木枯らしの季節 その二十三 江戸幕末のオランダ人ーヘンドリック・ハーデス

ヘンドリック・ハーデス (Hendrik Hardes) は、幕末に来日したオランダ海軍の軍人で、日本最初の近代工場である長崎製鉄所の建設を監督した人です。カッテンディーケとともにやってきたオランダ第二次派遣隊の一人でありました。

幕府は、1855年12月に長崎海軍伝習所を開きます。やがて大型の造船所や修理所の建設が必要となってきます。当時伝習所の総監であった永井尚志はオランダに対し、建設要員の派遣を要請し、機械や類などの資材を発注します。永井は、外国奉行に任じられてロシア、イギリス、フランスとの交渉を務め、通商条約調印を行なった人物です。その功績で軍艦奉行として伝習所の総監になります。

fig1-01 43b1244f 20150219190501_21857年9月には、ヤーパン号(咸臨丸)と共にハーデスを始めとする建設要員11人も到着し、同年8月に長崎の浦上村に造船所の建設が始められ1861年5月に完成します。25馬力という蒸気機関で工作機械を稼動させたと記録されています。この造船所の建物用にハルデスは煉瓦作りを指導します。「こんにゃく煉瓦」、後にハーデス煉瓦と呼ばれます。明治初期の洋風建築にもよく使われた煉瓦です。

創設時は「長崎鎔鉄所」という名称でした。名前の通り、幕府の意図としては兵器生産などに必要な製鉄所としての機能を期待したようです。実際には練習船などの修理を行う造船所としての機能が大きかったようです。

長崎鎔鉄所では、幕府軍艦としては初の国産蒸気砲艦「千代田形」が建造されます。全長は31.3m、排水量は140トンで、装備は150mm砲一門というものでした。明治維新後、長崎鎔鉄所は長崎造船所と改称され、その後三菱重工業長崎造船所へと発展していきます。日本の造船業がやがて盛んになるきっかけとなります。

[contact-form][contact-field label=’お名前(公表することはありません)’ type=’name’ required=’1’/][contact-field label=’メールアドレス’ type=’email’ required=’1’/][contact-field label=’ウェブサイト’ type=’url’/][contact-field label=’コメントをお寄せください’ type=’textarea’ required=’1’/][/contact-form]

木枯らしの季節 その二十二 江戸幕末のオランダ人ーー”ポンペ” ・ファン・メールデルフォールト

ヨハネス・ポンペ・ファン・メールデルフォールト(Johannes Pompe van Meerdervoort) は、オランダ海軍の二等軍医です。ユトレヒト (Utrecht)大学で医学を学びます。幕末に来日し、オランダ医学を伝えた人です。そのとき28歳でした。松本良順ら弟子達12名に最初の医学講義を行なったのが1857年11月12日と記録されています。場所は長崎奉行所西役所医学伝習所。やがて伝習所は長崎大学医学部へと発展していきます。伝習所では治療もしていたようです。患者の身分にかかわらず診療を行ったことでも知られています。そのためでしょうか、その後日本人からは親しみを込めて「ポンペ先生」(Dr. Pompe!)と呼ばれていたといわれます。

277 42f8c532 f2046c94ポンペは母校のユトレヒト大学医学部では所定の課程を経たのではなく、短期の植民地医官養成過程とでもいうべきコースを受けたといわれます。ただ篤実で熱心な学生であったようで、残したノートには講義の内容を綿密に記載していたといわれます。物理学、解剖学、組織学、生理学総論及び各論、病理学総論及び病理治療学、調剤学、内科学及び外科学、眼科学など広範囲に教えたというのですから摩訶不思議な医師です。

近代医学史関係資料「医学は長崎から」によりますと、1849年に長崎のオランダ人医師オットー・モーニケ (Otto Gottlieb Mohnike) や佐賀藩の医師であった楢林宗健らが長崎で始めて牛痘種痘を始めます。ですがポンペは種痘法が日本に紹介されて10年ほど経過しているにも拘わらず,依然として長崎では多くの人々が天然痘で苦しんでいることに驚きます。行政当局に対して強制的に接種をしなければならないと説いたのがポンペです。
[contact-form][contact-field label=’お名前(公表することはありません)’ type=’name’ required=’1’/][contact-field label=’メールアドレス’ type=’email’ required=’1’/][contact-field label=’ウェブサイト’ type=’url’/][contact-field label=’コメントをお寄せください’ type=’textarea’ required=’1’/][/contact-form]

木枯らしの季節 その二十一 江戸幕末のオランダ人ーーヘルハルト・ライケン

幕末に来日してその後の日本の発展に寄与した三人のオランダ人を取り上げています。今回は二人目のヘルハルト・ペルス・ライケン(Gerhard Pels Rijcken)です。

220px-gcc_pels_rijcken_1860 pompekaikan nagasakinavaltrainingcenterオランダの海軍軍人のライケンは、幕府の軍艦建造の要望に基づきオランダ国王が幕府に寄贈した蒸気船スームビング号 (Soembing) の艦長であります。スームビング号は蒸気船で長崎海軍伝習所の練習艦となります。長崎海軍伝習所とは、幕府海軍士官の養成を目的としたものです。軍艦の操縦の他に造船や医学、語学などの様々な教育が行われたことが記録に残っています。

ライケンは大尉として1855年7月に長崎に到着し、スームビング号を幕府に引き渡します。この船はなぜか「観光丸」と名付けられます。幕府は同大尉以下22名の乗組員を教官として雇い入れ、長崎に海軍伝習所を開設します。教育班長となったライケンは正式なお雇い外国人として、二年間勝海舟らの幕臣や佐賀藩、福岡藩、熊本藩、鹿児島藩などの藩士に海軍の学科・技術などを教えます。また、オランダ海軍ピラール (J.C.Pilaar) の航海術書を教科書に用いて航海術に必要な基礎算術、代数、幾何、三角関数なども自ら教授します。藩士はオランダ語での教授をどこまで理解できたかどうか、はなはだ心配です。

次回紹介するメーデルフォールト(Johannes Pompe van Meerdervoort) は医学全般を教えます。これが日本における近代医学の始まりとなります。

[contact-form][contact-field label=’お名前(公表することはありません)’ type=’name’ required=’1’/][contact-field label=’メールアドレス’ type=’email’ required=’1’/][contact-field label=’ウェブサイト’ type=’url’/][contact-field label=’コメントをお寄せください’ type=’textarea’ required=’1’/][/contact-form]

木枯らしの季節 その二十 江戸幕末のオランダ人ーーカッテンディーケ

幕末に来日してその後の日本の発展に寄与した三人のオランダ人を取り上げます。ウィレム・ヨハン・カッテンディーケ (Willem Johan van Kattendijke)、ヘルハルト・ペルス・ライケン(Gerhard Christiaan Coenraad Pels Rijcken)、ヨハネス・ポンペ・ファン・メールデルフォールト(Johannes Pompe van Meerdervoort)です。

220px-kattendijke 20140426122818898 20150202-2最初はカッテンディーケです。彼は徳川幕府が発注した軍艦ヤーパン号を長崎に回航したオランダの軍人です。ヤーパンとはJapanのこと、後の咸臨丸です。幕府が開いた長崎海軍伝習所の第一代教官ペルス・ライケンの後任として第二代教官となります。海防意見書を出した勝海舟、オランダへ留学し帰国後、幕府海軍の指揮官となった榎本武揚などの幕臣に航海術・砲術・測量術など近代の海軍教育を精力的に教えて日本海軍の基礎を築きます。

カッテンディーケが著した『長崎海軍伝習所の日々』(水田信利訳)によると、カッテンディーケは日本人の女性を観察しています。この本にはなかなか面白い内容が記述されてます。

「日本では婦人は、他の東洋諸国と違って一般に非常に丁寧に扱われ、女性の当然受くべき名誉を与えられている。もっとも婦人は、社会的にはヨーロッパの婦人のように余りでしゃばらない。そうして男よりも一段へり下った立場に甘んじ、夫婦連れの時でさえ我々がヨーロッパで見馴れているような調子で振舞うようなことは決してない。」

「しかし、そうだといって、決して婦人は軽蔑されているのではない。私は日本美人の礼賛者というわけではないが、彼女らの涼しい目、美しい歯、粗いが房々とした黒髪を綺麗に結った姿のあでやかさを誰が否定できようか。」

[contact-form][contact-field label=’お名前(公表することはありません)’ type=’name’ required=’1’/][contact-field label=’メールアドレス’ type=’email’ required=’1’/][contact-field label=’ウェブサイト’ type=’url’/][contact-field label=’コメントをお寄せください’ type=’textarea’ required=’1’/][/contact-form]

木枯らしの季節 その十九 オランダと上野恩賜公園

なぜかオランダという国に惹かれる理由を考えてみました。一度の訪問、オランダ人研究者との交誼と紐帯、メイフラワー号の経緯と歴史、大航海に必要な地図の作製、航海術や帆船技術、蘭学の日本人への影響、シーボルトの探査と開国、司馬遼太郎の街道をゆく「オランダ紀行」などでしょうか。

ueno35 30751_fullimage_voc_overwinning_560x350_560x350 2be9403953f25dc657295fe01570cd9d「鎖国時代の日本にとって、暗箱にあいた針穴から射しこむほどのかすかな外光がオランダだった」と司馬はいいます。「プロテスタンチズムと資本主義の精神」の発露たる自律的で合理的な国民性が商業活動が育て、それが東インド会社につながりオランダに繁栄をもたらします。17〜18世紀のことです。江戸幕府も鎖国で唯一の交易相手国オランダに利権を与えながら、オランダの軍人や医者、技術者がもたらす西洋の文化をしぶとく吸収していくのが幕末と明治維新です。

アントニウス・ボードワン (Anthonius Bauduin)という軍医のことです。彼は長崎養生所、医学所教頭としてオランダ医学の普及に努めます。東京大学医学部の前身である大学東校と病院で働きます。さらに本国から後輩であるコーンラート・ハラタマ (Koenraad Gratama)を招聘して長崎および大阪で物理学や化学を教え日本の理化学教育の創始に貢献します。ボードワンは上野の自然の中に大学病院を立てる計画が持ち上がったときに、貴重な緑が無くなることを危惧し、一帯を公園にして残すことなども提言します。ボードワンらの努力で本郷に大学病院ができることになります。上野の恩賜公園にボードワンの業績を顕彰する「ボードワン博士像」が立っています。

[contact-form][contact-field label=’お名前(公表することはありません)’ type=’name’ required=’1’/][contact-field label=’メールアドレス’ type=’email’ required=’1’/][contact-field label=’ウェブサイト’ type=’url’/][contact-field label=’コメントをお寄せください’ type=’textarea’ required=’1’/][/contact-form]

木枯らしの季節 その十八 オランダとフランドル

木枯らしの候、なんともいえない心地良い響きの地名にフランドル (Vlaanderen、Flandern) があります。フランドル地方は、オランダ南部、ベルギー西部、フランス北部にかけての地域といわれます。日本では英語由来のFlandersですが、「フランダース」よりも「フランドル」の読みから暖かさを感じます。

image26

ORLANDO DI LASSO: MUSIC. Fastnachtslied, a German Leid, or solo song, composed by Franco-Flemish composer, Orlando di Lasso, 1547.

ORLANDO DI LASSO: MUSIC.
Fastnachtslied, a German Leid, or solo song, composed by Franco-Flemish composer, Orlando di Lasso, 1547.

nello-en-patrasche-3音楽では15世紀から16世紀にかけて、フランドル楽派と呼ばれる音楽家が輩出します。フランドル楽派は、ルネサンス(Renaissance) 音楽を代表する作曲家達の総称で、ネーデルランド(Netherlands)楽派と呼ばれていました。後のバロック (baroque)音楽の礎となりました。フランドル楽派の特徴は、複数の独立した声部からなる音楽、ポリフォニー(polyphony) にあります。ヤコブ・オブレヒト (Jacob Obrecht)、ジョスカン・デ・プレ (Josquin Des Prez)、ジョバンニ・パレストリーナ (Giovanni da Palestrina)、オーランド・ラッソ (Orlando di Lasso) らが作曲したミサ曲(mass)、モテット(motet)が有名です。

オランダにおける絵画も有名です。特にフランドル絵画は、毛織物業を中心に商業、経済が繁栄したことを背景にフランドル地方で発展したといわれます。バロック期にかけてルーベンス(Peter Paul Rubens) 、レンブラント (Rembrandt Harmenszoon van Rijn)、フェルメール(Johannes Vermeer)らが活躍します。

児童文学書で知られたのが「フランダースの犬 (A Dog of Flanders)」。舞台は19世紀のベルギー北部のフランドル地方です。少年ネロ(Nello)、祖父のダース老人(Jehan Daas)、忠実な老犬パトラッシュ(Patrasche)が主人公です。吹雪の中、ネロとパトラッシュはアントワープ (Antwerp)にある聖母大聖堂で憧れのルーベンスの二枚の絵の前にやってきます。キリストが十字架から降ろされる絵です。そして叫びます。

 ” I have seen them at last ! ” he cried aloud. ” O God, it is enough ! “

[contact-form][contact-field label=’お名前(公表することはありません)’ type=’name’ required=’1’/][contact-field label=’メールアドレス’ type=’email’ required=’1’/][contact-field label=’ウェブサイト’ type=’url’/][contact-field label=’コメントをお寄せください’ type=’textarea’ required=’1’/][/contact-form]