懐かしのキネマ その20 七人の侍

1954年に製作された「七人の侍」は、黒澤明が監督した上映時間3時間27分という名画です。後に「日本映画史上空前の超大作」と呼ばれます。アメリカの西部劇映画 「荒野の七人」(The Magnificent Seven)の下敷きとなります。「荒野の七人」は西部開拓時代のメキシコに移して描かれます。

戦国時代後期、戦に敗れた野武士が悪辣な群盗と化します。あちこちの山間に繰り返し出没し、農村を襲撃しては掠奪を欲しいままにしていました。そこで思い余った農民が野武士を撃退すべく、貧しい浪人を雇うことにします。浪人へのご褒美は腹いっぱいの白米を食べさせるという条件です。農民たちは宿場町に出て腕の立ちそうな侍を探し、村の防衛を懇願します。侍探しは難航しますが、才徳にすぐれた勘兵衛という侍に出会います。勘兵衛のもとに個性豊かな七人の侍が集まります。最初は侍を恐れる村人達ですが、いつしか団結して戦いに挑むことになります。

土砂降りの雨の中、野武士との泥まみれになる戦闘は熾烈を極めます。戦闘が終わると七人の侍のうち、四人が討ち死にします。辛くも生き残った勘兵衛ら三人は、小高い丘に並んだ四つの土饅頭の墓を見上げて、「今度もまた、負け戦だったな、勝ったのはあの百姓たちだ、我々ではない」としみじみ呟くのです。主演は三船敏郎と志村喬、その他津島恵子や島崎雪子、東野英治郎、山形勲、左卜全が共演しています。今では、皆懐かしい俳優です。

懐かしのキネマ その19 マカロニ・ウェスタン

日本だけの呼び名で知られる西部劇映画に「マカロニ・ウェスタン」(Macaroni Western)があります。イギリスやアメリカではスパゲッティ・ウェスタン(Spaghetti Western)と呼ばれます。1960年代前半から、イタリアの映画製作者が主にスペインの荒野で撮影した西部劇のことです。1964年に作られた「荒野の用心棒」 (A Fistful of Dollars)が大ヒットして世界中にマカロニ・ブームが巻き起こります。

マカロニ・ウェスタン映画が作られた場所は、スペインのアルメリア(Almería)の荒野です。数は多くないもののこの地でドイツやイギリス製の西部劇が作られていました。イタリアだけでなく、本場スペインも独自の西部劇を作るようになりました。こうした「ヨーロッパで作られた西部劇」は、「ヨーロッパ製ウェスタン」(European Western)と呼ぶようです。

「スパゲッティ・ウェスタン」と最初に呼んだのは、映画評論家で知られた淀川長治といわれます。少々小馬鹿の気分でつけたのかもしれません。なぜなら、アメリカ人が本場ハリウッドで作られる西部劇に対して「スパゲッティ・ウェスタン」はニセモノ西部劇だと蔑んでいたからです。1960年代には日本ではパスタ(pasta)というマカロニ(macaroni)、スパゲッティ(spaghetti)、ラザニア(Lasagna)どの食品の総称の呼び名は誰も知りませんでした。もっぱらマカロニかスパゲッティが人気の食品でした。

1965年、「荒野の用心棒」が製作されます。監督はセルジオ・レオーネ(Sergio Leone)、主演はクリント・イーストウッド(Clint Eastwood)です。この映画の下敷きは、1961年に作られた黒澤明が監督した「用心棒」です。時は世界中が激動していた頃。イギリスからはビートルズ(The Beatles)が、フランスには「新しい波:ヌーベル・ヴァーグ」(Nouvelle Vague)が、アメリカでは人種差別撤廃やベトナムの反戦運動が盛んな頃です。そんな時に、純粋な娯楽として作り出されたイタリア製ウェスタン映画が世に送りだされます。ハリウッドが作り続けてきた正統派ウェスタンへの一種の挑戦です。歴史観とか正義感、ヒューマニズムなどの教科書的なテーゼへのアンチというわけです。純粋に面白ければ良し、という娯楽アクション西部劇の元祖がマカロニ・ウェスタンです。

懐かしのキネマ その18 太平洋戦争を描いた映画

去る大戦で多くの人々が傷つき犠牲になりました。「挙国一致」、「堅忍持久」といったスローガンにより、誰一人勝つことしか信じない時代がありました。戦意昂揚、生活統制、精神動員などの標語が映画を通しても大衆に浸透していきます。こうした歴史からの深い反省を込めた映画が戦後に作られるようになりました。どの作品も戦場という異常な空間で極限状態に追い込まれた人々が描かれています。そのいくつかを紹介します。

まずは、1956年に作られた「ビルマの竪琴」です。原作は、竹山道雄が執筆した児童向け文学を基に描かれた作品です。終戦直前のビルマ(Burma)、現在のミャンマー(Myanmar) の戦線が舞台となっています。イギリス軍に追い詰められ、日本軍は中立国のタイ(Thailand)を目指して撤退します。その途中で、小隊が降伏し捕虜となります。やがて戦線で命を落とした大勢の日本兵を残して帰国することになります。それに耐えられず、竪琴をひきながら彼らを供養するため僧となった旧日本兵・水島上等兵の姿が描かれます。監督は市川崑でした。

次ぎに1959年に製作された「野火」です。小説家、大岡昇平のフィリピン(Philippines) での戦争体験を基に書かれたものを映画化しています。監督したのは、同じく市川崑です。舞台は日本軍の敗北が濃厚となった第二次大戦末期のフィリピン戦線です。結核を患った田村一等兵は部隊を追放され、野戦病院へと送られる。しかし、野戦病院では食糧不足を理由に田村の入院を拒否します。再び舞い戻った部隊からも入隊を拒否されてしまうのです。空腹と孤独と戦いながら、レイテ島(Leyte)の暑さの中をさまよい続ける田村は、かつての仲間たちと再会するのです。そこで彼が目の当たりにしたのは、孤独、殺人、人肉食への欲求、そして同胞を狩って生き延びようとするかつての戦友です。ことごとく彼の望みは絶ち切られ、遂に狂人化していくのです。

1983年に作られた「戦場のメリークリスマス(Merry Christmas, Mr. Battlefield)」は異色の映画です。日本、英国、オーストラリア、ニュージーランドの合作です。ジャワ(Java) 山中の日本軍捕虜収容所という、極限状況のもとで出会った男たちの抑えた友情の物語です。二・二六事件の決起に参加できずに死に遅れたエリート武官のヨノイ、彼の部下の単純で粗暴な軍曹ハラ、ハラと唯一心の通うイギリス軍中佐との友情が描かれています。東洋と西洋の宗教観、道徳観、組織論が違う中、当時の日本軍兵士の敵国捕虜の扱いや各国の歴史的な違いを大島渚監督がしっかりと描き出しています。

2006年に作られた「硫黄島からの手紙」 (Letters from Iwo Jima) は、第二次大戦における硫黄島の戦いを日米双方の視点から描いた「硫黄島プロジェクト」で日本側の視点による作品です。クリント・イーストウッド(Clint Eastwood) が監督を務めています。1944年に本土防衛最後の砦として硫黄島に降り立ったのが栗林忠道陸軍中尉と日本兵たちです。圧倒的に不利な戦況、絶望の中で、家族の元に生きて帰りたいと願いながら死闘を繰り広げた兵士がいます。届けられることのなかった家族への膨大な手紙やそこに込められた兵士一人ひとりの姿と、戦線の壮絶な戦いを描いた作品です。

懐かしのキネマ その17 映画音楽の多様化

無声映画の撮影中にムードを醸し出し場面を盛り上げるために、音楽がしばしば演奏されていました。専属の楽団を持っていたところもあります。フル・オーケストラの演奏とともに撮影されたともいわれます。やがて、音楽をあらかじめ録音しておき、それを撮影中に流すことによって、シーンのムードを高め、サイレント時代の音楽による演出方式を再現する試みが定着していきます。

トーキーの時代になると、1933年にハリウッドの音楽監督の草分けといわれたマックス・スタイナー(Max Steiner)の「キングコング」(King Kong)が音楽を担当し、この作品を皮切りに映画音楽の一般的なパタンが作り出されます。オープニングで音楽が映画のムードを醸し出し、その後は監督の意図や嗜好によって、音楽がサウンドトラックに見え隠れし、アクションを高めるのです。映画音楽は、ヴィクター・ヤング(Victor Young)、ディミトリ・ティオムキン(Dimitri Tiomkin)、ヘンリー・マンシーニ(Henry Mancini)、モーリス・ジャール(Maurice Jarre)といった作曲家に受け継がれていきます。

映画音楽も多様化していきます。大編成のオーケストラ演奏によるドラマチックな音楽が世界的に定着する一方で、チターやギターだけの独奏で新鮮な効果を醸し出すことに成功していきます。英国映画「第三の男」、フランス映画「禁じられた遊び」のような名作も生まれます。1950年代には雅楽や能、謡いを絡ませた黒澤明監督の「羅生門」、「七人の侍」、「用心棒」なども生まれます。独特の響きが画面上の臨場感を高めるの一役かっています。

エニオ・モリコーネ(Ennio Morricone)という作曲家も従来の音楽のスタイルを一変させます。その音楽の使い方は革命的ともいわれます。マカロニ・ウエスタ(Spaghetti western)映画で響いたシンプルで記憶に残るメロディが特徴です。アコースティックのリズムに、強い口笛が重なり、銃声や馬の蹄の音、教会の鐘、そしてひときわ激しいギターの調べなど予想外のサウンドが彩を加えています。「続・夕陽のガンマン」(For a Few Dollars More)では、ハーモニカ、コヨーテの遠吠え、ヨーデル、口笛、鞭を鳴らす音が鮮烈な雰囲気を生んでいます。映画の重要なシーンも音楽のお陰で臨場感や迫力が生まれてきます。

懐かしのキネマ その16 映画の宣伝力

「映画は芸術であろうと、商品であろうとその特徴は大衆性にある」と言われています。絵画や建築物と違い、「同時的、集団的観賞の対象」であることです。本来は、一人で静かに観賞するものではないということらしいです。映画館でも家で1人で観てもよいのでしょうが、、。

この集団的同時性を最初に活用したのが社会主義国や全体主義国家、そして新興国です。国の宣伝に映画を利用するのです。「十月革命」の発祥地、ロシアでは「最も大切なものは映画であり、ニュースである」と位置づけます。こう叫んだのは革命指導者のレーニン(Nikolai Lenin) です。北朝鮮からのニュースでも大衆を動員した集団的な構図の動画が流れてきます。大群衆が一斉に行進したり拍手をしたりして、指導者への忠誠を誓います。

ナチスドイツも映画を戦争宣伝の道具とします。宣伝相ヨーゼフ・ゲッベルス(Joseph Goebbels)は、映画局を設置し、大衆の戦争精神の昂揚のために、効果的に映画を使います。1938年のベルリンオリンピックを通してナチスの力を誇示したオリンピックの記録動画「オリンピア」(Olympia)、別名「美の祭典」という映画もそうです。この作品を監督したのは、レニ・リーフェンシュタール(Leni Riefenstahl)という女性です。ナチス党大会の記録映画「意志の勝利」 がナチスによる独裁を正当化し、国威を発揚させるプロパガンダ映画として知られています。ヒットラーをして彼女を「ドイツ女性の完全な典型」と呼ぶほどでした。

懐かしのキネマ その15 休憩—Intermission

奇跡のような出来事の話題です。私の長男は家族とボストンから西へ60マイルくらいのプリンストン(Princeton)という田舎町に住んでいます。彼はマサチューセッツ州(Massachusetts)第二の都市ウースター(Worcester)にあるイエズス会系の大学で教えています。嫁のケート(Kate)は近くの小学校で教師をしながら童話を書いています。長男夫婦には2人の息子がいて、その長男はボストンの大学の2年生、次男は9月からウースターの工科大学で学びます。この次男に起こった話です。

彼は、週末に近くのスーパーマーケットでアルバイトをしています。先日サービスステーションで車にガソリンを入れて帰りました。家に戻ってから財布がないのに気が付きます。財布には現金、運転免許証、デビッドカード、COVID-19ワクチン接種証明などを入れていました。急いでサービスステーションに戻り、事務所に届け物がないかを確かめましたがありません。

それから暫くして、1人の男性が次男の家にこの財布を届けにきました。免許証の住所から辿ってきたのです。男性は、ハイウエイの出口にこの財布が落ちていたのに気が付いたというのです。次男は、ガソリンを入れるとき、財布を車の上に置き忘れたのです。暫くそのまま走り、ハイウエイの出口のカーブで財布がずり落ちたようです。この男性は、「MAPFRE INSURANCE」という保険会社の社員で、たまたま通りがかりで次男の財布を見つけたというのです。

このエピソードを嫁のケートは、先日Facebookで紹介します。そうするとこの男性の行為に53のコメントが書き込まれ、どれも驚きの感想となっています。私もコメントをすべて読んで、即座に「アーメン、この男性はアメリカの良心だ」と書き込みました。男性の写真を紹介しておきます。他のコメントの中に、15年前に落とした財布を150マイルも運転し届けてくれた人がいた、というのもありました。

懐かしのキネマ その14 プロデューサーと監督

映画の上映初頭には題名の後に「Produced by 」というテロップが流れます。制作者(プロデューサー) という意味です。映画製作の実権を握るのが製作者です。ハリウッドでは全権を持ち、最終的な編集権すら持ちます。プロデューサーによって、監督の意図に反した作品が勝手に作られた歴史もあります。自らプロデューサーとなって自分の映画を作ることに成功した監督といえば、チャーリー・チャップリン(Charles Chaplin)、セシル・デミル(Cecil DeMille)、ジョン・フォード(John Ford)、ビリー・ワイルダー(Billy Wilder)、ケビン・コスナー(Kevin Costner)等がいます。

プロデューサー制度の成立のことです。初期の映画プロデューサーは、いずれも小規模な会社を持ち、資金を用意し、企画を定め、制作にあたりました。スタッフの中で最も発言力のあったのが撮影技師です。動く画に撮影するということが最も重要な仕事なっていたからです。次ぎに、監督の者が映画の仕組みが複雑になっていくので発言力を持っていきます。それでも企画と資金の面でプロデューサーという立場は絶対的な権威をがあり、監督は映画を作るために現場的にも重要でありました。ですが最終の決定権はプロデューサーであるという伝統は今も変わりません。

懐かしのキネマ その13 無声映画と有声映画

映画フアンには「トーキー」(talkie)という言葉は懐かしいのではないでしょうか。トーキーとは映像と音声が同期したものです。「talkie」はもともと「Talking picture」から生まれています。その後「Moving picture」という用語が使われ、そこから「movie」となります。

昔の映画はサイレント映画でした。無声映画です。その対義語は有声映画とか「発声映画」といわれました。映画のはしりは、1900年代にパリで始まります。1920年代の後半に無声映画が誕生します。1928年に「サウンドトラック」を最初に用いたのがウォルト・ディズニー(Walt Disney)です。1930年代になるとロサンジェルス(Los Angels)のハリウッド(Hollywood)が映画文化の中心となり、「トーキー」が一役を買います。

日本では、活動弁士が無声映画に語りを添える上映形態が主流でした。楽士の奏でる生演奏の音楽とともに独自の“語り”で作品を盛り立てました。活動弁士は通称「カツベン」と呼ばれていました。そのためか「トーキー」が根付くには時間がかかったといわれます。作家や俳優であった徳川夢声は1913年に活動写真(無声映画)の弁士となったようです。東京を代表する弁士として人気を博します。しかし、昭和の時代になって、トーキーが登場すると夢声ら弁士の出番はなくなり、やがてラジオで活躍します。吉川英治の『宮本武蔵』の朗読などで有名となり、テレビ創成期の立役者の一人となります。

懐かしのキネマ その12 娯楽映画の傑作

子どもも大人も掛け値なしに楽しんだ映画といえば、E.T.(Extra-Terrestrial)の右に出る作品はないでしょう。1982年公開のSF映画です。当時、映画史上最大の興行収入を記録した作品です。

とある杉の森に球形の宇宙船が着陸し、中から小さな宇宙人が数人出てきます。彼らの目的は地球の植物を観察し、サンプルを採集することです。その内の1人は宇宙船から遠く離れ、崖の上から住宅地の灯の海を見て驚きます。その時、宇宙船の着陸を察知した人間らが車で近づいてきます。宇宙船は危険を察知して離陸しますが、遠くにいた宇宙人1人は地上にとり残されてしまいます。取り残された宇宙人は叫び、近づいてくる人間から逃げ出します。10歳のエリオット(Elliot)はその宇宙人を目撃します。エリオットがポーチで見張っていると、ついに宇宙人が彼の前に姿を現わします。やがて2人は心が通い合うようになります。

1975年制作のジョーズ(Jaws) スティーヴン・スピルバーグ(Steven Spielberg)監督の出世作となります。ある避暑地の海辺の町において巨大な人食いホオジロザメが海水浴客を襲います。警察署長と若い海洋生物学者、プロのサメハンターの3人がホオジロザメ狩りをする海洋アクション・スリラーです。

1990年に制作された「ジュラシック・パーク」(Jurassic Park)です。コスタリカ(Costa Rica)沖の孤島につくられたテーマパーク「ジュラシック・パーク」。そこでは太古の琥珀に閉じ込められたDNAを使い、恐竜たちを蘇らせていた。前代未聞の夢の大テーマパークになる予定でしたが、ある夜、安全装置が解除され、恐竜たちが柵の外へ脱走、次々と人間たちを襲っていきます。島に残された人間は、島からの脱出を目指すのですが、、、、SFエンターテイメント作品の傑作といわれます。この映画の全体を通しての背景には「生命倫理や生命の進化・歴史」「テクノロジーの進歩と過信」に対する哲学的テーマが込められているという高い評価がなされています。

懐かしのキネマ その11 障害を扱う名作『レインマン』

アメリカ映画には、心身に障害のある人々に焦点を当てた作品がいろいろとあります。本稿ではそれを紹介することにします。1988年に公開された映画『レインマン』。主演にトム・クルーズ(Tom Cruise) とダスティン・ホフマン(Dustin Hoffman)が登場しています。この作品は、自由奔放な弟チャーリー(Charlie)とサヴァン症候群 (savant syndrome) の自閉症である兄レイモンド(Raymond) の交流です。実業家のチャーリーは、絶縁していた父の訃報が届きます。彼は父親の遺産を手にするために故郷に帰ります。しかしチャーリーは父親の遺産が全てサヴァン症候群を持つ兄レイモンドの信託財産として運用されることを知るのです。

何とか遺産を手に入れたいチャーリーはロサンゼルス (Los Angels) まで旅行に行こうとレイモンドを施設から連れ出します。レイモンドは自閉症のために、普通にコミュニケーションをとることはできませんが、並外れた記憶力を持っていました。金欲しさに、父親の遺産相続人である自閉症の兄を施設から連れ去った弟が、兄と旅をしていくうちに本来あるべき兄弟の絆を取り戻していくのです。

もう一つの障害者が主演となる作品に「フォレスト・ガンプ(Forrest Gump)」があります。「Gump」とは、うすのろという意味です。アラバマ州に生まれたフォレストは、生まれつき背骨が曲がっており、脚装具がなければ歩けませんでした。また彼はIQ75の知能しかなかったため、学校の先生にも養護学校への入学を進めらられます。しかし、フォレストを女手一つで育てる母親は、彼を普通の子として育てるため公立学校へ進学させるのです。

登校初日、スクールバスで他の子からいじわるされるフォレストを同じ座席に座らせたのは、心優しい女の子ジェニー(Jenney) です。2人は仲良くなり、ある日いじめっ子から逃げるためジェニーが「走って、フォレスト」と呼びかけたことを機に、フォレストは脚装具をはじき飛ばして走り出します。誰も追いつけない走りの才能が開花したフォレストは、やがてその才能を見出されてアラバマ大学(University of Alabama) に入学します。アメフトの試合で大活躍し、全米代表チームに選ばれます。その後、兵役に就きベトナム戦争での激戦中に戦友を助け出し勲章を貰います。時の大統領ジョン・F・ケネディ(J.F. Kennedy)とホワイトハウスで面会するのです。