットランド人(Scots)の気質としては、独創性、独自性が豊かだといわれる。それを起業精神につなげる識者もいる。スコットランドの自然と経済環境の厳しさにも由来するとされる。1701年にイングランド王国に併合されると、スコットランド人の就労の機会は先進地域のイングラントや海外への植民地へと向かっていく。

スコットランドの高等教育機関では、主に農業、工業、土木、獣医学、医学などの実学が重要視された。その理由は、イングランドにあるオックスフォード大学(University of Oxford)やケンブリッジ大学(University of Cambridge)などは、官僚を養成することを重視したことによる。スコットランドは「大英帝国の工場」と呼ばれた時期もあったようである。今も鉄道、鉄鋼、機械、石炭、畜産、綿織、海運、造船などが盛んである。

理論を実践に移し、ものづくりに傾注することの重要性を深く認識していたようだ。多くの技術が実用化され、スコットランドはやがて産業革命の中心地としての地位を確立していく。

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北海道とスコットランド その2 民謡

網走郡美幌町の美幌小学校では文部省唱歌を歌った。教科書はすべて唱歌ではなかったかと思えるほどである。明治43年「尋常小学読本唱歌」というのが最初の音楽の教科書らしい。文部省が編集したものを唱歌というようである。

なぜ小生が歌に関心を向けたかは、小さなリードオルガンを弾く先生に小学校で教わったからだ。「故郷の空」、「麦畑」、「蛍の光」を歌った。こうした歌からスコットランド(Scotland)を意識することはなかったが、やがてスコットランドという地名だけは、終生記憶から消えることはなかった。

文部省唱歌にスコットランド民謡が取り入れられた理由はわからない。だが、センチメンタルな歌詞とともに日本人の琴線に触れるような旋律(melogy)が日本人に受け入れられたと思われる。

スコットランド民謡の「故郷の空」の旋律には、長音階のド(C)から四つ目のファ(F)と七つ目のシ(H)の音はでてこない。いわゆる「ヨナ抜き」という特徴である。ドレミファソラシは楽譜では「CDEFGAH」と書いたり読んだりする。ドイツ語読みが多い。「ヨナ抜き」では「CDEGA」となる。

後年、琉球に住むことになったが、琉球民謡というのか島唄というのが、独特の旋律であることに気がついた。それは、旋律が「ヨナ抜き」ならぬ「ニロ抜き」なのである。長音階の二番目のレと六番目のラが抜かれるので「ニロ抜き」なのである。「ニロ抜き」は「CEFGH」である。「てぃんさぐの花」を是非聴いて欲しい。歌詞も味わいがある。

筆者は音楽はずぶの素人であるが、唱歌や民謡は大好きだ。叙情歌しか教科書に載っていなかった教科書のお陰か。スコットランド民謡のような旅情に富む歌、島唄のような哀愁を帯びた曲に出会ったことは幸いなことだと思っている。

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北海道とスコットランド その1 余市とニッカ

私は樺太生まれ。育ちは北海道であるから、自分では一応道産子と呼んでいる。最も長く暮らしたところは美幌とサッポロである。

秋を迎えると北海道に自然の厳しさの前触れが訪れる。どんよりとした曇り空。気温は日に日に下がっていく。そして冬支度が始まる。大根干しや漬け物づくり、石炭やストーブの用意、野菜の台所にある土間への収納や庭への埋め込み作業である。山葡萄を一升瓶につけ、ジュースやワインをつくる。木箱にいれたリンゴも凍らないように土間に貯蔵する。今となっては懐かしい風物詩だ。

リンゴといえば小樽の西にある余市という寒村を想い出す。積丹半島の付け根に位置する。とりたてて特徴があるわけではない。かつてはニシン漁で栄えたが、人口は年々減り続け、高校を卒業するとサッポロを目指していく。余市は漁業のほか、果樹の栽培が盛んなところである。リンゴも梨もとれる。しかし、なんといっても余市を全国に知らしめたのがニッカウヰスキーである。敷地に入るトンガリ屋根の楚々としたウイスキーの貯蔵庫が建っている。

最近とみに余市が脚光を浴びるようになってきた。NHKの朝ドラ「マッサン」である。主人公は、ニッカウヰスキーの創業者であり、「日本のウイスキーの父」と呼ばれている竹鶴政孝、その妻である竹鶴リタ(Rita Taketsuru)が主人公である。

竹鶴は後に大阪大学となる大阪高等工業学校の醸造学科で学ぶ。1918年(大正7年)にスコットランド(Scotland)のグラスゴー大学(University of Glasgow)に留学し、有機化学を勉強する。1920年にリタ(Jessie Roberta Cowan)と結婚する。帰国後、寿屋、後のサントリーに入社しウイスキーの製造に従事する。

1934年、昭和9年に竹鶴は寿屋を退社し、同年ウイスキーづくりの理想郷と考えた余市に「大日本果汁株式会社」をつくる。その後名称をニッカ(日果)ウヰスキーとした。スコットランドに似た風土の北海道の余市を選んだのは竹鶴の慧眼によるものだ。

暫く、私と余市、サッポロ、スコットランドを話題としてみる。

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