旅のエピソード その33 「塾の加熱ぶり」

韓国の受験対策は、日本からすると尋常ではないほど過熱しているようにみえます。このブログで登場しているソウル在住のユ・キム夫妻の娘さん、名前はキリヨン(키리욘)の受験生活を紹介することにします。キリヨンはかつて兵庫教育大学附属小学校に一年間勉強したことがあります。キム氏が同大の客員研究員として滞在していたときです。彼女はそのため日本語が達者で、日本語検定試験の3級に合格しています。

彼女はソウル市内の公立の高校で学びました。普段は3時まで学校で授業を受けます。一度家に帰り、一時間くらいの午睡をとりそれからお手伝いさんの作る夕食を食べます。そして塾(アカデミー)に迎えのバスで通います。授業は10時まで続きます。平日はこのような日課なのですが、土曜日と日曜日は午前中、時に午後も塾に通います。夜10時頃になると、塾の前は沢山の送迎バスが並びます。

韓国はご存じ、日本以上に学歴社会の国です。中国の科挙の影響です。科挙は、中国の6世紀頃から始まった高級官僚の登用試験です。ヨーロッパでは、貴族の世襲が当たり前だったの対して、中国は優秀であれば官僚になれたのです。その点では誰もが官僚になれる優れた制度だったようです。韓国人から「どんな大学をでましたか?」と何度も聞かれたことがあります。どの大学を卒業したかによって、わたしの能力を確かめるのですね。

さて韓国の受験の仕組みですが、まずは大学修学能力試験(수능-スヌン)というセンター試験のようなものがあります。韓国ではどの大学に入れるかはスヌンの成績で決まります。内申書および2次試験と合わせて総合評価をしますが、大学修学能力試験が最大の比重を占めるのです。スヌンが終わると国公立、私立、一つずつ受けることがでます。スヌンは入学前年11月中の木曜日に設定されて1日で終わります。一時、慶応大学への留学も考えていたキム夫妻のキリヨンですが、結局韓国外国語大学校に入学し、日本語や英語に磨きをかけたようです。

旅のエピソード その32 「宮廷料理と失敗」

またまた、銀行の重役をしている柳(유-ユ)さんとの話題です。奥様は何度も紹介していますが、大邱教育大学校の英語学のキム・ヨンスク(김영숙) 教授です。

いつか宮廷料理を一度試食したいと思っておりました。「チャングムの誓い」(대장금)をずっと観ていた影響もあります。宮廷料理はこの韓国ドラマでしばしばてきました。水剌間(수라간-スラッカン)で女官のチャングムが卓越した料理の腕を振るうという話しです。水剌間とは厨房のことです。そして私がユさんに、主演女優のイ・ヨンエ(이영애-李英愛)氏に会いたいのでアポをとってもらえないだろうか、という難題を出しました。彼は苦笑いをしていました。

そんなこともあってかソウル滞在中、ユ・キム夫妻に宮廷料理に招待されました。ヨンスーサン(영스산) というレストランです。光化門駅から徒歩5分位のところにあります。チラシには、韓國の料理の古來の正味と伝統を受け継いでいるとあります。ユさんは一番高いコースの14品とデザートがついた定食を注文しました。 一人150,000ウォン、14,000円位だったはずです。

ご存じの通り、韓国料理では器を手に持って食しません。テーブルに並ぶ品を皆で手を伸ばしていただきます。はじめの内は違和感があるかもしれません。手で直接掴んだり、ペチャクチャと音を立てるのは不作法とされています。

後でわかったのですが、私はこの席で失敗をしてしまいました。食事のペースは、年配者に合わせることを知らなかったのです。ユさんが先に食事をし終わったのですが、私は食事を続けたのです。年配者が食事を終えたら、その時点で食事を終わるというのがマナーだというのです。私のほうが年配なのですが、ユさん私の「先輩」であり「ホスト」なので彼の動作に沿うべきでした。韓国では、ホストの所作を観察しながら食べるのが大事なようです。

旅のエピソード その30 「南山公園でのバトミントン」

大邱教育大学校のキム・ヨンスク教授のご主人柳(ユ)さんは銀行の重役をしています。重役室に招かれると客がいて、紹介されました。その方に私が「ユよさんは私の先輩です」といいますと、「先輩」という言葉は最近あまりきかなくなった」、というのです。私は親しみを込めて重役のユさんを先輩と呼びます。ハングルの発音も「ソンペ」(선배 )です。

韓国語(-朝鮮語)には、固有語と漢字語があります。漢語(한자) の使用頻度はあまり高くなく、通常はハングル (한글) のみで表記され、今の韓国では漢字語のみに漢字が使われるようです。1970年から始まった漢字廃止政策の結果だといわれています。ちなみに、ハングルのハンは偉大な、クルは文字という意味です。我が国のひらがな、カタカナにあたります。

ユさんはスポーツが好きです。朝、ソウル市民の憩いの場、南山公園(ナムサンコンウォン–남산공원 )に案内してくれました。ソウルのランドマーク、ソウルタワーもここにあります。南山公園を楽しめるハイキングルートはいくつかあります。

そこをユさんと一緒に20分ほど走りましたが、大柄なユさんについて行くのは大変でした。公園の一角にバトミントンをするグループがいまして、ユさんがそこにも案内してくれました。一緒にやろうというのです。彼はこの同好会に入っていて、毎週仲間とやるのだそうです。会員は40代から50代の人です。

しばらくすると鍋が運ばれてきて、チゲ(찌개)が振る舞われます。当番になった仲間が作ってくるそうです。「たくさん食べてください」 と声をかけられて嬉しくなりました。汗をかいたあとのチゲは格別です。味がよいのです。スポーツは韓国でも中年以上の人々にも浸透していることを感じたものです。

旅のエピソード その29 「カメラの置き忘れ」

ソウル(서울)の北70キロくらいのところに1992年に開館した烏頭山(オドゥ山)統一展望台(오두산 통일전망대) があります。臨津江(イムジン川-이무진강 )を隔てて北朝鮮と向かい合っています。板門店-판문점 や非武装地帯 (DMZ) とは異なり、外国からの観光客も韓国人も自由に訪ねることができます。この展望台は、漢江(ハンガ-한강 )と臨津江が合流する地点にあり、北朝鮮の農村地帯を展望することができます。ここを2度訪ねたのですが、最初は客員研究員でお招きしたソウル教育大学校のチョウ先生、そして2度目は大邱教育大学校のキム先生がそれぞれ案内してくださいました。

統一展望台から見える北朝鮮の農村ですが、かなり立派なアパート群が建ち、公民館、小学校なども見えます。しかし、夜になると電気はつきません。韓国からの脱走者を受け入れる宣伝に造られているのだそうです。望遠鏡で眺めてみましたが、人一人見当たりません。

面白いことに、この展望台の売店では北朝鮮名産の高麗人参酒や北朝鮮の切手、工芸品などのお土産も買うことができます。わずかながら、南北間で貿易も行われていることがわかります。しかし、展望台への道の海側には鉄条網が延々と続き、厳重に警戒されています。そしてところどころに歩哨が立つ小屋があります。

展望台の売店で家内がカメラを手洗いに忘れました。気がついて戻りましたが見あたりません。すぐ数名の警備員に連絡して探してもらいました。先を歩いていたグループの人々を追いかけるのですが、すでにバスは出発したあととのことでした。カメラを紛失し大事な想い出をなくして残念でしたが、親身となってくれた韓国人警備員と触れた旅となりました。お土産を残したと思えばと家内を慰めましたが、、、

旅のエピソード その28 「万里の長城と検閲」

北京と上海にそれぞれ一度行きました。同窓生である留学生のSHさんを頼っての研修旅行です。こうしたコネクションによって、旅は円滑につつがなく進むものです。留学生は富山大学を卒業後、兵庫教育大学院を修了し、広島大学院博士課程を終えた異色の中国人です。今は成都市の大学で教えています。

SHさんですが留学中はあちこちで中国語を教え、生計を支えていました。ご家族とで兵庫県の加西市に住んでいました。中国人の奥様はアパレル関連の会社に入り、社長の秘書として頻繁に北京や上海を行き来していました。ご子息は加西市の小学校に入り、その優秀さは抜きんでていたようです。

北京にいきますとSHさんが空港に迎えにきてくれました。ミニバンをチャーターしてくれてホテルに向かいましたSHさんのお父さんは、かつては中国政府の経済担当の上級公務員であったようです。高度経済成長の最中、日本にたびたびやってきては日本の経済成長の姿を調べていたというのです。鉄鋼会社やその工場をまわり経営の実態をつぶさに視察したそうです。

SHさんのお父さんが我々一行を夕食会に招待してくださいました。紹興酒を何度も酌み交わしました。北京ダックも食卓に並びました。今は引退されて年金で悠々自適の生活を送っていると話されていました。日本での調査のことについてもエピソードを語ってくれました。

翌日、ミニバンに乗って万里の長城へ向かいました。到着すると警察が車を一台一台調べているのです。許可をもらって万里の長城に来たかを調べているのです。そこに日本人学生を乗せた別のミニバンが来ました。その運転手は許可をもらっていなかったようです。多額の罰金を科せられるそうです。SHさんは我々のためにきちんと許可をもらっていたので、なんのお咎めもありませんでした。中国の検閲体制を垣間見た旅でした。

周りに観光客がいないのを見計らい万里の長城の上を、100メートルほど走ってみました。長城のもう一つの思い出といえば素朴なトイレでした。同行していた家内ら女性は面食らったようです。

旅のエピソード その27 「ハワイの日系アメリカ人」

日系アメリカ人の活躍は前々回に少し述べました。ハワイに移民した最初の人々は一世(Issei) 、そして今や四世(Yonsei)から五世(Gosei)へと受け継がれます。ちなみに、こうした単語はすっかり英語として定着しています。

日系アメリカ人は、長い間偏見と差別に苦しみました。そのために生活も苦しかったようです。懸命に働き、教育を大事にし、善良なアメリカ市民になろうと努力しました。ハワイ大学より兵庫教育大学に客員研究として招いたカーティス・ホー(Dr.Curtis Ho)教授は、中国人と日本人との間に生まれた方です。小さな島で育ち、やがて奨学金をもらい本土の大学で学び、研究者となりました。父親は厳しい労働に従事し、稼いだお金を彼の教育のために注いだそうです。

日系人がアメリカ社会での地位を確立するには、「勤勉な働き者」「清潔好き」「礼儀正しい」「約束をきちんと守る」といった矜持の定着が必要でした。こうして日系人は確実に善良な市民としてのイメージをアメリカ社会に定着させていきます。

日系人の活躍です。1963年にダニエル・イノウエ氏(Daniel Inoue) が初の日系上院議員となります。ジョージ・アリヨシ氏(George Ariyoshi) が1974年に第3代ハワイ州知事に就任することで、日系人の地位や役割が不動のものとなります。1978年 エリソン・オニズカ氏(Elison Onizuka) が日系人として初の宇宙飛行士に選ばれます。ですが、乗り込んだチャレンジャー(Challenger) が爆発し亡くなります。1988年には、第40代のロナルド・レーガン(Ronald Reagan)大統領が、大戦中に人種差別政策により日系人を強制収容所に連行した歴史に謝罪し、一人につき2万ドル(約200万円)を補償したのは目新しいことです。

旅のエピソード その26 「マウナ・ケア山とすばる」

ハワイ島は火山の島です。そこには広大な国立公園があり、沢山のハイキングコースがあります。その総延長は150マイルといわれています。230キロくらいでしょうか。今も火山が活発に活動しています。噴火の跡の溶岩(ラーバ)はまだ弾力があって、足の裏に伝わってきます。風で運ばれた種が育ち、あちこちに草木が地面を覆っています。ビジターセンタを訪れると、大噴火のすさまじさが映像と写真で紹介されています。最近の大噴火は1984年に起こりました。

ハイキングコースを歩きますと、噴煙や蒸気が沸き上がっています。歩く途中では、水平線から水平線にまたがる完全な半円形をした虹をみることができます。日本では見られない光景です。

島最大の街ヒロ(Hilo)から四輪駆動のワゴン車を借りて、島の最高峰マウナ・ケア山(Mauna Kea)4200メートルに向かいました。マウナ・ケアの山頂付近は天候が安定し、空気が澄んでいます。晴天日は年間300日にのぼるといわれます。世界11ヶ国の研究機関が合計13基の天文台を設置しています。日本の国立天文台が1999年に設置した光学赤外線望遠鏡の「すばる」もここにあります。天文台からのデータは、山裾にある研究施設に送られ分析されています。

事前に三鷹にある国立天文台から見学許可をもらい、兵庫教育大学の院生らとでこの国立天文台を見学する機会を得ました。中の施設に案内されたのですが、同行した院生には理科の教師がいて、天文台の偉容に圧倒されたようでした。

旅のエピソード その25 「日系アメリカ人の博物館」

1885年1月、最初の日本人移民944人が農業労働者としてハワイに到着します。その後沖縄も含めて各県から多くの日本人がハワイにやってきます。ハワイ島は別名Big Island。ホノルルから飛行機で1時間のところにあるハワイで最大の島です。この島で一番大きな街がヒロ(Hilo)です。ハワイ島もまた日系人が開拓したところといわれています。

ヒロの街の中に日系アメリカ人が建てた小さな日本人センター(Hawaii Japanese Center)があります。人々が持ち寄った貴重な品々、写真などが展示されていて、小さな歴史博物館ともなっています。山本五十六連合艦隊司令官が率いる艦船が寄港したときの写真、第二次世界大戦中、合衆国陸軍に志願し、ヨーロッパ戦線で勲功をあげた日系アメリカ人のみで編成された442連隊のメンバーの写真などが飾られています。

太平洋戦争によって大多数の日系アメリカ人は、アリゾナ州(Arizona)やワシントン州の僻地に建てられた収容所に移されます。442連隊のメンバーもこうした収容所から志願してヨーロッパ戦線に向かいます。戦後、日系アメリカ人はアメリカ社会の中に日本に対する信頼を築く役割を果たします。日系アメリカ人の政治家、実業家などが輩出していきます。その一人が、ハワイ選出の上院議員、ダニエル・イノウエ(Daniel Inoue)です。戦場で負傷して片手を失う経験もします。こうした人々の働きが、高度経済成長期期における日本企業のアメリカ市場への進出に大きく貢献することになります。アメリカの国勢調査によると、日系人の特徴として「高所得」、「高学歴」、「低失業率」、「低貧困率」が挙げられています。このうち所得と学歴については、白人の平均や全米平均よりは明らかに高く、貧困率については全人種の中でも低いといわれています。

博物館の話題に戻ります。ここには歴史のある貴重な本や昔の新聞、写真などがたくさんあります。展示物の中に歴代天皇の写真があります。明治天皇や昭和天皇の写真に混じって、神武天皇の写真もあるのです。日系アメリカ人の日本に対する想いと天皇に対する深い畏敬の念をこの写真から感じたものです。

旅のエピソード その24 「マウントバーノン」

「マウントバーノン」。なんとものんびりする響きです。英語ではMount Vernonというスペルです。全米各地にマウントバーノンという街が沢山ありますが、その中でも最も知られているのが、ワシントンDCの南、車で1時間のバージニア州(Virginia)のアレクサンドリア(Alexandria)にあるマウントバーノンです。

マウントバーノンは、合衆国初代大統領ジョージ・ワシントン(George Washington)の農場(Plantation) や邸宅があります。邸宅は、新古典主義ジョージア調建築様式と呼ばれる木造の建物です。ジョージア調建築とは、建物がシンメトリー(左右対称)を基本としていることです。その東側にはポトマック川 (Potomac River) が控え、周りは広い農場が広がります。いまは国が定めた歴史的建造物として保存され、全米からの観光客が訪れるところです。

マウントバーノンは年中無休。祝日やクリスマスでも開放されています。わたしたちはワシントン家の邸宅、納屋、物置、奴隷用宿舎、台所、厩、温室など見てあることができます。案内人がついています。この農場内の庭園や森の小道を散策することができます。当時は100人あまりの黒人奴隷が働いていて、この農場を開拓したことがわかります。

ここにワシントン夫妻の墓所があります。奴隷の記念碑や墓地もすぐそばにあります。2度目にこの墓所を訪ねたときです。なにか、得体の知れない匂いがこのあたりに漂っていました。もしかして、ワシントンのお墓から、、、などという不遜なことを考えました。実のところ、この匂いは農場に撒いている鶏糞かなにかの腐った匂いなのです。

旅のエピソード その23 「ミニットマンとチップ」

ボストン(Boston) の西20kmにレキシントンとコンコード(Lexington-Concord)という街があります。周りは静かな農村地帯です。この小さな街で1775年の4月に独立戦争(Independence War)における最初の大規模な戦いが植民地軍とイギリス軍とで繰り広げられます。植民地軍は正規の兵士と民兵によって組織されていました。民兵の多くは農民です。農作業や狩猟をしながら、召集されると数分(minute)で駆けつけるというので、ミニットマン(minute man)と呼ばれていました。民兵には狩猟をしていた者が多数いたので、狙撃手としても活躍したようです。

毎年7月4日の独立記念日や夏の週末になると、レキシントンとコンコードのあちこちで観光客を相手にしたツアーがあります。地元の高校生がミニットマンに扮して、観光客をガイドします。こうした高校生は、歴史を学びスピーチの仕方を覚え、やってくる人々をもてなす術を学び観光客に披露します。観光客をいかに話に乗せるか、これが勝負所です。まさにエンターテイナー(entertainer)です。その演技の出来ばえはすぐに表れます。

ミニットマンのスピーチや演技に皆引き込まれていきます。ツアーの最後には、「我々に自由と独立を、そして勝利を!」と皆で絶叫し、かぶっていた帽子をとって観光客の中に回すのです。人々は皆ニコニコして1ドルから10ドル札のチップ(tip)を入れて帰ります。チップを渋る観光客はいません。実に秀逸で飽きを感じさせない、なんとも気持ちの良いツアーです。