東京都知事選挙を考える

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 インターネットやSNSの隆盛で、歩きながらも自転車に乗りながらも絶えずスマホを見つめる多くの現代人がいます。そうした人々の選挙行動が今回の東京都知事選挙で大きな話題となりました。SNSを駆使しすっとんきょうな政見放送で多くの若年層から支援を受けた候補者、学歴詐称の疑いがあり公務と称して選挙運動をした候補者、離党しておきながら既成政党の固定した支持者をあてにした候補者、さらには56名の候補者の掲示板ポスターの乱雑さ、候補者の名前を記入し間違えると無効になる、という誤った報道、本来ならば選挙公約や争点が一体なになのかを吟味して投票すべきという常識が通じないような、まさに意外性に富むかまびすしい選挙でありました。

 投票率が前回の都知事選挙に比べ5.6%上がり60.6%になったとか。都民が選挙に関心を持っていたことが現れたようです。その理由はなぜかということですが、一過的な現象だったのかどうかです。今回、若年層が投票行動を示したのを評価する声もあります。政治に関心がないと、有権者の声は政治に届きにくくなります。職業政治家は投票に来てくれる世代、政治に関心がある世代を優先した政治を行う傾向があります。今回の都知事選挙によって、若者たちに目を向けた政策を考えるようになるはずです。

ポスター掲示板


 
 政治の大きな不祥事が生じても誰も責任をとらず、それどころか不都合な事実については職業政治家が口を閉ざし、事実が隠蔽されてしまっています。日本で今、起こっている出来事をみていると、Adoの楽曲「うっせぇわ」は人々の気持ちや不満を表現しているようです。この歌から怒りの感情や嫌悪感が伝わります。「人でなく、政策で選べ」といった文句が「うっせぇわ」でかき消されたのが今回の都知事選挙でした。
(投稿日時 2024年7月11日)  成田 滋

ハンナ・アーレントと全体主義の理解

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はにめに

『Hannah Arendt』という映画を観たことがありますか?この映画は、1951年に出版された「全体主義の起原」(The Origin of Totalitarianism)という著作を基にした作品です。この名著を執筆したのは、ハンナ・アーレント(Hannah Arendt)で、ナチスによる迫害を逃れてアメリカに亡命したユダヤ系ドイツ人の政治哲学者です。ナチスの全体主義(totalitarianism)はいかにして起こり、なぜ誰にも止められなかったのか、アーレントはそれを、歴史的考察により究明しようとしました。この本は、歴史をさかのぼって探求する内容で、中々理解するのが難しい作品です。

アーレントが大学を卒業して間もない頃にドイツに台頭したヒトラーを党首とするナチス党(Nazi)は、ドイツが疲弊した原因がユダヤ人にあるとし、ユダヤ人が資本主義を牛耳り、経済領域で不公平な競争を行っていると主張するのです。そしてユダヤ人を絶滅させる「最終解決」(final solution) を掲げ反ユダヤ主義政策(antisemitism)をとります。ユダヤ人はユダヤ教で結びついており、階級社会からも独立していました。こうした状況から、ヒトラー政権下ではユダヤ人は目の敵にされてしまいます。

Hanna Arendt

全体主義とは

全体主義とは何かという定義ですが、平凡社の世界大百科事典によりますと、〈個〉に対する〈全体〉の優位を徹底的に追求しようとする思想・運動とあります。その用例として、イタリアのファシズム(Fascism)、ドイツのナチズム(Nazism)、ソビエトのスターリン(Joseph Stalin)体制、中国の一党独裁体制の基本的な特質を表現する概念とされています。アーレントによれば、全体主義とは、単なる主義でも思想でもなく,それに基づく運動/体制/社会現象を含むといわれています。全体主義はその内容は問われなく、どんなものでも任意に選ばれるというのです。

様々な「社会的な俗情」例えば、嫉妬,貪欲,恐怖心等に基づいて選定されます。その後,その俗情を隠蔽するために、ご都合主義的な理屈が無意識的にねつ造されたり,ご都合主義的なイデオロギーとなります。やがて理論が無意識的に選ばれ,テロをちらつかせ、プロパガンダに利用されていきます。当然ながら論理的,倫理的な一貫性が不在となり、必然的に人々は思考停止になり、体制側は様々な工夫を重ねながら,より効率的に全体主義を敷衍していくというのです。

アーレントは、全体主義は、専制や独裁制の変形でもなければ、野蛮への回帰でもないと主張します。20世紀に初めて姿を現した全く新しい政治体制だというのです。その形成は、国民国家の成立と没落、崩壊の歴史と軌を一にしています。国民国家成立時に、同質性や求心性を高めるために働く異分子排除のメカニズムである「反ユダヤ主義」と、絶えざる膨張を続ける帝国主義の下で生み出される「人種主義」(racism)の二つの潮流が、19世紀後半のヨーロッパで大きく広がっていきます。

Movie,Hanna Arendt

反ユダヤ主義とは

反ユダヤ主義とは、ユダヤ人およびユダヤ教に対する憎悪や敵意、偏見や迫害のことで、ユダヤ人を差別し排斥しようとする思想といわれます。人種主義とは、人種間に根本的な優劣の差異があり、優等人種が劣等人種を支配するのは当たり前であるという思想です。その起源としては、近代以降、人種が不平等なのは自明であり、社会構造の問題は人種によって決定づけられるとしたことです。フランスにおける貴族という特権階級を正当化する目的が、最初期の人種主義とされます。

国民国家の誕生と帝国主義

歴史のおさらいですが、絶対王政が崩壊しフランス革命が起き、アメリカ独立革命という「市民革命」が起ききます。こうして国家主権は国民が持つという意識が生まれたのです。また、国民は、言語・文化・人種・宗教などを共有する一体のものと意識され、国民としての一体感が形成されます。そして国民が憲法などによって主権者であると規定され国民主権が確立したのが「国民国家」(nation state)なのです。単一民族で成り立っている国民国家はほとんど無く、アメリカのように多くは民族的特質の多様な人びとが国民国家を形成しているので「多民族国民国家」とも呼ばれます。

アーレントによると、19世紀のヨーロッパは文化的な連帯によって結びついた国民国家となっていきます。国民国家とは、国民主義と民族主義の原理のもとに形成された国家です。国民主義では、国民が互いに等しい権利をもち、民主的に国家を形成することを目指しました。また民族主義は、同じ言語や文化をもつ人々が、自らの政治的な自由を求めて、国境による分断を乗り越え一つにまとまることを目指す考え方です。

同時に19世紀末のヨーロッパでは原材料と市場を求めて植民地を争奪する「帝国主義」が広がります。さらに、自分たちとは全く異なる現地人を未開の野蛮人とみなし差別する新たな人種主義が生まれます。他方、植民地争奪戦に乗り遅れたドイツやロシアは、自民族の究極的な優位性を唱える「汎民族運動」(pan-ethnic movement)を展開します。 汎民族運動とは、民族的な優越と膨脹を主張するイデオロギーのことです。中欧・東欧の民族的少数者たちの支配を正当化する「民族的ナショナリズム」を生み出します。そして国民国家を解体へと向かわせ、やがて全体主義にも継承されていくのです。

やがて20世紀初頭、国民国家が衰退してゆく中、大衆らを民族的ナショナリズムの潮流を母胎にし、反ユダヤ主義的のような擬似宗教的な「世界観」を掲げることで大衆を動員していくのが「全体主義」であるとアーレントは分析します。全体主義は、成熟し文明化した西欧社会を外から脅かす「野蛮」などではなく、もともと西欧近代が潜在的に抱えていた矛盾が現れてきただけだというのです。

アイヒマン裁判と悪の陳腐さ

何百万人単位のユダヤ人を計画的・組織的に虐殺したことがどうして可能だったのか?アーレントはその問いに答えを出すために、雑誌「ニューヨーカー」(New Yorker) の特派員としてイスラエル(Israel)に赴き「アイヒマン裁判」を傍聴します。アドルフ・アイヒマン(Adolf Eichmann)はユダヤ人移送局長官として、収容所へのユダヤ人移送計画の責任者といわれました。アーレントは、実際のアイヒマンは、組織の論理に従い与えられた命令を淡々とこなす陳腐な小役人だったのを目の当たりにし驚愕します。自分の行為を他者の視点から見る想像力に欠けた凡庸な人間だったというのです。「悪の権化」のような存在と目された彼の姿に接し、「誰もがアイヒマンになりうる」という可能性をアーレントに思い起こさせるのです。

Adolf Eichmann

映画の中で、学生たちを前にして、毅然とした反論を行うアーレントが見られます。誰もが悪をなしうるというのです。「悪」をみつめるとき、「それは自分には一切関係のないことだ」、「悪をなしている人間はそもそもが極悪非道な人間だ。糾弾してやろう」と思い込み、一方的につるし上げることで、実は、安心しようとしているのではないか? アーレントはさらに言います。『ナチは私たち自身のように人間である』ということだ。つまり悪夢は、人間が何をなすことができるかということを、彼らが疑いなく証明したということである。言いかえれば、悪の問題はヨーロッパの戦後の知的生活の根本問題となるだろう…

こうしてアーレントは「エルサレムのアイヒマン–悪の陳腐さについての報告」(Eichmann in Jerusalem: A Report on the Banality of Evil)というニューヨーカー誌への寄稿のなかで「誰もがアイヒマンになりうる」という恐ろしい事実を指摘します。「Banality」とは、考え・話題・言葉などが退屈で陳腐なこと、という意味です。彼女は言います。『彼は愚かではなかった。完全に平凡で全く思想がない――これは愚かさとは決して同じではない――、それが彼をあの時代の最大の犯罪者の一人にした要因だったのだ。』

アーレントへの批判

ニューヨーカー誌でこの報告が発表されると、アーレントは痛烈に批判されます。つまり『エルサレムのアイヒマン』は、ユダヤ人やイスラエルのシオニスト(Zionist)たちから「自分がユダヤ人であることを嫌うユダヤ人がアイヒマン寄りの本を出した」というのです。このような非難に、アーレントは、裏切り者扱いするユダヤ人やシオニストたちに対して、「アイヒマンを非難するしないはユダヤ的な歴史や伝統を継承し誇りに思うこととは違う。ユダヤ人であることに自信を持てない人に限って激しくアイヒマンを攻撃するものだ」と反論するのです。

アーレントは、「全体主義」とは、外側にある脅威ではなく、どこにでもいる平凡な大衆たちが全体主義を支えてきたということです。私たちは、複雑極まりない世界にレッテル貼りをして、敵と味方に明確に分割し、自分自身を高揚させるようなわかりやすい「世界観」に、たやすくとりこまれてしまいがちです。そして、アイヒマンのように、何の罪の意識をもつこともなく恐るべき犯罪に手をそめていく可能性を誰もがもって全体主義の芽は、人間一人ひとりの内側に潜んでいるのがアーレントの主張です。全体主義は、人間関係を成り立たせる共通世界、共通感覚を破壊して、人々からまとま判断力を奪う、人々はイデオロギーによる論理の専制に支配されるというのです。

おわりに

アーレントの研究は、現代社会を省察する上で次のような示唆を与えています。経済格差が拡大し、雇用・年金・医療・福祉・教育などの基本インフラが不安視される現代社会は、「擬似宗教的な世界観」が浸透しやすい状況にあり、たやすく「全体主義」にとりこまれていく可能性があるというのです。擬似宗教的な世界観とは、前述したように反ユダヤ主義のような人種差別思想です。世の中が不安になると、人々は物事を他人任せにし、全体主義が登場する要因になるのです。アーレントは、「大衆が独裁者に任せきることは、大衆自らが悪を犯していることである」と唱えました。こうした過ちを再び犯さないためにも、私たちは政治に関心をもち、積極的に参加していくことが必要だとアーレントは示唆するのです。

参考書
 『全体主義の起原』 みすず書、1972年
 『人間の条件』 中央公論社、1973年
 『精読 アレント全体主義の起源』 講談社、2023年

投稿日時 2024年7月7日        成田 滋

ロバート・オッペンハイマーの遺産 その3原爆投下の理由】 

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1958年にオッペンハイマーは各地を訪れて講演や講義をします。パリ(Paris)、ブリュッセル(Brussel)、アテネ(Athene)、テル・アビブ(Tel Aviv)です。そして1990年の9月にオッペンハイマーは来日します。後に彼は次のように述懐しています。「原爆の開発には大義があったと信じている。しかし、科学者として自然について研究することから逸脱して、人類の歴史の流れを変えてしまった。私にはそれに対する答えがない」物理学者として、また一人の人間としての矜持を示す言葉といわれています。

Julius Robert Oppenheimer


ケンブリッジ大学(University of Cambridge)のキャヴェンディッシュ研究所(Cavendish Laboratory)の指導教官で、後にノーベル賞を受賞するパトリック・ブラケット(Patrick Blackett)は「原子力の軍事的、政治的影響」という本を書きます。その中で日本での原爆使用決定に対して批判します。「1945年8月までに、日本は実質的に敗北していた。実は原子爆弾は、戦後の日本占領におけるソビエトの取り分の要求に、軍事的に対処するために投下されたのだ。当時完成されたばかりの2個の原爆を、あれだけ大慌てに太平洋の向こうに運び、広島と長崎に投下したのは、日本が米軍だけに降伏したのだという主張に間に合わせるためだったと想像するほかない。それも間一髪のところで間に合った。原爆の投下は第二次世界大戦最後の軍事行動ではなく、現在進行している外交冷戦の最初の大型行動であった。」

米ソの間の軍事的な対立と原子力外交によって、人々に緊張度の高い心理的な葛藤を生み出していきます。特に原子科学者の心には、その緊張は激しかったといわれます。素晴らしい科学的な成果が戦争において政争の道具として使われたことについて、彼らは当然ながら深い責任を感じたようです。後に行った講義でオッペンハイマーは「アメリカは核兵器をすでに敗北していた敵に対して使った」と述懐しています。このコメントは、ブラケットの主張と合致するものでした。

第二次大戦後の米ソの対立が核開発と軍拡競争という背景のなかで、多くの科学者がその時の政治や政府、そしてイスタブリッシュメント(Establishment)という中核的な社会勢力に翻弄された歴史があります。政治の世界に権力闘争があり、科学者や文化人といわれる人々の中には、多くのユダヤ系の人々が人種差別に苦しみます。共産主義の吹き荒れる戦前の社会でこうしたユダヤ系の人々は、赤狩りという魔女狩りに苦悩します。共産主義という踏絵を踏むように迫られていたのです。アインシュタインやオッペンハイマー、その後水爆の父と呼ばれたエドワード・テラー(Edward Teller)もそうです。この「Oppenheimer」というこの著作はそのことを詳細に言及しているのが興味深いところです。

オッペンハイマーは1966年に高等研究所(Institute for Advanced Study)を退職し、 オッペンハイマーのキャリアを事実上終わらせた訴訟から60年後の2014年、合衆国エネルギー省 (U.S. Department of Energy)は公聴会の機密解除された完全な記録を公開します。既に公開されていた資料の他に、新たに公開された資料は、オッペンハイマーがアメリカへの忠誠心の持ち主であるという立場を擁護します。そして優秀な科学者が職業上の嫉妬とマッカーシズム(McCarthyism)という反共産主義に基づく政治的運動によって名誉が失墜されたと主張します。

Joseph McCarthy

2022年、エネルギー省はオッペンハイマーの機密保持許可の取り消しを正式に無効にするのです。そのときのエネルギー長官であったジェニファー・グランホルム(Jennifer Granholm)は、「欠陥のある調査によって偏見と不公平な結論が彼の公職からの追放につながった」と声明するのです。こうしてようやくオッペンハイマーは、名誉を回復するのです。
(投稿日時 2024年7月5日)
               成田 滋

ロバート・オッペンハイマーの遺産 その2国際原子力機関の提唱】 

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オッペンハイマーは、彼が力を尽くして研究してきた核がもたらす脅威を封じ込めることによって、その爆弾文化から人々を遠ざけようと果敢に努力します。その最も印象的な努力は、原子エネルギーの国際管理計画でした。それはアチソン・リリエンソール(Acheson-Lilienthal)報告者として知られています。その骨子は「国際原子力機関をつくり,それが各国の原子力施設を所有し,運営する」という革新的構想などが明らかにされていました。実はその報告者はオッペンハイマーが考えたもので、大部分彼が原稿を書いたのです。

1945年10月にオッペンハイマーはロスアラモスの職を正式に辞します。そのときの告別の辞で次のように述べます。
「何年か先に、この研究所の仕事に関わったすべての人が、達成した仕事を誇りを持って振り返ることができる日を望んでいます。ですが今日のところ、その誇りは深い懸念によって加減しなければなりません。原子爆弾が交戦中の国々の、あるいは戦争に備えている国の新しい兵器として加えられることになれば、ロスアラモスと広島の名前を人類が呪う日が必ずやってきます。」

Einstein and Oppenheimer

さらに1945年11月2日にロスアラモス劇場で「われわれを取り囲む苦境」と題してオッペンハイマーは演説します。
「わたしたちは、実際的な政治についてはあまり知りません。ですが科学者である以上、世界がどのように動いているかを知ることは良いことであり、また人類全体に可能な限り大きな力を与え、その力の光と価値によって世界を管理することは良いことであると信じています。核兵器の開発が理性的な解決に結びつくチャンスのあるところ、災難を引き起こすチャンスの少ないところは、世界の中でアメリカしかないでしょう。科学者は重大な危機に対する責任を逃れることができません。この責任を逃れるために科学者は努力するのです。科学者には分別があります。非常に深刻な危機であると受け入れること、われわれが製造を始めた原爆が非常に恐ろしいものであると認めることです。」「原爆は、直ちにアメリカを理不尽な攻撃に曝されやすくする無差別な恐怖の武器であり、核時代の夜明けにわれわれに警告しています。」
しかし、オッペンハイマーの警告は無視され、最終的に彼は沈黙させられます。

オッペンハイマーは語学能力にも秀でた理論物理学者だったといわれます。ドイツ語、英語、フランス語、ベルギー語、ギリシャ語、ヘブライ語などです。さらに東洋の哲学、特に神秘主義の中に心の慰めを発見していきます。サンスクリット語(Sanskrit) の叙事詩の一つ「マハーバーラタ」(Mahabharata)を読めるようになります。彼は、この叙事詩から煩悩からの解脱を求めていたといわれます。科学者として物質世界とかかわりながら、そこから解脱したいと考えていたのです。純粋に精神的な領域に逃げようとしていたわけでも、宗教を求めていたのでもなく、求めていたのは心の平和であったといわれます。

Atomic Bomb

オッペンハイマーは核軍備拡大競争の危険性について懸念していました。「わたしは二つの事が重要であると気づいています。まず爆弾を国際的な管理下におかなければならないことです。なぜなら、一国の管理に任せば、どうしても競争意識がでます。次ぎにこの産業の時代が続けば、必ず核エネルギーに依存するようになると確信できます。」オッペンハイマーはこうして、原爆と原子力の平和利用の両面を管理できる、本当の力を持った国際的原子力機関を提唱するのです。さらにエネルギー工場で核兵器を造っていることがわかった場合、核拡散を進める可能性ありとして、工場の懲罰的な閉鎖というある種の罰則を科すことが大事であるとも主張するのです。

オッペンハイマーは、原子力の全局面を独占して、その利益を個々の国に恩恵として割り当てる国際機関を提唱します。このような機関はテクノロジーを管理すると同時に、これを厳格に民生用として開発することにすると提案します。しかし、長い目でみれば、世界政府なしでは、永久の平和はあり得ないと考えるのです。平和がなければ原子力戦が起こるであろうとも予言します。ただ、世界政府は今すぐ見込まれるものでないのは明らかなので、原子力の分野においてはすべての国が「部分的主権の放棄」に同意すべきというのが彼の考えでした。

Robert Oppenheimer

オッペンハイマーが危惧していのは、大きな戦争ばかりではありませんでした。彼は核のテロリズムも心配していました。「爆弾の国際管理は、わが国が戦争前に享受していた安全保障に匹敵するものを持つことができるただ一つの方法である」「今後百年間に生まれる可能性のある悪い政府、新しい発見、無責任な政府の下で、これらの兵器が予行的に使われる恐れに対して、絶え間なく心配せずに生きるためには、これしか方法がありません。」

オッペンハイマーとアインシュタインは、物理学者としては対立したといわれますが、ヒューマニストとしては同志でありました。軍との契約に依存する兵器研究所や大学での科学者としての仕事が、冷戦下の国家安全保障のネットワークによって大口取引されていました。このような歴史おいてオッペンハイマーは別の道を選んだのです。科学のこうした軍用化が始まっている現在、オッペンハイマーはロスアラモスに背を向けます。そうした自分の影響力を軍拡競争に歯止めをかけようとした生き方にアインシュタインは敬意を表するのです。
(投稿日時 2024年7月3日)       成田 滋

ロバート・オッペンハイマーの遺産 その1ロスアラモス国立研究所】 

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世界的に著名な理論物理学者のロバート・オッペンハイマー(Robert Oppenheimer)の生涯に関する著作があります。カイ・バード(Kai Bird)とマーティン・シャーウイン(Martin Sherwin)が2005年に書いた「Oppenheimer」です。この上下本を図書館で借り読みました。この本を基にした映画も観ました。映画の冒頭から、彼が1953年12月21日、彼は自分に不利な軍事安全保障報告書(military security report)を知らされ、過去に共産主義者と関係があったこと、ソ連工作員の氏名提出を遅らせたこと、水爆製造に反対したことなどで告発される場面が映し出されます。後に「原爆の父」という名誉なのか不名誉なのかの呼び名をつけれるのですが、原爆の威力を知っていたオッペンハイマーは、水爆の開発などに反対し、政府の方針と対立し、やがて裁かれるという立場に置かれるのです。アメリカでは、「対日戦争を早期に終結し、アメリカ兵の損失を無くすために原爆投下は必要であった」という世論が広まっていました。ですがオッペンハイマーは、「原爆投下をしなくても日本は既に戦争に負けていた」と述べるのです。

Robert Oppenheimer


オッペンハイマーはかつて共産党員らの交流が問題視されていました。それにも関わらず、ニューメキシコに作られたロスアラモス国立研究所長(Los Alamos National Laboratory)に任命され、原子爆弾開発・製造のために、科学者、技術者を総動員したマンハッタン計画(Manhattan Project)に邁進します。米ソの冷戦が激化し、核軍拡競争に入ります。やがてオッペンハイマーは、科学者の枠を超えて政治の領域に入っていきます。国連において核を国際管理し、核軍拡競争に至らせず廃絶することを構想し、政治を動かそうとするのです。しかし、当時のアイゼンハワー大統領(Dwight Eisenhower)によってオッペンハイマーは排除されます。おまけに、機密情報を得られる「保安許可」を奪われ公職を追放さます。「保安許可」とは、現在日本でも論議されている「Security Clearance」のことです。アイゼンハワーは、恐怖による核抑止論に基いて、戦略核兵器の配備を進め、その使用をもちらつかせる「瀬戸際政策」を採用したことで知られた大統領です。オッペンハイマーの核管理や廃絶とは真逆の政策でした。

Los Alamos National Laboratory


イギリスで働いていたドイツの亡命物理学者、オットー・フィリッシュ(Otto Frisch) ルドルフ・パイエルス(Rudolf Peierls)が、ナチスドイツは実用可能な原子爆弾を、今回の戦争に間に合うようにできると考えていました。こうした情報によって、アメリカ、イギリス、カナダの原子爆弾プロジェクトであるチューブ・アロイズ(Tube Alloys)、やがてそれを引き継いだマンハッタン計画に関わる物理学者が核開発競争に勝つことが大事だと一致するのです。

反共主義の潮流がアメリカで勢いを増していきます。赤狩りに奔走する議会調査委員会に喚問され、FBIは彼の自宅やオフィスの電話に盗聴器を仕掛け、政治的な過去に関する抽象的な話や政府方針が新聞に流れると、オッペンハイマーはますます追い詰められた気持になります。戦後は空軍の核兵器による大量戦略爆撃計画に反対したことが、FBIのフーバー長官(Edgar Hoover)や米原子力委員会(US Atomic Energy Commission)委員長のルイス・ストローズ(Lewis L. Straus)を始めとする多くの政府実力者の怒りをかいます。

その後、安全保障公聴会は彼が反逆罪では無罪であると宣言しますが、軍事機密にアクセスすべきではないとの裁定を下します。その結果、原子力委員会の顧問としての契約は打ち切られます。 アメリカ科学者連盟(Federation of American Scientists)は直ちに判決に対して抗議し、彼の弁護に乗り出しますた。 オッペンハイマーは、科学的発見から生じる道徳的問題を解決しようとする一方で、魔女狩り(witch hunt)の犠牲者とか殉教者といった科学者の世界的な象徴となります。 彼は人生の最後の数年間を科学と社会の関係についてのアイデアを練ることに費やします。

1963年にリンドン・ジョンソン(Lyndon B. Johnson)大統領は、はオッペンハイマーに原子力委員会のエンリコ・フェルミ賞(Enrico Fermi Award)を授与します。この賞はエネルギーの開発や活用、または生産に関する業績を讃えるもので、賞金は375,000ドルです。フェルミはマンハッタン計画に参画し、世界初の原子炉の運転に成功し、「核時代の建設者」と呼ばれたイタリア生まれの物理学者です。
                                              成田 滋

ダグ・ハマーショルドの「道しるべ」

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1961年9月、私は北海道大学一年のときに国連事務総長のダグ・ハマーショルド(Dag Hammarskjold)が飛行機事故で亡くなったのを知りました。アフリカへの紛争調停に赴く途中だったようです。このニュースを今も鮮明に記憶しています。イスラエルとアラブ諸国との停戦合意、国連緊急軍(UNEF)の創設、スエズ動乱の平和的解決の支援など、その高い外交手腕が評価された事務総長です。中立を掲げていたスウェーデン出身の外交官ならではの功績ではなかったでしょうか。国内では、政治家として社会民主党内閣で財政や経済問題と取り組んだといわれます。ですが政治的な独立性を主張し、どの政党にも属さなかったというのは興味深いことです。特定の主義や思想に偏るのを避けたのでしょう。

Dag Hammerskjold

今、ハマーショルドが書いた「道しるべ」という思索の翻訳を読んでいます。英語の題名は「Markings」で訳者は、元国際基督教大学総長であった鵜飼信成です。興味あることですが、著者は事務総長として取り組んだ外交上の諸問題や紛争の解決などについては一切触れていません。あくまで自己の内省を記録しています。この著作の冒頭で「これは私の、私自身との、そして神との交渉についての白書(white book)である」とあります。政治と宗教と社会の関係の中から、政治を省いているのです。政治というのはどうしてもドグマや教義、支配や強制ということが関わってきます。著者は、自己の分析や内省においては、政治の話題は雑音になるとでも主張しているかのようです。

ハマーショルドが直面したアフリカや中東の状況は、極めて重大な局面にあったと思われます。第二次大戦後の世界で最も注目すべき現象の一つは、新興独立国の成立です。こうした国々成立の歴史的な要因はいろいろな見方があるようです。その最たるものは、人々が個人の自由と独立を要求するのと同様に、国家や民族にとってもその自由と独立の要請が高まったということです。歴史的にみますと、その最も先駆的な役割を果たしたのは、アメリカの自由と独立だと考えられます。イギリスの植民地であった大西洋沿岸の13州が、本国の圧政に耐えかねて立ち上がる新興独立国家の原初的な形態を示したと思われます。

United Nation, New York

アフリカにおける諸国の独立運動は、宗主国であったイギリスやフランス、ベルギー、ポルトガルなどの列強とアフリカ各地の新興国との対立でありました。ハマーショルドは、事務局長として戦後のアフリカ大陸における自由と独立運動とそれに付随した紛争の調停に邁進します。1960年は、アフリカの17か国が一斉に独立を達成し、この年は「アフリカの年」と呼ばれます。1960年10月に国際連合総会において、ガーナのエンクルマ大統領が演説し、アフリカの独立への支援と、南アフリカにおけるアパルトヘイトの不当を訴え、大きな反響を呼びます。同年12月の総会で「植民地独立付与宣言」を反対票なしで可決するのです。そこではすべての植民地支配は人権の侵害であり、すべての人々は自己決定権を有すると宣言したのです。

しかしながら、植民地時代にヨーロッパの列強によって人為的に引かれた境界線がほぼそのまま残され、独立後の国境紛争や部族紛争が絶え間なく起こるのです。形式的には独立を達成したものの独裁政権が権力の座にすわり、経済支援に名を借りた欧米資本主義による間接支配と言う形の新植民地主義が起こります。ハマーショルドは列強と独立国との間の仲介に傾注するのです。やがて、アフリカ諸国は第三世界を形成し、東西冷戦での米ソの対立を牽制する力となります。ハマーショルドは、新植民地主義の台頭には警戒し、アフリカ諸国の民族自決の姿勢を肯定します。それが欧米諸国からは警戒されていたようです。これが、事務総長として「地球上で最も不可能な仕事」と呼ばれる調停で、この仕事に奔走します。ハマーショルドが飛行機事故で亡くなったとき、事故には列強が関与したのではないかという噂もありました。その真意は究明されずに終わります。

「道しるべ」からは、個人的な信仰の証しが伝わってきます。もう一つ興味深いことは、芭蕉の『奥への細道』に傾倒していたようで、彼の内省的な散文には俳句の影響が見られるとの指摘です。あわせてNew York Timesの書評も読みました。「Meditations of a Man of Action」 (瞑想と行動の人)とあります。稀代の思想家であり文学者であり宗教哲学者でもあったようです。
(投稿日時 2024年6月30日)     成田 滋

ルール・オブ・ローと政治資金規正法

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法の支配と訳されるルール・オブ・ロー(Rule of Law)は、全ての権力に対する法の優越を認め、基本的に権力に対する歯止めという考え方です。市民の権利や自由を保障することを目的とする立憲主義のことです。それは、今回の政治資金規正法の根本原理である国民の不断の監視と批判のもとに置かれるということに示されています。これまでの改正論議は、政府自民党のパーティ券の裏金づくりという行為に法という衣をまとわせることが、あたかも民主主義的な法治主義であるかのような印象を国民に与えたのではないでしょうか。

Rule of Law

裏金づくりに関わった議員は、追求されると表向きは法に従っているとか、法に則っていると釈明しています。今度の政治資金規正法は、既成の事実を作り、法をそれに合わせて解釈しさえすればよいという意図がいろいろな箇所にみられます。例えば10年後に明細書や領収書を開示するとか、収支報告書の「確認書」の作成を議員に義務づけるとか、政策活動費の幹事長の行う支出との領収書、使途公開は項目にとどめるとか、政治資金の透明性を外部監査で明らかにする、などと説明し、誰が、いつ、どの様に実施するかなど、具体的な内容は政府与党の裁量や解釈にまかされるのです。

その他、「政策活動費」の支出をチェックする第三者機関の制度設計などは検討事項となっています。制度設計などと謳って、実効性のある仕組みを先延ばしするような意図が現れています。こうした抜け穴を野党は追及したのですが、この法律は所詮多数に無勢で成立してしまいました。

法を実体に合わせて解釈することができるように与党が画策したのが、今回の政治資金規正法です。権力というのは、表向きには法に従って統治していると姑息に主張します。裏金作りの問題が一時的に世論は沸き立ったのですが、政治資金規正法の成立によって、国民は、「まあしょうがない」 ということで事態が終息していくような空気が漂うのを感じます。

民主主義とは、権力の掌握者を統制するための、これまで考えられてきた唯一の機構です。選挙民が権力の側の政治資金規正法の発議に現れた美辞麗句に反発する能力を失ったときに、民主主義は崩壊する危機があると考えます。
   (投稿日時 2024年6月28日) 
                         成田 滋

学歴詐称と不条理と思考停止詐欺と嘘のパタン】 

注目

梅雨の頃で感じることの一つは、狭い庭の木々にたわわに伸びる葉です。とりわけ柿の木の葉は日毎に広くなり、緑が濃くなっていきます。人は、自然を眺めて「絵のように綺麗だ」といいますが、自然は絵の美しさとは格段の違いがあります。絵は人が作ったもの、自然は被造物の作品なのです。その美しさは喩えようがありません。絵の具で描いた緑や景色は芸術家の世界であり、それはそれで価値のあるものでしょう。他人が作品に勝手に値段をつけて価値あるものにするのが、この世の中です。しかし、自然に価値を付与することはできません。

人によって美の意識は違うのは当然です。そこに善し悪しはありませんし、価値があるなし、ということもありません。人が対象となるものを目の前にしたとき、その人の生い立ちや生活が反映されて、なにかを感じたり感じなかったりするものです。ただ、なにも感じないとか、感動がないというのは寂しい気がします。感性が足りないといって非難するのは避けなければなりません。ただ、そうした無感動でいる人に対しては、気の毒だ、としかいいようがありません。

どうしたら感動の瞬間を捉えることができるでしょうか。それは、世の中の動き、例えば政治や経済のこと、身の回りで騒がれる流行とかファッションといったことに「どこかおかしい」とか「不思議だな」、「どうしてなんだろう」というある種疑いの感覚を持つことではないかと思うのです。卑近な例でいえば、昨今の裏金問題で記憶喪失のような政治家の発言、多様性とやらをうたう議員たちの研修や親睦の在り方、不倫などの不貞行為で議員辞職、選挙と学歴詐称、武力の放棄を宣言したこの国が、今続いている中東での争いに反対することを宣明にしないことなど、理解に苦しむことは枚挙に暇がありません。こうした不可解な現実に対して選挙で鉄槌を下すべきなのですが、依然として社会の仕組みが変わらないのが現実です。これは有権者の「思考の停止」の結果と言わなくてなんでしょうか。

留学体験と語学の関門

「喉元過ぎれば熱さを忘れる」、「水に流す」、「線香花火で終わる」、「耳にたこができるほど聞かされる」「熱しやすく冷めやすい」といった諺があります。森友加計や公文書改ざん問題、裏金の疑惑は一体どこへ吹っ飛んだのでしょうか。こうした世相にあって、最近、一政治家の学歴詐称について、それに一部加担したことを吐露した人の手記が報道されました。その方はどこかにその罪意識がもたげ、良心の呵責に耐えかねて声を挙げたといわれています。

Campus of Brown University

卒業したと詐称するのは大学の質や権威をおとしめるだけでなく、学問そのものに対する挑戦といわなければなりません。卒業というのは、4年間や6年間の厳しい学びの果実が実り、それが晴れて認められることです。卒業証書によってそれが公にされるのです。とりわけ海外の大学の卒業というのは、国内の大学を卒業する以上に苦労が多いものです。言葉の問題がそこに立ちはだかるからです。専門の勉強はもちろんですが、その前に語学が第一の難関として立ちはだかります。レポートを書いてみても、文法上は正しくても、大学院生に徹底的に直されるのです。高校時代に文法を学び、英訳、和訳は得意だったはずなのですが、現地の人々には通じないことがわかってきました。自分のなかのかなりの自信が揺らいだのが大学生活で文章を書くという行為でした。卒業という目標の前に、こうした科目や単位を取得するうえでの障壁のようなものを感じたものです。

留学というのは一種の恐れが伴うものです。私の個人的な体験では恐れとは単に言語の問題だけでなく、それまでやってきた学問めいたことが、十分に基礎の上に立ったものだろうかという恐れです。それを体験したのが、最初に履修した科目の試験で酷い点数をとったときでした。それ以来、勉強の仕方を変えることにしました。授業が終わると記憶が冷めないうちに、メモをとっていた単語を繋いで文章化し、そこから授業の内容を再現するというやり方です。それ以来、落第点をとることはなくなりました。その間、レポートを修正してくれるセンターにせっせと通い、文法的に正しい文章ではなく「通じる文章」にするコツのようなものを習得していきました。特に英語の表現技法を学んだのが貴重な体験となりました。大分あとになって帰国してから、「英語で教育研究論文をどうかくか」といった少々冷や汗もののような本を出版するまでとなりました。そのポイントは、接続(Transition)、修辞法(Rhetoric)、簡潔な文章ということを強調する小本です。日本の高校や大学では、レポートや小論文を作るときに、表現を洗練し文章に説得力を持たせる技法は教えられません。

学歴詐称と「ディプロマ・ミル」

今、問題になっている東京都知事の経歴詐称や学位記偽造に関してです。外国語というのは、だれにとっても学問研究で大きな障壁のようなものです。特に我が国であまり知られていないアラビア語を国語とするエジプトの公用語は古代アラビア語である「フスハー」(Hussha)の名で知られています。エジプトの歴史や文化に興味を持つ知識層が学んでいるだけであり、これを話せる国民は極めて少ないといわれます。日常で使われているのはアラビア語エジプト方言といわれます。知事が4年間で難しいフスハー語の教科書で勉強し、大学の授業を受け、レポートを書き、試験にパスしたと主張するのは無理な話です。

学歴詐称の例

日本の多くの人々が知らない組織に「ディプロマ・ミル」(diploma mill)、または「ディグリー・ミル」( degree mill)があります。大学に就学せずとも金銭と引き換えに高等教育の「学位」を授与する会社・組織・団体・非認定大学のことです。こうした活動は学位商法と呼ばれます。アメリカ英語のスラングで、入学卒業が非常に容易な大学は、皮肉をこめて「ディプロマ・ミル大学」と呼ばれます。アメリカ合衆国のみならず世界中の有名大学では、卒業認定は厳格であるのは当然であり、「ディプロマ・ミル大学」は一笑に伏されます。

実在する大学の学位、すなわち卒業証書を偽造して授与する商法は世界中に広がっています。そして偽造技術も高度化していて本物かどうかを見分けるのは難しくなっています。このように金さえ払えば卒業証書を偽造するのはいとも簡単なことです。今回の学位記やカイロ大学声明文などの存在は、「ディプロマ・ミル」を利用した巧妙な手口の産物と考えられます。このアラビア大使館のフェイスブック(Facebook)に掲載されたという声明文がなぜかアラビア語で書かれず、英語が書かれ、そして日本語に翻訳されるというのは不可解なことです。難しいアラビア語による学業をまともに励んで卒業したとは考えにくいのです。ましてや首席で卒業などと主張するのは全くの茶番劇です。

カイロ大学の卒業証書が偽造で、なお経歴にカイロ大学卒業とかを記すとこれは外交上の問題になりかねません。なぜならカイロ大学は勝手に大学名を使われ、なお卒業したなどと名乗られると困惑するのはもちろん、東京都や日本国政府がエジプト政府やカイロ大学から抗議されかねないのです。カイロ大学の名誉に関わることです。このような偽造は、例えば私が「東京福祉大学」なる大学を正式に卒業していたとして著作や選挙運動で「東京大学」と称したらどうなりますか、東京大学側は、そうした行為に迷惑し、場合によっては抗議するのは当然なのです。

腐敗認識指数とエジプト

都知事は、「事実を明らかにしない、事実の裏付けをしない、黙り込むことに限る」と考え逃げ切ろうとしているようです。ノーコメントで押し通そうしているわけで、今年の都知事選挙で現知事が出馬するとなれば、選挙公報にカイロ大学卒を掲載するのかしないのかが関心の的となります。掲載しないとなると、「やっぱりカイロ大学卒は嘘だった」といわれるでしょうし、学歴を再度掲載するとなれば、「カイロ大学から訴えられ、外交問題に発展しかねない」かもしれません。彼女はエジプト政府に弱みを握られており、エジプト側は、彼女は自分たちの子飼いだとみなし、大事な金ずるとなっていきます。カイロ大学は、日本という先進国の元防衛大臣や環境大臣を歴任し都知事となっている政治家を輩出したと喧伝したいのです。都知事はエジプトの広告塔のような存在なのかも知れません。彼女は出馬についてはどっちみち板挟みになるのは明白です。それを避けるためには、政界から引退するという選択もあるかもしれません。全く唾棄したくなるような最近の選挙や政治、そして記者会見や新聞報道における大手メディアの消極的な姿勢です。

文芸春秋社からの出版による「女帝:Y. K.」などに対して、Y. K.は個人的な中傷だという理由で提訴できるはずなのに、「政治家は抑制的であるべき」などと弁明して提訴しないのは、提訴すると証拠の品を提出させられ、結果として嘘がばれるからだと考えるからです。「荒唐無稽な噓」が通ってしまうでしょう。都知事が、これだけの疑惑をもたれながら非難をかわしている理由はどこにあるのかです。ここにはカイロ大学とエジプト政府の現状を考える必要があります。

エジプトという国は長い間、軍事政権下で独裁体制が続き、今も政情が不安定な状態が続いています。世界各国の腐敗や汚職を監視する国際的な組織にNGO「トランスペアレンシー・インターナショナル(Transparency International)」があります。この組織は、賄賂、公権力の乱用、公的サービス分野での縁故主義、利益相反防止・情報開示などを基にしてクリーン度を公表しています。点数が高いほど汚職が少ないことを示します。2024年1月30日に発表された「2023年度腐敗認識指数によれば、首位はデンマーク、日本は16位、アメリカは24位、そしてエジプトは108位となっています。汚職や不正がはびこるエジプトが108位にあることは納得できそうです。

腐敗認識が低いエジプトでは卒業工作はいとも簡単にできるといわれます。例えば、クーデターにより就任した現大統領アブドルファッターフ・シーシー(Abdel Fattah El-Sisi)が大学学長に対して「誰それの卒業を認めよ」という指示をすると学長は職員に卒業証書を作成させることができるのです。政治家は誰それから賄賂を貰ってこうした工作を大学にさせるのです。そして学長にも賄賂の一部が回ってくるはずです。なぜなら、国立大学のカイロ大学の学長は、大統領が任命するので、証書の作成は日常茶飯事、政治家や軍人の命令で自由自在に行えるのです。そこで問題となるのは、こうした粉飾賄賂を渡したのは誰かということです。都知事がこの賄賂に関わっているのでは、と勘ぐるのはあながち間違いではなさそうです。2015年5月、現大統領のシーシーはカイロを訪問した日本エジプト友好議員連盟会長で元防衛大臣であった都知事と会談し、教育、防衛分野における協力関係を話し合ったといわれます。二人は旧知の仲であることも念頭に置く必要があります。

詐欺と嘘のパタン

エジプトはアラブ諸国、とりわけ石油産出国の盟主です。日本は石油の安定的な確保のために、エジプトなどに政府開発援助(ODA)による無償資金を与えています。東京都もエジプトなどへ視察と称して職員や若者を派遣し交流を深めています。令和4年11月には都知事は都職員10名に及ぶ随行団を連れてカイロ大学などを訪問しています。学歴詐称疑惑を否定する「カイロ大学声明」を出してくれたモハンマド・エルホシュト学長(Mohammad Elkhosht)に対し、都政と全く関係ない「カイロ大学に対する協力(無償援助)拡大」を表明します。席上、「カイロ大学文学部日本語日本文学科の学生など約90名に向けて、わかりやすい日本語で講演会を行った」ということもHPで紹介されています。進級試験に落第したような語学力なので、アラビア語での講演は難しかったのでしょう。エジプト日本技術科学大学と東京都立大学との関係を強化し、都としても支援することを約束するなど、都知事のエジプトへの思い入れは相当なものと伺えます。これもカイロ大学なるものの声明のお礼であり、重大な弱みをつかまれていることを粉装しているとしか考えられません。

果たしてカイロ大学声明なるものが本当にカイロ大学から出たものかです。実は、勝手に架空のカイロ大学の事務局のようなものをでっち上げて、そこから声明が出たかのように見せかけているらしいという噂です。もしそうであれば、当のカイロ大学はどのように受けとめるかです。カイロ大学は、この架空の大学事務局を黙認しておけば、都知事への生殺与奪の権利を持つ立場にあると考えるはずです。都知事の弱みをつかんでいる以上、カイロ大学は、都知事対応を強い立場を維持することができます。もしかしたら、資金援助の要請すらできるのです。

嘘の反応


2024年3月の都庁での記者会見で都知事の記者からの質問に対する答えでは、知事はYES, NOを決して言わないのです。「嘘はつかないが、本当のことは言わない」の姿勢で学歴の詐称の疑いが深まったようです。肝心なことを聞かれると「記憶が鮮明でない」と言い逃れる有様です。記者の調査も不十分なせいか、会見での質問が誠にお粗末でありました。質問に対してYES, NOをいわないのに、なぜか記者たちはそれ以上突っ込んだ質問をしないという体たらくです。新聞紙上でも、記者会見の様子を報道したものは全くありませんでした。なぜかマスコミは沈黙化しています。

嘘のパタンについてはいくつかあるようです。最もみられるのは自分を防御することです。名声や財産などを守るためです。もう一つは自分をひけらかしたり背伸びする行為です。都知事の記者会見では、この二つが明らかにみられます。自分を防御したり、ひけらかすことの嘘は、あくまで自分にはカイロ大学卒の学歴があるという主張です。だから選挙公報などでそれを明らかにする自己正統性の主張です。

次ぎにはぐらかしの嘘の例は「あまり鮮明に覚えていない」という発言です。「あまり」ということは、YES, NOを明確にしない曖昧な態度のことです。これははぐらかす行為の典型で政治家が使うことが多いようです。「カイロ大学の意思で発出されたものだ」というのは権威にすがるような背伸びした行為といえます。自分が関わってはいない、あくまでカイロ大学の行為であるとしてはぐらかすのです。決して自分が頼んで声明を出させたなどとは認めないのです。嘘のパタンがそのまま映し出される公僕の醜い姿です。

                     2024年6月25日  成田 滋

         shigerunarita@gmail.com

権利の上に眠る者時効の考え方

注目

今般の都知事がカイロ大学を卒業したとする学歴詐称の疑いや、自民党の政治団体が政治資金パーティーの収入を政治資金収支報告書に記載していなかったことに共通する本質的な課題を権利の保護と時効という法理から捉えてみます。

卑近な例として、ある人が借金をして催促されないのを幸いとして、ねこばばを決め込んで得をし、善人者が貸した金を取り戻せないことになる場合があります。なんとも不心情な話に思われます。しかし、催促や督促をしない者は、権利の上に長く眠っている者とみなされ、保護されないことが起こるのです。返済を催促する行為によって債権の時効を中断することが大事だということです。単に自分は債権者であるということに安住していると、ついには債権を喪失するというロジックのなかには、今般の学歴詐称や政治資金収支報告書不記載という問題に関連する重大な意味があると思われます。

日本国憲法の第十二条は次のように規定しています。「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。」この規定は基本的人権が憲法九十七条の基本的人権の由来と特質という次の規定と対応しています。つまり「日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果である。」自由とか権利という基本的人権は、それを不断の努力によって保持することが大事だというのです。このような「権利の上に眠ること」は、怠惰の行為であり、保護されないというのです。然して基本的人権の獲得という歴史的な歩みは、これからも将来に向かって継続すべき責任があるという教訓を残しています。

国民は憲法によって主権者となりました。ですが主権者であることに安住して、その権利の行使を怠っていると、いつか主権者でなくなっているという事態が起こります。ヒットラーの権力掌握や、我が国の軍部による特権的な地位による統制などの歴史であります。私たちが社会や生活の中で、自由だ、自由だといって自由であることを謳歌している間に、いつのまにかその自由の実質は空疎にならないとも限りません。自由は置物のようにどこかあるのではなく、実社会の現実でその行使によって守られる、いいかえれば日々自由になろうとする行為によって、はじめて自由でありうるということなのです。

その意味では、今日の自由とか権利というものは、世の中の動きに無関心で、毎日の生活さえ安全安心で暮らせたら、物事の判断は他人や職業政治家にあずけておけばよいと思っている人には無縁なもので、しかしそれは極めて危ない状態にあるのです。さきほどの債権者のように権利の上に眠る者と同じなのです。このように学歴詐称や政治資金収支報告書不記載に関わる問題から、以上の「権利の上に眠ること」、「権利を行使すること」と著しく共通する精神を読み取ることができます。

今般の都知事の学歴詐称問題を「権利の上に眠る者」に関連して言及してみましょう。公職選挙法235条は、虚偽事項の公表罪をうたい、当選を得る目的で候補者の身分、職業、経歴などに関して虚偽の事項を公にした者は2年以下の禁固または30万円以下の罰金に処すると規定し、その時効は3年となっています。「カイロ大学卒業」という選挙公報の記載の真偽がなんであれ、なんの異議の申し立てがなかったので時効となりました。いわば債権が消滅したのです。都知事は権利の上に眠る都民の在り方にほくそえんだのです。

次ぎに、裏金と政治資金収支報告書の不記載問題です。この不記載問題は、どうや20年以上の前から続いていたようです。しかし、誰も最近まで不記載を問題視したり、告発する者がいなかったのであります。つまり職業政治家を含めて国民も「権利の上に眠る者」であったために、「5年」という時効によって多額の金銭が一部の政治家の懐に入って闇に葬られてしまったのです。これは不記載を告発しなかったことにより、「政治家は時効によって救われた」のです。

このように、時効の考え方というのは、たとえ正当な権利者であったとしても、一定の期間、その権利を行使・維持するために必要な措置を採らなかった者を保護する必要はないという原則なのです。確かに意図的に不記載をして、その問題点を知っていても、誰も咎める者がいないのならば、罰せられないというのが民法の規定なのです。

時効のもう一つの考え方です。本来は正当な権利者であったとしても、長期間が経過した後にはそれを立証するのが困難になることがために、過去に遡っての議論に一定の限界を設けるのが時効です。つまり、かなり前に不記載問題があったとしても、それを立証するものがないときは、問題視しないという考え方です。立証の困難なことを救済するのです。つまりそうした職業政治家の責任を問わないのです。必要な措置を採らなかった者が損をする、自己責任であるという考えです。

民主主義とは、本来制度の硬直化や自己目的化を不断に警戒し、制度の現実を絶えず監視したり批判することによって始めて作用します。債権は行使することによって債権者となるというロジックは、現代社会におけるものごとの判断の仕方を深く規定しているエートスといえます。

(投稿日時 2024年6月13日)         成田 滋  shigerunarita@gmail.com

憲法改正論議を考える洞窟の比喩

注目

学者や政治家の間には、憲法改正の是非は結局国民自身が決めるべき問題であるという、それ自体もっともな主張によって、自分の態度表明を明らかにしなことが見られます。実際は自分の立場は決まっているのですが、現在それを表明するのは具合が悪いので、もう少し世論がそちらのほうに動いてくるのを待とう、あるいはもっと積極的に世論をその方へ操作誘導してから後にしようという戦術があるようです。また形勢を観察して大勢の決まる方に就こうとする日和見派もあるようです。

憲法改正問題は次の総選挙において大きな争点の一つとなると思われます。その結果によっては来るべき憲法第九条の改正が、国民投票において最後の審判が下されるべき話題となるはずです。いうまでもなく国民がこの問題に対して公平な裁断を下しうるためには最小限、いくつかの条件が満たされていなければなりません。第一は通信手段や報道のソースが偏らないこと、第二に異なった意見が一部の職業政治家、学者、評論家といった階層の人々の前にだけでなく、あまねく国民の前に公平に紹介されること、第三に以上の条件の成立を阻む、もしくは阻む恐れのある団体の示威行為、破壊活動防止法の発動、公安機関の登場を阻むことです。

真摯な動機から憲法改正を国民の判断に委ねようと主張する人々は、必ず以上のような条件を国内に最大限に実行する道徳的責任を感じなければなりません。憲法の護持や改正を謳う人々が、以上のような条件を無視し、もしくは無関心のままに国民の判断を云々するなら、国民は正しい判断ができるかは疑わしいと思われます。

現在、新聞やテレビ、インターネット上のニュースソースが偏っていたり、必ずしも嘘をついているとはいえないまでも、さまざまな意見が紙面や解説で公平な取り扱いを受けないことが見受けられます。全体主義国の独裁や海洋進出への批判などが多出するなか、アメリカの外交政策の批判やグローバリズムの問題はあまり取り上げないとか問題視しない状態、別な表現でいえば言論のフェアプレイによる討論を阻んでいる諸条件に対して、特段の異議を唱えることなしに、ただ、世論や国民の判断をかつぎだしてくるのは、早計であるといわざるをえません。現在の大手の新聞やマスコミの記事の取り上げ方にフェアプレイの姿勢が欠如していることを重々承知のうえで、逆にそれを利用して目的を達成しようという魂胆を持った政治家がいるのも事実なのです。

そこで注目したい報道がありました。2024年5月3日の東京新聞の社説です。私たち国民は、この10年間、囚人のように洞窟に閉じ込められ、政権が都合よく映し出した影絵を見ているのではないかというのです。これは、ギリシャの哲学者プラトン語る「洞窟の比喩」というエピソードを引用しています。囚人たちがいる洞窟の壁に影絵が映ります。囚人はその影絵こそ真実だと思っています。ある1人が洞窟の外に出ます。そこで見る世界は洞窟の影絵とは似ても似つかないのです。その者が洞窟の奥に戻り、囚人たちに自分が見た世界を語ります。でも洞窟の囚人たちは誰もその話を信じようとはしません。政権が都合良く推し進める風景が影絵なのですが、それを信じこまされているというのです。国民は、ようやく洞窟の外に導かれて数々の忌々しい影絵の実体を知ることになりました。

現在、職業政治家が使う言い回しの一つが「大国間競争や地域紛争で世界秩序が一段と不安定し不確実性が高まっている」ということです。確かに国際秩序は危機に瀕しているといわれます。大きな原因は、アメリカの国際社会への関与が弱まりつつあること、中国等の最大貿易国が強大な経済力に持つようになったことです。中国は海洋進出を続け、国際法違反を繰り返しています。加えて深刻な問題はロシアのウクライナ侵略などは、紛れもない国際法の違反行為です。こうした情勢を錦の御旗のように掲げて、防衛力の抜本的な増強、すなわち「国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険」に備えるとしています。それを憲法第九条改正の根拠とするのです。

新憲法の精神を誉め、宣伝した学者や子ども達にその精神を教えてきた教育者の中には、今や「あれはGHQによって押しつけられたものである」と言う者がいます。国際情勢などにあまり関心も知識もない人ならともかく、少なくとも人並み以上にそうしたことに通じているはずの政治家や学者、評論家、教師などが「当時はまだ米ソがそれほど対立していなかった」という理由から戦争放棄の条項を説明し、今やそうした状況は変化しているという「事情変更の原則」を持ち出して憲法改正の伏線にしようとしているのです。

ところが第二次大戦の終了と同時に冷戦の火蓋は既に切られていました。その代表が1946年3月のウィストン・チャーチル(Winston Churchill)の演説です。「バルチック海のステッティンからアドリア海のトリエストにいたるまで、大陸を縦断する鉄のカーテンが降りている」と警告するのです。「全体主義と闘う世界中の自由な国民を支援する」という共産主義封じ込め政策であるトルーマン・ドクトリン(Truman doctrine)が宣明されたのは1947年3月です。アメリカ大統領トルーマンが、共産主義または全体主義的イデオロギーに脅かされているあらゆる国へ経済的、軍事的援助を提供すると宣言したのです。

ちなみに、現行の憲法草案要綱が内閣から発表されたのは1946年3月、その後審議修された結果、8月に衆議院を通過、貴族院での学者や政府当局者との論戦ののち、衆議院が再修正に同意し、かくて同年11月3日に公布され、翌1947年5月3日に施行されるのです。このように冷戦の真っ直中に憲法は施行されたのです。憲法の前文にある一切の武力を放棄し「国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓う」と謳ったのは決して四海波静かな世界においてではなく、米ソの抗争が今日ほどではないにしても、その緊張状態が世界的規模において繰り広げられることが十分に予見される情勢の下において施行されたのです。こうした冷戦の開始と進行にも拘わらず、敢えて非武装国家として新しいスタートを切ったところにこそ現行憲法の画期的な意味があったといえましょう。
成田  滋
(2024年5月10日)
                  shigerunarita@gmail.com