音楽の楽しみ その6 合唱曲の数々 「音楽は国の統治になにを及ぼしたか」

果たして音楽は国を造り国を変える力を有していたのかを考えます。国歌のない国はありません。国歌にしろ行進曲にしろ、国威の発揚に音楽は欠かせない要素です。それだけに国歌の存在は国旗と同じようなシンボルとしての役割を果たしています。

1967年に制作された映画「誇り高き戦場 (Counterpoint)」は、音楽が政治にどのような影響を及ぼしたのか、あるいは音楽と権力とは独立した活動だったのかを考えさせてくれる作品です。監督は「野のユリ: Lilies of the Field」のラルフ・ネルソン (Ralph Nelson) です。

第二次大戦中のヨーロッパ。アメリカ人指揮者のエヴァンス(Lionel Evance) は、慰問団として管弦楽団をひきいてベルギー (Belgium) を訪れます。一行が演奏会を開いた夜ナチスドイツ軍の総反撃によって全員捕虜にされてしまいます。そしてルクセンブルグ (Luxemburg) のドイツ軍司令部に送られます。司令部は楽団員の処刑を命じますが、エバンズの演奏に心酔していたシラー将軍(General Schiller)はそれを中止させます。

そしてシラーは、司令部内でエヴァンスに演奏を命じます。しかしエヴァンスは敵国のために演奏することをいさぎよしとせず、断り続けます。そのため楽団員は全員地下に閉じ込められてしまいます。映画の終わりでは、音楽の価値を理解していたシラーの取り計らいで全員脱出するというストーリーです。

音楽とは権力や戦争、あるいは民族の憎悪を生み出すこととは無縁であったはずなのですが、残念ながら利用されるという歴史を経てきました。音楽はナチスによってプロパガンダに利用されました。日本の軍部も八紘一宇の思想と運動において、音楽を駆使して国威の発揚につとめました。音楽によって民族主義は大いに高揚されたといえます。

「音楽ほど普遍的で、人間の行動に深く影響し、操作的に働く文化的な活動はない」といわれます。戦争中のできごとを通して、音楽が権力に及ぼした大きな役割も忘れてはならないことです。

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音楽の楽しみ その4  合唱曲の数々 「月光とピエロ」

「月光とピエロ」 という合唱組曲を取り上げます。作詞者は堀口大學。彼は大正4年に外交官である父親と共にスペイン (Spain) の首都マドリッド (Madrid) に赴いたようです。そのとき彼は23歳。そこで9歳年上で女流画家で詩人でもあるマリー・ローランサン (Marie Laurencin) と出会い交遊を深めていったようです。しかし彼女との恋は成就することはありません。

大學は「月光とピエロ」で自分を道化師 (ピエロ: pierrot) と宣言したようです。彼はピエロのなんたるかも承知していたようです。馬鹿にされながら観客を笑わせ、そこには悲しみを持つ存在として描かれるのがピエロとかクラウン (clown) です。「叶わぬ恋をする自分は所詮ピエロだ」という思いのようです。

月の光の照る辻に
    ピエロさびしく立ちにけり
      ピエロの姿白ければ
       月の光に濡れにけり

「月光とピエロ」を曲にしたのは清水脩です。この曲が発表されたのは1948年。戦後間もないすさんだ世相や渇いた青春時代にピエロという仮想の人物に自分を投影するかのように、多くの青年の心を揺さぶった「合唱組曲」です。「秋のピエロ」はもう半世紀を経ましたが、男声においてのみ表現しうる音程と音感を醸しだしています。曲調は高く低く、長調から短調へ、時に斉唱となり、大學の詩の中に包み込まれている愛や孤独、寂しさ、はかなさなどの情感を見事に表現しています。男声合唱の最高峰に位置する作品とされています。

合唱組曲というのは、いくつかの小品を組み合わせて、ひとつの組曲となっているものです。一ステージで一組曲を演奏するというスタイルは、今ではすっかり一般的になりました。清水は全日本合唱連盟の設立に関わっています。合唱の作曲家としては、この人の右に出る者はいないでしょう。次に紹介する「山に祈る」など、その作曲活動は目覚ましいものです。

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音楽の楽しみ その3 合唱曲の数々 「仰げば尊し」

音楽との出会いです。終戦間近のとき、樺太から母は私を含む三人の子供を連れて親戚を頼って美幌に引き揚げてきました。三人は5歳、3歳、1歳です。やがて美幌小学校へ入学しました。1年生の時の担任は「山本みかる」という方です。なぜこの先生を忘れないのか。それは単に最初の先生だったからというだけではありません。彼女は私の名前をきちんと覚え、とても優しいという印象が残っているからです。それと私の母のようにふくよかな面立ちの先生でした。高校生のとき、この先生は亡くなられたことを人づてに聞きました。

小学校3年生の担任は「横山エンタツ」先生でした。本名を書くのは憚るのであだ名とします。あまり良い印象を持っていなかったからです。私はいわばクラスではガキの仲間でした。エンタツ先生は我々のようなガキを嫌い、女の子をえこひいきしてました。それも比較的恵まれた家庭の女の子ばかりをです。無性に腹が立ちました。子どもなりに、こうした教師の感性はすぐ伝わります。不登校ならぬ不勉強がこうじて、その頃の成績は惨憺たるものでした。

1952年の3月に十勝沖大地震が起きました。学校の建物に大きなヒビがが走りました。その年の8月に大火が起こり、住んでいた鉄道官舎が燃えているのを学校の2階から眺めました。かつての木造二階建ての学校は、すっかり様変わりしています。

美幌小学校から名寄南小学校へ転校します。そのときの音楽の先生に「近藤艶子」先生がおりました。私が廊下で力道山の真似をしたプロレスをしているときに、「ついていらっしゃい、、」と音楽室に連れていった先生です。全くの音楽文盲状態の私に音符や楽譜の読み方を教えてくれました。まるっきり歌い方など知りません。合唱に導いてくれたのがこの艶子先生です。艶子先生に出会わなかったら、音楽との出会いも男声合唱の魅力も味わうことがなかったでしょう。艶子先生に再会したのは30年前。いまも旭川市にご健在です。「先生、お元気でピアノを子供に教えておられますか?」

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音楽の楽しみ その2 合唱曲の数々  「多田武彦と北原白秋」

北海道大学男声合唱団にいたとき歌った曲に「柳河風俗詩」があります。作者は北原白秋です。なぜは「柳川」ではなく「柳河」と表記されたかの経緯はわかりません。

もうし、もうし、柳河じや、柳河じや。
   銅の鳥居を見やしやんせ。
    欄干橋をみやしやんせ。
     馭者は喇叭の音をやめて、
      赤い夕日に手をかざす。

白秋の生家は、代々屋号を「古問屋」とか「油屋」という海産物問屋でしたが、白秋の父の代になると、柳川地方でも有名な酒造業者にもなります。しかし、酒蔵が大火で全焼し、その後商売が傾きます。次第に白秋は雑誌『明星』などを濫読し、やがて上京して本格的に詩壇で頭角を上げていきます。

「柳河風俗詩」には、古い言葉がでてきます。それに柳川付近の方言も使っています。「柳河風俗詩」は詩集「思ひ出」の一部です。「あざみのはえた その家は ふるいむかしのノスカイヤ、水に映ったそのかげは 母の形見の小手鞠を 赤い毛糸でくくるのぢゃ」という歌詞もでてきます。ノスカイヤとはお女郎屋のことです。

この曲を作ったのは多田武彦という人です。世間ではほとんど知られていませんが、男声合唱の分野では超一流の作曲家です。多田は、京都大学在学中に男声合唱団の指揮者として活躍します。第1曲『柳河』は、全日本合唱コンクール課題曲の佳作となります。全曲初演は多田が24歳の時のこととあります。「柳河風俗詩」の初演は京都大学の学生集会所内の食堂だったという記録があります。多田が作曲の指導を受けたのは、日本の合唱曲作曲者の第一人者といわれた清水脩です。

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音楽の楽しみ その1 合唱曲の数々  「柳河風俗詩と柳川」

これから暫く、私が過去に歌った合唱曲にまつわる音楽のエピソードを文章化し、音楽の足跡を振り返ることにします。相当にこだわる話題となります。

通信制高校で働いた三年目の卒業式が福岡県の田川郡にある本校であり、連れ合いと出向きました。校長という職の冥利は卒業式の告辞を述べることです。北原白秋が近くにある柳川の出身であることを知っていたので、白秋の詩を題材として卒業生や参列者に語りました。素原稿を練るのに一週間ほどかけました。取り上げた詩は「からたちの花」です。ミカン科の落葉低木からたちは春に白い花を咲かせます。

からたちの花が咲いたよ。 白い白い花が咲いたよ。
  からたちのとげはいたいよ。 青い青い針のとげだよ。

楚々としたからたちの花を白秋はなんのてらいもなく歌ったようです。私はこの白秋の詩をつくる姿勢、つまりありのまま自然を見つめて文章化することに白秋の人柄がでていると感じました。卒業生には朝早く起きて、昼間は一生懸命働き、夜は早く寝るといった平凡ながら規則正しい生活の大切さを語りました。

卒業式の翌日、念願だった柳川を訪れました。立花藩12万石の城下町として古い歴史を持つ街です。水郷「柳川」としても知られています。白秋はこの街の出身です。ここに白秋生誕百年を記念した記念館があります。記念館は北原家の広大な旧跡地の一隅に建てられています。ここには詩聖ともいわれる白秋の遺品やパネルなどが多数展示されています。建物は、壁面に平瓦を並べて貼り瓦の目地に漆喰をかまぼこ型に盛り付けて塗る工法で造られた独特の風合いを出しています。この工法は「なまこ壁」と呼ばれています。

えもいわれぬ風情のあるたたずまいでした。

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柳川