ヨセミテ国立公園での休暇 その1 大規模な山火事が

「心に残る名曲」は少しお休みします。

今、カリフォルニア州の東側に広がるヨセミテ国立公園(Yosemite National Park)は、再び大規模な山火事に見舞われています。私は家族とでヨセミテ公園で一週間の休暇を楽しみました。山火事が発生する前の7月1日から6日の間です。この時期を選んだのは、ボストンにいる長男で、集まった13名の一族が生活するロッジを予約できたからです。ここで3食の食事を作り長閑と過ごすことができました。

ヨセミテ公園に行くにはサンフランシスコで車で4時間、ロサンゼルスからは約6時間のところにあります。マリポサ郡(Mariposa)及びトゥオルミ郡(Tuolumne)にある自然保護を目的とした国立公園です。ヨセミテ公園は、スペイン語で「雪の山脈」と呼ばれるシエラネバダ山脈(Sierra Nevada)の中央部に位置し、公園の面積は3,081平方キロメートル。ちなみに日本で最も広い大雪山国立公園は2,268平方キロメートルです。Yosemiteとはネイティブ語で「灰色熊」という意味だそうです。ここには年間350万人以上が訪れるのですが、そのほとんどが集まるのは、公園全体の1パーセントにも満たないヨセミテ渓谷(Yosemite Valley)です。私たちが泊まったロッジから車で一時間のところです。

1984年に世界遺産に登録され、急峻な白い花崗岩の絶壁、数百メートも流れ落ちる多くの巨大な滝、谷間を流れる澄んで冷たい大小の川、ジャイアントセコイア(Giant Sequoias)の巨木の林、生物の多様性によって、世界的に知られることとなります。公園全体の約95パーセントは原生地域に指定されています。

心に残る名曲 その五十 チャイコフスキーと日本人 その二 ロマノフ王朝

チャイコフスキーは、1860年代の革命思想の高揚の時代と、それに続く反動的な悲観的時代に生きた作曲家です。音楽院時代は、ルビンシュタインの家に寄宿し、ルビンシュタインが主宰する芸術家サークルを中心に、作家、詩人、音楽家、俳優、学者らと知遇をえます。彼の作曲の出版を引き受けたのがロシア最大のクラシック音楽の楽譜出版社ユルゲンソン(Pyotr Yurgenson)との出会いも幸いしたといわれます。

交響曲第4番と5番は「宿命」の主題に貫かれながらも、民族的な楽曲の喜びに達したといわれます。第4番の第一楽章(first movement)は暗さのなかにロシアの将来を暗示するかのような劇的が印象を与えてくれます。

晩年のチャイコフスキーは次々と作品を残します。1887年の組曲第4番、1888年の交響曲第4番、1889年の眠れる森の美女、1890年のオペラ、スペードの女王、1892年のくるみ割り人形、1893年の交響曲第6番「悲愴」などです。ロシア革命がひたひたと迫る頃です。

心に残る名曲 その四十九 チャイコフスキーと日本人 その一 音楽院時代

今回はロシアの作曲家チャイコフスキー(Pyotr Tchaikovsky)の話題です。チャイコフスキーといえば「白鳥の湖」とか「くるみ割り人形」、「眠れる森の美女」などのバレー音楽が知られています。明るく軽やかな印象を受ける曲です。それが日本人にはチャイコフスキーが親しみやすい作曲家として定着している理由でしょう。しかし、チャイコフスキーの曲想はバレー音楽のように華やかではありません。実は絶望と歓喜というロシア独特の風土によって揺れ動いた作曲家なのです。

小さいときから家庭教師について音楽を学び、ピアノと音楽理論に触れます。母親も美しい声の持ち主で、チャイコフスキーもピアノでの即興演奏を試みていたといわれます。

1852年にチャイコフスキーは、ロシア帝国の首都であったペテルスブルグ(St. Petersburg)の法律学校で学びます。卒業後は法務省の九等文官となります。1861年にロシア音楽協会が新設した音楽学校に第一期生となり、職業音楽家の道を歩み始めます。1863年に音楽学校は音楽院(Moscow Conservatory)として改組され、音楽院の院長はルービンシュタイン(Anton Rubinstein)というピアニストで作曲家でありました。

ルービンシュタインらからは管弦楽法を学びます。その後音楽院の教師となりハンガリーの作曲家リスト(Liszt Ferenc)やフランスのベルリオーズ(Louis Berlioz)などの影響を受け、大きな楽器編成の曲を作り始めます。しかし、あまりに異端的な技法であるとして、音楽院の教師らからは不評であったようです。まだ音楽院ではそうした技法は許されていなかったからです。