懐かしのキネマ その40 【渚にて】

社会派の監督といわれるスタンリー・クレイマー(Stanley Kramer)が指揮したのが、【渚にて】(On the Beach)です。時は1964年。第三次世界大戦が勃発し、核爆弾の一種であるコバルト爆弾の高放射線の広がりで北半球の大半の人々が死滅します。深海で潜行中だったために生き残ったアメリカ海軍の原潜ソーフィッシュ号 (Sawfish)は、放射線汚染が比較的軽微で南半球に位置するオーストラリア(Australia) のメルボルン(Melbourne) へ向かいます。そこでは戦争の被害を受けず多くの市民が日常を送っていますが、放射線汚染の脅威は徐々に忍び寄ってきます。

やがて、アメリカのシアトル(Seattle) 付近から、モールス信号(Morse code) のような不可解な電波が発信されていることが察知されます。生存者がいる可能性があるかもしれないので、ソーフィッシュ号艦長でアメリカ海軍中佐ドワイト・タワーズ(Captain Dwight Towers)らは、その発信源と推定されるワシントン州のアメリカ海軍通信学校へ向かいます。乗組員が防護服を着用して調査しますが生存者はおらず、ロールカーテンに吊るされたコカ・コーラの空き瓶が、風の力で電鍵を自動的に打鍵する仕組みによって断続的に電波を発信していたことが確認されます。ソーフィッシュ号はむなしくメルボルンへ帰還します。

汚染の南下が確認され、南半球の人類の滅亡も避けられないことが判明します。多くの市民は南へ逃げ延びることによる延命を選択せず、配布される薬剤を用いて自宅での安楽死を望み、覚悟して残りの人生を楽しむのです。まもなく大気中の放射線量が上昇し、被曝した急性放射線症患者らが服薬し始め、徐々に街はさびれていきます。ブリスベン(Brisbane)のアメリカ海軍から指令電報を受けてアメリカ海軍艦隊司令長官に昇進したタワーズは、オーストラリアで被曝するよりもアメリカ海軍軍人としての死を望みます。そして故国に向かおうと主張する乗組員と共にソーフィッシュ号は太平洋へ出航します。渚には彼の恋人モイラ(Moira)が見送るのです。

救世軍(Salvation Army)の旗がブリスベンの街頭にたなびきます。そこには「兄弟姉妹よ、まだ時間はあるのだ」と書かれています。

懐かしのキネマ その39 【十二人の怒れる男】

父親殺しの罪に問われた16歳の少年の裁判で、陪審員(Jurists)が評決に達するまで一室で議論する様子を描いた作品「十二人の怒れる男」(Twelve Angry Men)を紹介します。地味な作品ですが、陪審員の評決に至る微妙な心情の変化を追求した名作です。この映画の舞台は陪審員室です。部屋には陪審員の12人の男たちだけです。

全陪審員一致で有罪とすれば、当然被告の死刑が待っています。法廷に提出された証拠や証言は少年に圧倒的に不利なものであり、陪審員の大半は少年の有罪を確信していました。ところが、ただ一人の陪審員だけが検察の立証に疑念を抱き、他の陪審員たちに固定観念に囚われずに証拠の疑わしい点を一つ一つ再検証することを提案します。

陪審員の性格、信条、職業はばらばらです。率直で礼儀正しいが仲間意識を好む陪審員長、鋭い知性を持ち思慮深い者、型にはまった思考を持つ控えめな者、騒々しく興奮しやすく息子との関係に問題を抱える者、雄弁な自信家、冷静沈着で論理的に意見を者、自己中心的な威張り屋、冗談好きで野球の試合に間に合うことばかり考えている者、人種差別な側面を持つ者、自分の鋭い意見を持ち合わせていない者、知的な紳士だが気難しさを持つ者、裁判に真剣に取り組む気がない者などが陪審員として選ばれたのです。

映画の見所は、有罪だと信じ込んでいた11名の陪審員が無罪へと傾く心理的な変容です。一人の陪審員の疑問の喚起と熱意によって、少年の有罪を信じきっていた陪審員たちの心に徐々に変化が起こり、一人、また一人と無罪へと傾いていくのです。息子との関係に問題を抱えていて、被告の少年の有罪を頭から信じていた最後の一人が、遂に無罪を認めるのです。

懐かしのキネマ その25 【用心棒】

マカロニ・ウェスタン「荒野の用心棒」 (A Fistful of Dollars) の元祖が1961年に製作された【用心棒】です。監督の黒澤明は「映画の楽しさ、面白さを思い切り出したものにしたかった。それをただ一気に、面白ろがらせておしまいまで見せてしまう。その徹底的な楽しさだけを追求してゆく作品、それもまた映画なのだと思いました」と述懐しています。【用心棒】には、剣豪のハードボイルド的な浪人、桑畑三十郎を登場させています。侍には「武士に二言はない」といった倫理のようなものがあります。しかし、この映画は侍ずくめの行動を強調し、人情とか仁義など心理的な側面を深追いしません。

冒頭で犬が無邪気に手首をくわえて走り去ります。木枯らしに舞う落ち葉、舞台は宿場町です。かっこいいマリンバが響きます。二大勢力の縄張り争いに明け暮れ、すっかり荒れ果てた小さな宿場町。そこに流れてきたのが豪腕の三十郎です。三十郎は用心棒となりますが、嫌気をさして両派を煙に巻き同士討ちを企てます。

セットに大量の砂を撒き、軽飛行機のプロペラ1基を含む扇風機を総動員して風を起こし荒れ果てた姿を演出します。刀の斬殺音を取り入れ、10秒で10人を切ってしまう素早い立ち回りです。それまでの時代劇に象徴される歌舞伎的な立ち回りではなく、残酷な描写も取り入れリアルな殺陣を追求した作品です。撮影には望遠レンズを多用し、遠近法を駆使して、殺陣の迫力やスピードを効果的に見せています。三船俊郎と仲代達也が競演しています。

懐かしのキネマ その37 映画と「デロリアン」

前回、映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」に触れました。この作品で登場したのがタイムマシンの車、デロリアン(DeLorean)です。1975年10月に、当時ゼネラルモーターズ(General Motors: GM)の副社長であったジョン・デロリアン(John DeLorean)が、理想の車を作るためと宣言してGMを辞職し、自らの名前を付与してデロリアン・モーター・カンパニー(Delorean Motor Company : DMC)という会社を設立します。本社はミシガン州(Michigan)デトロイト(Detroit)に、製造工場は北アイルランド(Ireland)のベルファスト(Belfast)におきます。

デロリアンが発表した車のモデル名は「DMC-12」といって、従来の車のデザインにはない2ドアを上下で開閉し、外部全体を無塗装ステンレスで覆うという奇抜なものです。初代のDeLoreanは8気筒で、6,500台ほどが販売されます。しかし、当時としては破格のデザインと67,000ドルという値段で、前宣伝の効果にも関わらず売れ行きがしぼんでいきます。デロリアンはやがて破産し、麻薬売買の疑いもかけられ倒産し生産が停止します。

デザインの希少性と生産終了後に大当たりとなった映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のお陰で、DeLoreanは、1980年代には、自動車マニアのコレクション対象であるカルトカー(cult car)となります。日本では、愛知県長久手市にあるトヨタ博物館で見学することができます。私も一度この車をアメリカで見たことがあります。

懐かしのキネマ その36 ハリウッドと映画 その2 五大映画製作会社

ハリウッドの歴史はアメリカの歴史そのもののような感があります。その発展を少し辿ってみます。第一次大戦のヨーロッパでは、ほとんどの国が映画製作を中止します。他方、アメリカ映画は対戦中のアメリカ資本主義の成長に劣らない勢いで膨張し発展していきます。当時、世界中の映画の80%以上がアメリカ映画だといわれます。1920年代には、ヨーロッパから才能ある監督、作曲家、俳優、技術者がアメリカに移り住んできます。こうした才能のある人々の活躍を反映してか、1920年代の末には、ハリウッドで製作されるアメリカ映画は世界映画市場の90%を占めるようになります。

ハリウッドの繁栄を評して、ハリウッドは最もアメリカ的なものの1つとなったといわれます。それを冷ややかな目で眺めていた識者もいます。例えばハリウッドを指して「蜃気楼の街」とか「夢の工場」という人々いました。次々に映画が作られる様を指摘して「まるでソーセージを生産するような所」と揶揄する人もいました。こうした批評は、映画製作の隆盛に皮肉と羨望が混じり合ったものだったろうと察せられます。

「ハリウッド映画」で、『ワーナー・ブラザース・エンターテイメント(Warner Brothers Entertainment)』や『ウォルト・ディズニー・ピクチャーズ(Walt Disney Pictures)』をはじめとする6社の有名な映画制作会社が拠点を置いており、世界の娯楽産業に多大な影響力をもたらしています。その他の映画会社として『20世紀スタジオ(Twenty Century Studios)』、『ソニー・ピクチャーズ・エンタテインメント(Sony Pictures Entertainment)』、『パラマウント映画(Paramount Pictures Corporation)』、そして『ユニバーサル・シティ・スタジオ( Universal City Studios)』が知られています。

ウォルト・ディズニー(Walt Disney)とロイ・ディズニー(Roy Disney)は創業以来、多くの傑作アニメーション映画を生み出します。1940年の『ファンタジア(Fantasia )』や『眠れる森の美女(Sleeping Beauty)』、『アナと雪の女王(Frozen)』などを製作し、1990年代に黄金期を迎えます。ワーナー・ブラザースといえば、最近では『ハリー・ポッター(Harry Potter)』シリーズが知られています。20世紀スタジオの名作といえば、『ダイハード(Die Hard)』や『プレデター(Predator)』、『エイリアン(Alien)』といった作品です。ソニー・ピクチャーズ・エンタテインメントは、コロンビア映画 Columbia Pictures Industries)を傘下におき、『スパイダーマン(Spider Man)』や『パイレーツ・オブ・カリビアン(Pirates of the Caribbean)』、パラマウント映画では『ミッション:インポッシブル(Mission Impossible)」、ユニバーサル・スタジオからは『ジュラシック・パーク(Jurassic Park)』や『バック・トゥ・ザ・フューチャー(Back to the Future)』などが制作されます。いずれも娯楽映画の代表作品です。

懐かしのキネマ その35 ハリウッドと映画会社 その1 なぜロスアンジェルスへ

ハリウッド(hollywood)といえば、映画産業の中心地とかアメリカ映画を指す代名詞です。カリフォルニア州のロサンゼルス市(Los Angels)にあります。hollyとはヒイラギ、柊という意味ですが、もともとはイチジクの果樹園だったそうです。20世紀の初頭までは、映画製作の中心地はニューヨーク州(New York)マンハッタン島(Manhattan)の北部にあるフォート・リー(Fort Lee) とイリノイ州(Illinois) のシカゴ(Chicago)でありました。ですが、映画会社は東海岸から西海岸へと移っていきます。

映画会社が東海岸から西海岸へ移った第一の理由は、東海岸やシカゴの中西部は天候に恵まれず撮影時期が限られていました。しかも当時のフィルム感度は悪く、屋外のような明るい場所でしか撮影できなかったのです。天候に左右される映画撮影は問題でした。そのため、映画会社は、地中海性気候でまばゆい太陽が輝くカリフォルニア州(West Coast)に次々に移っていきます。そこで選ばれたのがロサンゼルスです。映画製作のために、大都会はもとより雪を抱く山脈、荒涼とした砂漠にいたる自然条件に恵まれていたのです。

第二の理由は、ロサンゼルスは労働者の組合が存在していない所でした。労働力は常に過剰気味で賃金水準はニューヨークの半分くらいでした。会社は映画製作に必要なコストを節約し、技術的な条件も克服していきます。安い労働力が経営者には魅力だったのです。

第三の理由は、人種差別が微妙に影響しています。当時アメリカの支配層といわれたのは、「ワスプ」(WASP: White Anglo-Saxon Protestants) という、社会、文化、政治など諸分野を寡占していた富裕層でした。白人エリート支配の保守派を指すのがワスプでした。アメリカの保守とはワスプという構図で成り立っていたのです。イタリア系やユダヤ系などの出自を表に出しては、スターにはなれなかった時代です。しかし、西海岸は人種のるつぼであり、誰もが成功者になれる風土を醸していたのです。こうしてハリウッドは、自然、労働力、多民族という3つの条件によって映画産業が発展していくのです。それと共に他の産業も経済も大いに発展していくのがカリフォルニアです。

懐かしのキネマ その34 歌手で俳優の共演

1959年に製作された西部劇に【リオ・ブラボー】(Rio Bravo)があります。メキシコとの国境に近いテキサス(Texas)の町で保安官のチャンス(Chance)(ジョン・ウェイン: John Wayne)は、殺人犯の身柄を確保します。このあたりの勢力家で殺人犯の兄が、保安官に弟の身柄を移動させないよう部下に命じて駅馬車の車輪を壊し街を封鎖します。チャンスは連邦保安官が来るまで、わずかな味方とともに殺人犯一味と戦うことになります。

チャンスの部下とは、以前は早撃ちながら、アルコール依存症の保安官補デュード(Dudo)、片脚が不自由で毒舌な年寄りの牢屋番スタンピー(Stumpy)、幌馬車の護衛としてやってきた早撃ちの若者コロラド(Colorado) です。コロラドは狙撃された隊長の仇討ちでチャンスに加勢するのです。女賭博師で踊り子のフェザーズ(Feathers)はやがてチャンスの正義感にほだされて恋心を抱いていきます。リオ・ブラボー

【リオ・ブラボー】に二人の歌手が出演しています。ディーン・マーティン(Dean Martin)とリッキー・ネルソン(Ricky Nelson) です。マーティンは人気絶大な歌手、ネルソンは、ロックンロール歌手でした。保安官事務所で連邦保安官の到着を待ちながら、二人で「ライフルと愛馬」(My Rifle, My Pony and Me) を歌うシーンがあります。これは替え歌ではなく、正真正銘の二人の歌声です。さらに孤立した保安官事務所に流れてくるのが、敵が一晩中トランペットで流す「皆殺しの歌」(DE GUELLO)です。この2曲を作ったのはディミトリ・ティオムキン (Dimitri Tiomkin) です。ロシアのサンクトペテルブルク音楽院(St. Petersburg Conservatory) で学び、アメリカに帰化した後、数々の映画主題歌を作曲していきます。「真昼の決闘」(High Noon)、「OK牧場の決斗」(Gunfight at the O.K. Corral)、「アラモ」(The Alamo)、「ローハイド」(Rawhide)、ジャイアンツ」(Giants)などクラシック音楽に基づいた正統的な曲で知られています。

懐かしのキネマ その33 映画とゴーストシンガー

音楽映画やミュージカルでは俳優の歌唱シーンがあります。例えば、「王様と私(The King and I)」の主役デボラ・カー(Deborah Kerr)が「Shall We Dance?」を、「ウエストサイド物語(West Side Story)」のナタリー・ウッド(Natalie Wood)が「Tonight」を、「マイ・フェア・レディ(My Fair Lady)」のオードリー・ヘプバーン(Audrey Hepburn)が「踊り明かそう」(I could have danced all night) など、名立たる女優が歌っています。ですが彼らの歌は吹き替えなのです。吹き替えを歌う人を、陰の歌い手とか「ゴーストシンガー」(Ghost Singer)と呼びます。演説を書く人を「ゴーストライター」(Ghost Writer) と呼ぶのと同じです。

吹き替えの名手は、マーニ・ニクソン(Marni Nixon) というアメリカの歌手です。数々の著名なミュージカル映画において、女優の歌唱シーンの吹き替えを担当し「最強のゴーストシンガー」として知られています。ミュージカルの全盛期である1950年代から1960年代を、その美声で支えたことから「ハリウッドの声」(The Voice of Hollywood) とも称されています。

マーニ・ニクソンの名を知る人は少ないでしょうが、その美声はミュージカル・ファンの方にはなるほどと頷かれるはずです。女優の声を勉強し、それに合わせて吹き替えをしていたというのですから、大変な努力家といえましょう。実は、ハリウッドでは、映画会社との契約の関係で、吹き替えの事実を公表することが禁止されていたのです。マーニ・ニクソンは、そのため長らく表舞台に登場できなかったのです。

「The Sound of Music」でマーニ・ニクソンは修道院の中で出てくる6名の修道女の一人ソフィア(Sophia)役で初めてスクリーンにその姿を見せます。修道女の見習いとなった主人公マリア(Maria)について皆が、順番に歌いながら彼女の行動が自由奔放で呆れるといいながらも、修道女は皆、マリアの明るい性格を好意的に説明する場面です。そして最後の場面で「すべての山に登れ!」(Climb Every Mountain!)を合唱します。

懐かしのキネマ その32 「南太平洋」

ハリウッド映画界を支えた2人の作曲家と作詞家を紹介します。作曲家リチャード・ロジャース(Richard Rodgers)と作詞家・脚本家オスカー・ハマースタイン2世(Oscar Hammerstein II)です。2人によって制作された「サウンド・オブ・ミュージック(The Sound of Music)」は、1959年11月からルント・フォンテン劇場(Lunt-Fontanne Theatre)で公演を開始します。そして1963年6月までの間に1,443回上演され、50年以上が経った今でもブロードウェイを代表するロングラン作品の1つとなります。

ロジャースとハマースタインは、1940年代から1950年代の「ミュージカル黄金時代」と呼ばれた頃のブロードウェイで数々の名作を生み出します。現在のブロードウェイの基盤を作り上げた伝説的なコンビとなります。2人ともユダヤ系のアメリカ人であったことも共通しています。2人によって作り出されたミュージカルは「回転木馬(Carousel)」「オクラホマ!(Oklahoma!)」「南太平洋(South Pacific)」「王様と私(The King and I)」などの名作です。2人の最高傑作といわれるのが「サウンド・オブ・ミュージック」です。「南太平洋」(South Pacific)ですが、南太平洋のある島にフランス出身の民間人で農園主と海軍の看護婦との恋の物語です。この映画の主題歌が「バリハイ」(Bali Hai’i)です。音楽が南太平洋の景色とともに存分に楽しめる映画です。

懐かしのキネマ その31 【The Sound of Music】

1963年にロバート・ワイズ(Robert Wise)によって製作されたのが【The Sound of Music】です。小学生から大人まで知っている「 エーデルワイス」(Edelweiss)や「ドレミの歌」(Do-Re-Mi)が歌われます。主演は、マリア(Maria) 役のジュリー・アンドリュース(Julie Andrews)、ゲオルク・フォン・トラップ大佐(Georg Von Trapp)のクリストファー・プラマー(Christopher Plummer)です。

時代は、ナチスドイツが勢力を強め第二次世界大戦が勃発した頃のオーストリア(Austria)のザルツブルク(Salzburg)。帝国海軍の退役軍人であったトラップ大佐に7人のいたずらな子どもがいます。どの家庭教師も長続きせず、何度も入れ替っていました。修道院で見習いをしていたお転婆娘のマリア(Maria)は、修道院長の勧めでの子どもたちの家庭教師をすることになります。マリアも、最初は子どもたちのいたずらに振り回されます。しかし、厳格な父親に内緒で森へ出かけたり、一緒に歌って踊ったりと、親身になって子どもたちの相談を聞きくマリアに子どもたちは次第に心を打ち明けてきます。

そんなマリアと一緒に歌を歌い喜ぶ子どたちの姿を見て、最初は躾けで厳しかった父トラップ大佐も、次第にマリアに心を打ち明け、2人は惹かれ合っていきます。トラップ大佐一家とマリアは友人の誘いで舞踏会に出演することが決定し、7人の家族による歌声とダンスは賞賛を浴び舞台は大成功を収めます。これをきっかけにマリアとトラップ大佐はマリアと結婚し新婚旅行へと旅立ちます。旅行から帰国した大佐に待ち受けていたのは、ドイツ軍のオーストリア併合(Austria)によるトラップ大佐の出頭命令でした。命令を拒否したトラップは2人は家族を引き連れてスイス(Switzerland)に亡命しようと決意します。自国オーストリアからの亡命を図り、国境を越えようとアルプスを越える場面で終わります。