アメリカ合衆国建国の歴史 その127 第20代の大統領選挙 

ヘイズは再選に立候補しないことを選択します。もし2期目を目指していたなら、共和党の指導者たちから再選を拒否されることはほぼ確実であっと思われます。1880年には3人の有力候補が共和党の指名を争います。コンクリング上院議員(Senator Conkling)が率いる「堅実派(Stalwart)」のユリシーズ・グラント(Ulysses Grant)、対立する「半獣派(Half-Breed)」のリーダーであるジェームズ・ブレイン(James G. Blaine)、そして財務長官シャーマンです。グラントは大会に相当数の忠実な代議員を擁していましたが、その数は過半数に満たない状況でした。他の候補者はいずれも過半数に達せず、36回目の投票で、疲弊した代議員たちは妥協候補としてオハイオのジェームズ・ガーフィールド(James A. Garfield)下院議員を指名します。大会は、堅実派を抑えるために、ニューヨークのチェスター・アーサー(Chester A. Arthur) を副大統領に指名します。

James. A. Garfield

民主党は1880年にサミュエル・ティルデン(Samuel J. Tilden)を再指名し、1876年にティルデンが不正行為で負けたと考える人々から票を得ようとします。しかし、ティルデンは再度の候補者擁立を辞退し、民主党大会はウィンフィールド・ハンコック元帥(Gen.Winfield S. Hancock)を指名します。ハンコックは南北戦争で連邦軍の将官を務めたのですが、政治的な実績はなく、公共政策の問題にもほとんど通じていませんでした。

この選挙戦は、特段の盛り上がりを見せず、目新しい争点も生まれませんでした。この時期の国政選挙はいつものように、共和党は保護関税の党としての役割を強調し、関税に反対する民主党は国内産業の成長を妨げると主張します。実際、民主党の関税に対する考え方は大きく分かれており、ハンコックは「関税は地方だけの問題だ」と宣言し、両党の政治指導者たちを驚かせます。ガーフィールド(James A. Garfield)は214対155という選挙人名簿差で大統領に当選しますが、一般投票では9,644票と僅差での勝利でした。他方、ハンコックは旧南部連合の全州と連邦に忠誠を誓った旧奴隷州のうち3州を制圧し、新たな「強固な南部(solid South)」の存在を示すのです。

アメリカ合衆国建国の歴史 その126 ラザフォード・ヘイズが大統領に

在任期間が1877-81年の第19代大統領、ラザフォード・ヘイズ(Rutherford B. Hayes)は、選挙に必要な南部で争われた票を確保するために、仲間らが主張する公約を着実に実行に移します。彼は南部に駐留していた連邦軍を撤退させ、テネシー州の元上院議員デイヴィッド・キー(David M. Key)を郵政長官として閣僚に任命します。ヘイズは、こうした融和的な態度によって、南部の多くの保守派が将来的に共和党を支持するようになることを期待します。しかし、南部の人々の最大の関心事は白人至上主義の維持であり、そのためには民主党が南部の政治権力を独占する必要があると考えていきます。その結果、ヘイズの政策は、南部での共和党の復活ではなく、事実上消滅することになります。

Rutherford B. Hayes

ヘイズの南部への働きかけは一部の共和党員を苛立たせます。連邦公務員の支持に対する彼の政策は、党にとってより直接的な課題でありました。1877年6月、ヘイズは連邦政府職員による政治活動を禁止する大統領令を発布します。ロスコ・コンクリング(Roscoe Conkling)上院議員の友人二人がこの命令に背くと、ヘイズは二人をニューヨーク港管理局のポストから解任します。コンクリングと共和党の仲間たちは、1879年に彼らの仲間の一人であるアロンゾ・コーネル(Alonzo B. Cornell)をニューヨーク州知事に当選させ、1880年にはもう一人のチェスター・アーサー(Chester A. Arthur)を共和党の副大統領候補として指名し、ヘイズに対する軽蔑の念を表していきます。

ヘイズが直面した最も深刻な問題の一つは、インフレの問題でした。ヘイズをはじめとする多くの共和党員は、健全な通貨政策を堅く支持していましたが、問題は党派的というよりむしろ部門的な問題に起因していました。一般に農業地帯である南部と西部ではインフレに好意的でしたが、北東部の産業・金融グループは、インフレは債権者の犠牲の上に債務者を利するとして反対します。

US Dollars

1873年、米国議会は銀貨の鋳造を中止します。この行為は、後に銀を愛する人々から「73年の犯罪(the Crime of ’73)」と呼ばれるようになりました。1879年1月以降、南北戦争の戦勝国紙幣を金で償還することを定めた法律を廃止し、銀貨の鋳造を再開するようにインフレ論者が議会を説得するキャンペーンを開始します。その結果、通過した法律(Bland–Allison Act) には、銀貨の鋳造を再開し、さらに重要な点として、ジョン・シャーマン(John Sherman)財務長官に対して、毎月200万ドル以上400万ドル以下の銀塊を市場価格で購入することを義務付けるというものでした。

インフレ反対派は、財務長官が、グリーンバックの償還を求める財務省の要求に応えられるよう、十分な金準備高を確保するための準備を入念に行っていることに安心感を覚えます。また、長い不況からようやく回復する兆候も、同様に安心させるものでした。こうして政府の財政は安定し、グリーンバックの償還期日が来ても、財務省に金との交換を求めるという大きな要求は生まれませんでした。

アメリカ合衆国建国の歴史 その125 国内政治の動き

19世紀最後の四半世紀のアメリカにおける支配的勢力は、政治的というよりもむしろ経済的、社会的なものでした。このことは、政治的リーダーシップの無力とか、インフレを求める農民運動の継続を除いては、政治に深い対立をもたらす問題が存在しないことを反映したようです。政治的に著名な人物はいましたが、彼らは政治的な行動計画の代弁者としてではなく、個人的な基盤の上に立って人気を得ていました。

この時期の大統領で真に党の指導者は見当たらず、1893-97年の2期目の大統領グローバー・クリーブランド(Grover Cleveland)以外、そのような傑出した大統領はいませんでした。ウッドロウ・ウィルソン(Woodrow Wilson)やジェイムズ・ブライス(James Bryce)といったアメリカ政界を鋭く観察していた政治家すらさえも、偉大な人物が大統領になることはないと考えていました。また、両政党の大統領候補の指名大会では、政敵が少ないといった無難な候補者を選ぶのが普通となりました。

共和党と民主党のマスコット

ジョンソン政権以降、議会は着実に勢力を拡大し、ホワイトハウスの指導力の低下につながる公共政策の策定に大きな責任を負うようになりました。1877年から1897年までの20年間のうち、同じ政党がホワイトハウス、上院、下院を支配していたのはわずか4年間であったため、公共政策は多くの議会指導者による妥協であることが一般的でありました。

共和党は、国政において多数党であるかのような状況でした。南北戦争から世紀末にかけて、1884年と1892年を除くすべての大統領選挙で勝利し、同時期の3つの議会を除くすべての議会で上院の過半数を占めます。しかし、民主党は1875年から1895年までの10回の議会のうち8回で下院の過半数を獲得していきます。共和党は1870年から1890年以降まで党内分裂に直面し、1876年以降の選挙戦のたびに南部全域を野党に譲らざるを得なかったにもかかわらず、政権与党となりました。

2022 年の米国の選挙結果

共和党には、連邦を分離独立から守り、奴隷制を廃止した政党であるという自負がありました。他の政策の主張が失敗したときも、共和党の指導者は戦争の記憶を蘇らせることによって北部と西部の票を掘り起こすことができました。あまり目立ちませんが共和党の有利なことは、国家の継続的な産業発展は、民主党政権よりも共和党政権の方がより確実であるという信念が国民に広まっていたことです。経済的に不利な年を除いて、戦争の記憶と共和党の経済プログラムへの信頼は、通常、北部と西部のほとんどの州で共和党が勝利することに表れます。

アメリカ合衆国建国の歴史 その124 労働組合と騒動

労働組合にとって最も大きな打撃となったのは、組合が間接的にしか関与していない悲劇的な出来事でした。それは1886年のメーデーに呼びかけられたストライキの1つに、シカゴのマコーミック農耕機器製作会社(McCormick Harvesting Machine Company)に対するものでした。5月3日、ヘイマーケット広場での騒動(The Haymarket Riot) です。ピケットラインで争いが起こり、警察が治安を回復するために介入しますが、数人の労働者が負傷したり死亡したりします。

組合幹部は5月4日夜、ヘイマーケット広場で抗議集会を開きますが、集会が終わると、極右たちが占拠して扇動的な演説を始めました。警察がすぐに介入し、爆弾が爆発して警官7人が死亡、多数の負傷者が出ます。8人の極右が逮捕され、裁判にかけられ、殺人の罪で有罪になっります。そのうち4人は絞首刑、1人は自殺します。残りの3人は、1893年にジョン・アルトゲルド知事(Gov. John P. Altgeld)によって恩赦されます。知事は、彼らが偏見に満ちた雰囲気の中で有罪判決を受けたので、有罪であると確信することは不可能であると認めざるをえなかったのです。

世論はヘイマーケットの悲劇について組織労働者を非難し、多くの人が組合の活動には暴力が伴う可能性があると確信していきました。騎士団は1886年に失った信頼を回復することはなく、今世紀に入るまで、組織労働者が一般大衆の共感を得ることはほとんどありませんでした。組合員総数が最大となった1885-86年の数字に再び達したのは1900年になってからでした。組合活動は依然として活発であり、1889年から世紀末まで毎年1,000回以上のストライキが行われました。

騎士団の力が弱まるにつれ、労働組合運動の指導者はアメリカ労働総同盟(American Federation of Labor: AFL)に移ります。労働総同盟は1881年に最初に組織され、1886年に再編成された地方労働組合とクラフト・ユニオン(craft unions)の緩やかな連合体でした。数年間、騎士団とAFLの間には名目上の協力関係がありましたが、両者の基本的な組織と理念の違いが協力を困難なものにしました。労働総同盟は熟練労働者のみにアピールし、その目的は労働時間、賃金、労働条件、組合の承認など、組合員にとって直接関係のある要求が主体でした。労働総同盟はストライキとボイコットを中心とする経済的手段に依存し、州や地方の選挙キャンペーンを除いては政治活動を避けていきます。労働総同盟の中心人物は、ニューヨークの葉巻製造業者であったサミュエル・ゴンパーズ(Samuel Gompers)で、1886年から1924年に亡くなるまで会長を務めます。

アメリカ合衆国建国の歴史 その123 労働組合の台頭

産業の発展に伴い労使間の緊張が高まり、アメリカでは初めて全国的な労働組合が誕生します。1869年に結成された労働騎士団(Knights of Labor)、会員数、影響力ともに地域的な規模を超えた最初の有力な労働組織でした。騎士団は、あらゆる生産者集団の利益が平等となるよう、すべての労働者だけでなく、真に生産者と分類されるすべての人々を組合に加入させようと努めていきます。彼らは、様々な大義を唱え、その多くは産業よりも政治的なものであり、経済的強制力よりも政治や教育によって目的を達成することを叫んでいきます。

1873年から1878年にかけての不況で多くの労働者が受けた苦しみや、全国的な鉄道ストライキが失敗し、ヘイズ大統領 (President Hayes)がピッツバーグとセントルイスでの混乱を鎮圧するために連邦軍を送ったことで、騎士団の仲間に大きな不満が生まれます。1879年、鉄道員でペンシルベニア州スクラントン市長のテレンス・ポーダリ(Terence V. Powderly)が、全国組織の委員長に選出されます。彼は、積極的な行動計画よりも協力を重視しますが、騎士団の実質的な支配は、目的を達成するためにストライキやその他の経済的圧力をかけることをいとわない地域指導者に移っていきます。

AFL-CIO

1884-1885年、騎士団はその影響力のピークに達し、ユニオン・パシフィック(Union Pacific)、サウスウェスト・システム(Southwest System)、ウォバシュ鉄道(Wabash railroads)に対するストライキが大きな反響を呼び、賃金の引き下げを阻止することに成功します。当時、彼らは全国で70万人近い組合員を擁していました。1885年、労働者の力が明らかに増大していることに注目した議会は組合の要求に応じ、特定の雇用主のもとで働く契約を結ぶ移民のアメリカへの入国を禁止するようになります。

Union Pacific Railway

1886年は、労使関係で大きな問題を抱えた年となります。1,600件近いストライキがあり、約60万人の労働者が参加します。8時間労働は、労働者の要求の中で最も顕著な項目でした。このうち約半数はメーデー(May Day)に招集されたもので、参加や不参加の労働者に分かれ、また熟練者と非熟練者の内部対立もあって、騎士団の人気と影響力は低下していきました。

アメリカ合衆国建国の歴史 その122 海外貿易

アメリカの対外貿易は、輸出額で判断すると国内産業の成長に歩調を合わせていました。金や銀の再輸出を除けば、1877年のアメリカからの年間輸出額は約5億9000万ドルでしたが、1900年には約13億7100万ドルにまで増加します。輸入額も伸びは鈍いものの、増加していきます。金と銀を含めると、アメリカが貿易収支を悪化させた年は全期間で一年しかありませんでした。世紀末になると、輸出の輸入に対する超過額は明らかに増加していきます。

Wheat Field

アメリカの輸出の大部分は、引き続き農産物が占めていました。綿花、小麦、小麦粉、肉製品などは、常に年間輸出額が最も大きい品目でした。非農業製品では、石油が最も重要でしたが、世紀末には機械類が輸出品目の上位を占めるようになります。

Wall Street, New York

外国貿易の拡大にもかかわらず、アメリカ商船業界はこの時期大きな犠牲を強いられます。アメリカ旗を掲げた全商船の総トン数は驚くほど一定していましたが、外国貿易に従事するトン数は急激に減少し、南北戦争前夜の240万トン以上から1898年の72万6000トンという最低値まで低下してしまいます。この減少は、南北戦争中に数百隻の船が破壊を避けるために外国船籍に移されたことに原因しています。その後、造船や修理のコスト面での不利や、アメリカ製の船しか登録しないというアメリカの方針が、第一次世界大戦までの成長を妨げていきます。

アメリカ合衆国建国の歴史 その121 ロックフェラーとトラスト

アメリカでは、産業の地理的な分散が進み、産業立国への転換が進んでいきます。しかし、この動向は、競合する企業が統合され、業界全体を支配する大規模なユニットになる動きに比べると、あまり注目されませんでした。1882年、ロックフェラー(John Rockefeller)とその仲間たちが、オハイオ州法に基づきスタンダード・オイル・トラスト(Standard Oil Trust)を設立したとき、この統合への動きは特に注目されました。トラスト–信託は、新しいタイプの産業組織であり、競合する企業の株式の支配的な数の議決権を少人数のグループに託すことで、彼らが支配する企業間の競争を阻止することができるものでした。株主は、配当を多く受け取ることができ、利益を得たと思われます。信託は数年間、独占企業設立の手段として人気を博し、1890年までにウイスキー、鉛、綿実油(cottonseed oil)、塩なども信託会社の許に入ります。

John Rockefeller

1892年、オハイオ州の裁判所は、この信託が同州の独占禁止法に違反するとの判決を下します。スタンダード・オイルはその後、ニュージャージー州のより緩やかな法律の下で、持株会社として再び法人化していきます。その後、持ち株会社や完全な合併が独占企業の設立のために好まれるようになります。信託という用語は、独占企業の一般的な表現として一般に残るようになります。この時期の最も有名な合併は、1890年のアメリカ煙草会社(American Tobacco Company)と1891年のアメリカ砂糖精製会社(American Sugar Refining Company)の設立でした。アメリカ砂糖精製会社は、特に競争を抑制することに成功し、瞬く間にアメリカ国内の精糖のほとんどを支配するようになります。

John Rockefeller

アメリカ合衆国建国の歴史 その120 製造業の発展

1800年代の後半は、産業が地理的に広く分布していたことも特筆されます。マサチューセッツからペンシルベニアにかけての東海岸は、引き続きアメリカで最も工業化の進んだ地域で、さらに五大湖に隣接する州や南部の一部地域でも製造業が大きく発展していきます。

Midwest

鉄鋼業は、このような企業の新しい拡散のパタンを反映していきます。鉄鋼業の3分の2は、ペンシルベニア州西部とオハイオ州東部の地域に集中していました。しかし、1880年以降、ミネソタ州北部のバーミリオン山脈 (Vermilion Range)、1892年メサビ山脈(Mesabi Range)、テネシー州、アラバマ州北部での鉄鉱山の開発に続き、シカゴ周辺で鉄鋼業が拡大し、アラバマ州北部とテネシー州に製鉄所が建設されます。

St.Louis

中西部の製造業のほとんどは、農業と密接に関連した企業であり、1860年以前に設立された産業の拡大版といえます。食肉加工業は、1875年以降、その製品価値から見てアメリカの主要産業のひとつとなりますが、その大部分はシカゴに集中しており、ほぼ中西部の独占的産業といえるものでした。製粉、醸造、農業機械や木材製品の製造も中西部の重要な産業となります。

Field of waving wheat

南部への産業進出は、繊維産業が先鞭をつけます。綿花工場は新南部のシンボルとなり、ヴァジニアからジョージア、アラバマに至るピードモント地方(Piedmont)に工場や工場町が生まれます。1900年までには、全米の綿紡績のほぼ4分の1が南部で行われ、南部の工場は、ニューイングランドの老舗の競合他社よりも急速に事業を拡大していきます。南部での製材業の発展はさらに目覚ましいものであっりましたが、あまり一般には知られていませんでした。世紀末には、南部は製材業で全土をリードし、年間供給量のほぼ3分の1を占めるまでになったのです。

アメリカ合衆国建国の歴史 その119 産業の振興と企業家の進出

1878年、アメリカは1870年代半ばの長い不況を脱し、再び繁栄の時代に入ります。この20年間で、工業生産量、産業従事者数、製造工場数はすべて2倍以上に増加します。1879年に約54億ドルだった生産財の年間総生産額は、1899年には約130億ドルにまで増加し、この産業発展の規模をより正確に示す指標となりました。1880年から1900年にかけて、アメリカにおける鉄鋼の年間生産量は約140万トンから1,100万トン以上に増加します。世紀末には鉄鋼生産でイギリスを抜き、世界の銑鉄供給の4分の1以上を占めるに至ります。

Andrew Carnegie

このような急激な産業活動は、さまざまな要因によってもたらされました。西部では鉱山や木材などの資源が開発され、輸送手段の改善に対する需要が高まり、東部では金銀鉱山が新たな投資資金源となります。特に西部と南部での鉄道建設とそれに伴う鋼鉄レールの需要は、鉄鋼業の拡大に大きな力となり、1880年には9万3262マイル(15万151キロメートル)未満だったアメリカの鉄道走行距離は、1900年には約19万マイル(31万キロメートル)へと増加します。

Cornellus Vanderbilt

ベッセマー製鋼法や平炉法(Bessemer and open-hearth processes)などの技術的な進歩は、製品の改良と生産コストの低減につながります。電話、タイプライター、ライノタイプと呼ばれる鋳植機(linotype)、蓄音機、電灯、キャッシュレジスター、エアブレーキ、冷凍車、自動車など、一連の大発明は新しい産業の基盤となり、その多くがビジネスに革命を起こします。また、トロリーカー、ガス、電力、電話などの普及により、自然独占の重要な公益事業が確立され、州や自治体から認可されたフランチャイズによってのみ運営されるようになります。また、会社組織の普及は、事業に対する大規模な資金調達の機会を提供し、ヨーロッパの投資家を中心とした新しい資本を呼び寄せます。

John Rockefeller

このような産業活動の上に、色彩豊かで精力的な企業家たちがいました。彼らは、必ずしも賞賛されないまでも人々の注目を集め、アメリカにおける新しい指導者層の象徴のようにみえました。この多数のグループの中で最もよく知られているのは、石油のジョン・ロックフェラー(John D. Rockefeller)、鉄鋼のアンドリュ・カーネギー(Andrew Carnegie)、コーネリアス・ヴァンダビルト(Cornelius Vanderbilt)、リーランド・スタンフォード(Leland Stanford)、コリス・ハンティントン (Collis P. Huntington)、ヘンリー・ヴィラード(Henry Villard)、ジェームズ・ヒル(James J. Hill)などの鉄道建設業者やプロモーターといった企業家です。

アメリカ合衆国建国の歴史 その118 先住部族政策

西部の広大な土地は、特定の先住部族(インディアン)が独占的に居住するために法律で保護されていました。しかし、1870年になると、これらの土地に大勢の探鉱者、牧畜業者や農民、大陸横断鉄道が侵入し、一連の野蛮なインディアン戦争が勃発し、政府の先住部族政策に重大な疑問が投げかけられるようになります。インディアン局の役人の多くは、部族との直接交渉の責任を怠り、その職務を遂行しようとはしませんでした。西部の多くの人々や一部の陸軍将校は、部族問題の唯一の満足できる解決策は、白人が欲しがっているすべての土地から部族を追い出すことであるとまで主張するのです。

Native Americans

南北戦争後間もなく、改革者たちは先住部族が最終的にアメリカ社会に同化できるようなプログラムを採用することを提唱します。1869年、改革派はグラント大統領と議会を説得し、政府と先住部族との関係を監督する非政治的なインディアン委員会(Board of Indian Commissioners)を設立します。しかし、この委員会は政治的な反対にあい、ほとんど成果をあげることができませんでした。改革者たちは次に、農民として定住生活をする準備ができていると思われる部族の各家族の長に、特定のエーカーの土地の所有権を与えるというドーズ法案(Dawes Act)を提案しました。議会はこの提案に反対しますが、土地を欲しがる西部の人々が、このように土地を分配すれば、膨大な余剰地が生まれ、公有地に追加できると考えます。

Henry Dawes

この法律は、大統領に農民としての新しい生活様式を受け入れられると考えられる部族に対し、各家族の長に160エーカー(65ヘクタール)の所有権を、部族の単独メンバーにはより小さな割り当てを与える権限を与えたものでした。この土地は、25年間は先住部族に譲渡することができず、また、先住部族に市民権も与えられるというものでした。改革派は、部族にアメリカ社会で尊厳ある役割を果たす機会をようやく与えたと喜びながらも、部族文化に保存すべき価値があることを見逃してしまいます。他方、土地開発業者たちは、ドーズ法の適用を早め、より多くの土地を占拠し投機するよう歴代大統領に強い圧力をかけていきます。