心に残る一冊 その101  「追いついた夢」

女の名はおけい。年は十七歳です。和助は風呂場で湯に温められたおけいの肌を眺めて「千人に一人もいないというのは本当かもしれない、たしかに他の女達とはちがう、他の女にないなにかがある」と呟きます。

ほどなくしておけいは風呂から上がってきます。
「こちらに来てお坐り」
「私はぜひ世話をしたいと思うが、おまえの気持ちはどうだ、私の面倒をみてくれるか?」
「はい、こんな者ですけれど、お気に召しましたらお願いします」
「私は遁世したいのだ、世間からも人間からも離れたい、煩わしい付き合いや利欲のからんだ駆け引きとすっぱり手を切りたいのだ」

こうしておけいは和助の妾宅へ引っ越すために、住んでいる長屋にやってきます。母親のおたみは三年も病床に伏しています。それを隣の女が面倒をみています。おけいは和助との約束のあらましを話します。

おけいの父、七造は植木屋の職人をしていました。以前は京橋あたりの質屋にいました。おたみはその店で養女でしたが、七造と愛し合っていました。婿をとることになったので隠しきれず、結局義絶となって二人とも追い出されてしまいます。義絶とは肉親との関係を絶つことです。酒も煙草も口にせず何の道楽もない七造は急死します。その日から暮らしの生計がおけいの肩にかかってきます。

七造のかつての同僚、職人の宇之吉がおけいの力になっていました。彼の息子があるとき木登りで遊んでいて落ち、腿骨を折ってしまいます。医者の骨接ぎがまずかったのか、折れた部分が膿み出してそれがもとで死んでしまいます。「貧乏人は医者にも満足にかかれない、病気になったらおしまいだ」と宇之吉やおけいは嘆きます。

和助は金銀地銀の売買や両替をしていました。銀座に店を構え高利の金融にも手を出していました。和助はおけいを案内し、水天宮の近くで辻駕籠を拾い、途中なんども乗り換えて目黒を経て玉川の近くにやってきます。千坪あまりの広い土地に家がありました。妾宅です。吾平ととみという老夫婦が二人を出迎えます。

和助はお茶を飲み終えるとおけいに家の中をみせてまわります。土蔵を開けると云います。
「この中に金や書き付け、大金がしまってある、私が何十年とかかって集めたものだがね、、」
「おまえがよく面倒をみてくれれば、いつかこれがみんなおまえの物になるんだよ」

和助はおけいに五、六日のうちに戻ってくるといって、銀座の店をたたむため出掛けていきます。和助にはお幸という妻と十三年連れ添ってきました。二人でつかの間の会話をします。和助はすっかりお幸との情が消えています。五、六日のうちにかえると云った和助はそれっきり姿をみせず、使いたよりもありません。和助がおけいのところに向かう途中、卒中で倒れたのです。和助は六郷在の御救小屋で身許不明のまま死んだということです。

それから二年後。おけいの調布の村におたみが引き取られて寝ています。かつての許嫁の宇之吉と妹も一緒です。吾平夫婦が一緒に暮らすことをすすめたのです。
「ここに地面を借りて、おけいちゃんの側で暮らすことができれば、おれはそれだけで十分だ」
「、、、ね泣いてもよくって宇之さん、」
「、、、いつか大島町の河岸で云ったんじゃないの、こんど二人が一緒になれたときは泣けるだけ泣きって、、」

心に残る一冊 その100  「おもかげ抄」 小房は椙江

「おもかげ抄」の二回目です。鎌田孫次郎のところに沖田源左衛門が訪ねてきます。荒れ果てた長屋の部屋ですが、塵一つとどめぬ行き届いた掃除、源左衛門には孫次郎の人となりが察せられます。経机の前に坐り、唱名しながら香を上げ、ふと仏壇を見上げたとき、「あっ」と低い声を上げます。仏壇に掲げてある小さな女の絵姿を暫し見つめています。
「これがご家内のお姿でござるか?」
「はあ、同郷の朋友に絵心のある者がござって、戯れに描いた似顔絵が形見となっております」
「、、、、、ふしぎに似ている」源左衛門は呟きます。

源左衛門の倅、千之助に稽古をつけて去ろうとしたとき、源左衛門が一人の娘を連れて出てきます。孫次郎は娘の顔を見るとさっと顔色を変えて立ちすくみます。
「これは千之助の姉、小房と申す不束者、お見知りおき願いたい」
「は、は、拙者こそ」
「下手ながら娘が茶を献じたいと申す、ご迷惑でなかったお上がりくださらぬか」
「他に少々お話もござるが、、」
「お邪魔仕ります」
「話といっても外でもござらぬ、鎌田氏には二百石でご仕官するお望はござらぬか?」

お茶とともにすすめられ菓子を孫次郎はじっと見つめます。そして敷紙に包むと源左衛門の「もう一杯茶を召し上がれ」と云うのを振り切るようにして暇します。家に帰ると包みを仏壇の前に供えると、崩れるように坐ります。
「椙江、、そなたの好きな蒸し菓子だぞ、そなたの好きな、、、」
「生前であれば欲しがっていた菓子が今になって手に入った、そなたが死んだ今になって二百石の仕官、、、今になってこの蒸し菓子がなんになる、出世がなんになるのだ、」
「嫁してくるが否や、主家を浪人して五年、佳き家柄に育ってなんの苦労も知らぬそなたが無残な貧に痩せてゆく姿、、、」
「薬も満足に与えられなかった貧苦の中で衰え果てたままそなたは死んだ」
「、、そして今になって、出世の緒口、そなた亡き今となって、なんのために二百石を取ろうぞ、、椙江っ、」 
孫次郎は声を忍んで泣くのです。

長屋の差配、六兵衛に当地を立退くことを伝えます。暗いうちに浪宅を引き払った孫次郎、貧しい着替えの包みにしっかりと妻の位牌をおさめ、見送りがきては面倒と足早に浜松の城下を西へ向かいます。その時です。
「お待ち申して居りました」
旅姿の女が現れ孫次郎は一歩退きます。
「どなたでござるか?」 女は笠をとります。恥じらいを含んで見上げる顔は源左衛門の娘小房です。眉をそり、お歯黒の姿となっています。
「こなたは、、、小房どの」
「いいえ、いまは椙江と申しまする」
孫次郎は自分の耳を疑います。
「椙江、、椙江、、?」

「どうぞこれをご覧遊ばして」
小房はそう云って一通の書状を孫次郎に渡します。それは源左衛門の達者な走り書きです。親切を徒にして立ち退こうする身を、武士と見込めばこそ娘の眉を落とし歯を染め名を変えるのみか、亡く人の再生と思え、とまで云い添えてあります。
「それ程までにこの孫次郎を、、」
源左衛門の身にしみる情宜に孫次郎、胸をうたれるのです。

「今は何ごとも申し上げぬ、旅の不自由ご得心でござるか」
「どこまでもお伴をいたします」
「では、、、、紀州へ参ろう」 孫次郎は手紙を巻き納めます。
「高野の霊場へ納めるものがござる、その供養が終わったら直ぐに浜松に戻りましょうぞ」
「行って帰えるまで二十日、帰ったらそこもとと改めて祝言だ」

心に残る一冊 その99  「おもかげ抄」 鎌田孫次郎

山本周五郎の「小説日本婦道記」に収録されている「おもかげ抄」です。
浜松の裏街道にある家作へ引っ越してきたのが鎌田孫次郎です。年の頃は二十八、九。上背があり立派な体つきで色の浅黒い、眼の涼しいこのあたりでは珍しい美男です。家作とは借家のことです。

魚売りの金八が長屋の周りの者に云います。
「まあ、聞きね、」「表へでて洗濯をしているじゃねえか」、「奥様のお加減でもお悪うございますか」と訊いたんだ。「するとその返辞がふるってら、」
「いや別にとこも悪いと申すほどでもござらぬが、ちと我がまま、まあ朝寝がしたいのでござろうよ、とかくどうも女は養い難しでござる、、あはは、、」
長屋の女房達の間に孫次郎につけられた甘次郎、甘田甘次郎先生などの綽名がたちまち付近にひろまります。

二十日あまりが経ち隠居の六兵衛が孫次郎の浪宅を訪れます。
「ようこそおいで下された」と奥へ振り返って、「これ椙江、お客来じゃ、お茶をいれ申せ」とい云います。舌打ちをしながら「しようのないやつ、また頭でも病むと申すのであろう、我がままがつのって困る」

孫次郎がご用向きをきくと、空屋を寺子屋として子どもに素読の指南し、剣術も教えて欲しいというのです。孫次郎は二つ返事で引き受けます。初秋の昼下がり空き地で子ども達に剣の心得を教えていると、子どもが叫びます。
「向こうの原っぱでお侍が斬り合いをやっていますよ」

孫次郎も剣を持ってかけつけると、一対四の真剣勝負です。訊くと御意討となった侍の犬飼研作を四人が仕留めようというのです。犬飼の剣は鋭く四人の侍は歯が立ちません。孫次郎は助太刀し犬飼を倒します。そこに一人の老武士が馬で駆ってきます。「あっぱれ、お見事」と思わず声をあげます。子ども達も空き地の隅で固まってみていました。孫次郎が戻ると「お師匠さまは強いな、、」と歓声をあげます。

二、三日経たある日、さきの老武士が前触れもなく孫次郎を訪れます。
「椙江、お客様じゃ、、」
「ご覧の如き浪宅、何のお構いもなりませぬ、どうぞお許しを」
老武士の名は沖田源左衛門という家臣の大番頭をしているという。
「お手前のほど、先日篤と拝見仕った、ご流儀は梶派でござるな」
「実は拙者も壮年の頃、梶派一刀流をわずか学びなしたので、太刀懐かしく拝見いたしました」

倅の千之助に梶派を教えて欲しいというのです。
「未熟の拙者、とても人に教え申すことなど出来ませぬが、折角の思し召しを辞するは却って失礼、宜しかったら型だけでも」
「ところでご家内はご病気でござるか?」
「はあっ、、、」

孫次郎はなぜかうつむきやがて席を立つと「ご覧ください」といって合いの襖を開けるのです。
甘次郎という綽名をきいていた源左衛門は、甘次郎と呼ばせる妻はどんな美人かとみると、次の間には小さな経机がひとつ、仏壇のまえに据えられていて、ゆらゆらと線香の煙が立ち上っています。
「これは、、、、、」
「実は三年前に死去致しまして、、」
「すると先刻、奥へ声をかけられたのは?」
「お耳にとまって赤面仕る」
「仕合わせ薄き女にて、三年浪々の貧中死なせましたが、未練とお笑いくださるな」
「手前にはどうしても死んだと思い切ることができず、、」
「面影あるうちは生きているつもりにて、あのような独り言を申し始めたのが癖となり、今日までそのまま、、、」

「いや佳きお話を承った、亡き人へのそれほどの御愛、未練どころか却ってお羨ましゅう存ずる、拙者もご回向仕ろう」

心に残る一冊 その98  「三年目」 人情裏長屋から

山本周五郎が得意とする長屋に暮らす市井の人々の物語です。

友吉はいい大工職人でした。五郎兵衛町の広田屋伊兵衛という大工のもとでずば抜けた腕を発揮し、17歳のときにはすでに一人前の手間取りになっていました。広田屋は当時左前で友吉と角太郎の二人しか職人をもっていません。伊兵衛は友吉を一人娘のお菊の婿にして広田屋を盛り返そうとします。

ところが伊兵衛は大怪我をし、臨終の前に友吉をとお菊が夫婦になるように遺言をします。友吉には賭博の癖があったので、「今日限りさいころは捨ててくれ」と言い残します。友吉は悪仲間と縁を切るために江戸から上方へ行き新規まき直しをする決心をします。

三年後、友吉が江戸に戻るとお菊の安否を尋ねてあるきます。堀の棟梁の息子、仁太郎という道楽者から、お菊は角太郎と深川近辺で所帯をもったことを聞かされるです。

降り続く雨で大川の水は濁って岸に溢れかかっています。新大橋は通行止めとなり友吉は入った居酒屋でお菊が角太郎と八幡様の裏の二階屋にすんでいることを聞きます。角太郎は友吉より一つ上、腕も達者というほどではなく、男ぶりもぱっとしない、ただ愚直で間違いのない仕事をするだけが取り柄でした。

雨の街へでたとき、友吉のこころはずたずたになっています。
畜生、あの顔で騙しゃがったか、、、
「中川の水門が壊れたぞ、、、」という声が響きます。
友吉は教えられた二階屋にやってきます。
「どなた、、、、船定さんからですか、、」
「、、、、あっ、お前は」
「友吉だ、驚いたか、」
「よくも、よくもおいらを騙しやがったな、、おいらこんなことを知らねえからおいらあ上方で三年、一口の酒も呑まず稼いだぞ、、」
そういって友吉はお菊を縛り上げ、押し入れに押し込みます。

そこに角太郎が帰ってきます。そして取っ組み合いの喧嘩なります。角太郎が云います。
「兄貴、あの時の約束を忘れたのか?おらあいったはずだ、たとえどんなことがあっても、お菊さんは大切に預かっているって、、」
「そんならなぜお菊と夫婦になった!」

死んだ広田屋伊兵衛が堀の棟梁に借金があって、その金を枷に若棟梁の仁太郎がお菊を妾にしようとしたことを云います。広田屋の再興には堀一家とは喧嘩ができないので、二人で夫婦になったとみせかけるしかなかったと説明します。

一階には水が入ってきます。押し入れられぐったりしたお菊を二人で助け上げるのです「、、、おらあ鈍な生まれつきだ、兄貴にとんだ心配をかけちまって済まねえ、、勘弁してくんな」
「角、、、、生きるも死ぬも三人一緒だ、おいらの馬鹿を笑ってくれ、」
「お菊、気がついたか、友吉だ、、、」
「友さん、、、、」