音楽との出会いです。終戦間近のとき、樺太から母は私を含む三人の子供を連れて親戚を頼って美幌に引き揚げてきました。三人は5歳、3歳、1歳です。やがて美幌小学校へ入学しました。1年生の時の担任は「山本みかる」という方です。なぜこの先生を忘れないのか。それは単に最初の先生だったからというだけではありません。彼女は私の名前をきちんと覚え、とても優しいという印象が残っているからです。それと私の母のようにふくよかな面立ちの先生でした。高校生のとき、この先生は亡くなられたことを人づてに聞きました。
小学校3年生の担任は「横山エンタツ」先生でした。本名を書くのは憚るのであだ名とします。あまり良い印象を持っていなかったからです。私はいわばクラスではガキの仲間でした。エンタツ先生は我々のようなガキを嫌い、女の子をえこひいきしてました。それも比較的恵まれた家庭の女の子ばかりをです。無性に腹が立ちました。子どもなりに、こうした教師の感性はすぐ伝わります。不登校ならぬ不勉強がこうじて、その頃の成績は惨憺たるものでした。
1952年の3月に十勝沖大地震が起きました。学校の建物に大きなヒビがが走りました。その年の8月に大火が起こり、住んでいた鉄道官舎が燃えているのを学校の2階から眺めました。かつての木造二階建ての学校は、すっかり様変わりしています。
美幌小学校から名寄南小学校へ転校します。そのときの音楽の先生に「近藤艶子」先生がおりました。私が廊下で力道山の真似をしたプロレスをしているときに、「ついていらっしゃい、、」と音楽室に連れていった先生です。全くの音楽文盲状態の私に音符や楽譜の読み方を教えてくれました。まるっきり歌い方など知りません。合唱に導いてくれたのがこの艶子先生です。艶子先生に出会わなかったら、音楽との出会いも男声合唱の魅力も味わうことがなかったでしょう。艶子先生に再会したのは30年前。いまも旭川市にご健在です。「先生、お元気でピアノを子供に教えておられますか?」
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