懐かしのキネマ その19 マカロニ・ウェスタン

日本だけの呼び名で知られる西部劇映画に「マカロニ・ウェスタン」(Macaroni Western)があります。イギリスやアメリカではスパゲッティ・ウェスタン(Spaghetti Western)と呼ばれます。1960年代前半から、イタリアの映画製作者が主にスペインの荒野で撮影した西部劇のことです。1964年に作られた「荒野の用心棒」 (A Fistful of Dollars)が大ヒットして世界中にマカロニ・ブームが巻き起こります。

マカロニ・ウェスタン映画が作られた場所は、スペインのアルメリア(Almería)の荒野です。数は多くないもののこの地でドイツやイギリス製の西部劇が作られていました。イタリアだけでなく、本場スペインも独自の西部劇を作るようになりました。こうした「ヨーロッパで作られた西部劇」は、「ヨーロッパ製ウェスタン」(European Western)と呼ぶようです。

「スパゲッティ・ウェスタン」と最初に呼んだのは、映画評論家で知られた淀川長治といわれます。少々小馬鹿の気分でつけたのかもしれません。なぜなら、アメリカ人が本場ハリウッドで作られる西部劇に対して「スパゲッティ・ウェスタン」はニセモノ西部劇だと蔑んでいたからです。1960年代には日本ではパスタ(pasta)というマカロニ(macaroni)、スパゲッティ(spaghetti)、ラザニア(Lasagna)どの食品の総称の呼び名は誰も知りませんでした。もっぱらマカロニかスパゲッティが人気の食品でした。

1965年、「荒野の用心棒」が製作されます。監督はセルジオ・レオーネ(Sergio Leone)、主演はクリント・イーストウッド(Clint Eastwood)です。この映画の下敷きは、1961年に作られた黒澤明が監督した「用心棒」です。時は世界中が激動していた頃。イギリスからはビートルズ(The Beatles)が、フランスには「新しい波:ヌーベル・ヴァーグ」(Nouvelle Vague)が、アメリカでは人種差別撤廃やベトナムの反戦運動が盛んな頃です。そんな時に、純粋な娯楽として作り出されたイタリア製ウェスタン映画が世に送りだされます。ハリウッドが作り続けてきた正統派ウェスタンへの一種の挑戦です。歴史観とか正義感、ヒューマニズムなどの教科書的なテーゼへのアンチというわけです。純粋に面白ければ良し、という娯楽アクション西部劇の元祖がマカロニ・ウェスタンです。

懐かしのキネマ その18 太平洋戦争を描いた映画

去る大戦で多くの人々が傷つき犠牲になりました。「挙国一致」、「堅忍持久」といったスローガンにより、誰一人勝つことしか信じない時代がありました。戦意昂揚、生活統制、精神動員などの標語が映画を通しても大衆に浸透していきます。こうした歴史からの深い反省を込めた映画が戦後に作られるようになりました。どの作品も戦場という異常な空間で極限状態に追い込まれた人々が描かれています。そのいくつかを紹介します。

まずは、1956年に作られた「ビルマの竪琴」です。原作は、竹山道雄が執筆した児童向け文学を基に描かれた作品です。終戦直前のビルマ(Burma)、現在のミャンマー(Myanmar) の戦線が舞台となっています。イギリス軍に追い詰められ、日本軍は中立国のタイ(Thailand)を目指して撤退します。その途中で、小隊が降伏し捕虜となります。やがて戦線で命を落とした大勢の日本兵を残して帰国することになります。それに耐えられず、竪琴をひきながら彼らを供養するため僧となった旧日本兵・水島上等兵の姿が描かれます。監督は市川崑でした。

次ぎに1959年に製作された「野火」です。小説家、大岡昇平のフィリピン(Philippines) での戦争体験を基に書かれたものを映画化しています。監督したのは、同じく市川崑です。舞台は日本軍の敗北が濃厚となった第二次大戦末期のフィリピン戦線です。結核を患った田村一等兵は部隊を追放され、野戦病院へと送られる。しかし、野戦病院では食糧不足を理由に田村の入院を拒否します。再び舞い戻った部隊からも入隊を拒否されてしまうのです。空腹と孤独と戦いながら、レイテ島(Leyte)の暑さの中をさまよい続ける田村は、かつての仲間たちと再会するのです。そこで彼が目の当たりにしたのは、孤独、殺人、人肉食への欲求、そして同胞を狩って生き延びようとするかつての戦友です。ことごとく彼の望みは絶ち切られ、遂に狂人化していくのです。

1983年に作られた「戦場のメリークリスマス(Merry Christmas, Mr. Battlefield)」は異色の映画です。日本、英国、オーストラリア、ニュージーランドの合作です。ジャワ(Java) 山中の日本軍捕虜収容所という、極限状況のもとで出会った男たちの抑えた友情の物語です。二・二六事件の決起に参加できずに死に遅れたエリート武官のヨノイ、彼の部下の単純で粗暴な軍曹ハラ、ハラと唯一心の通うイギリス軍中佐との友情が描かれています。東洋と西洋の宗教観、道徳観、組織論が違う中、当時の日本軍兵士の敵国捕虜の扱いや各国の歴史的な違いを大島渚監督がしっかりと描き出しています。

2006年に作られた「硫黄島からの手紙」 (Letters from Iwo Jima) は、第二次大戦における硫黄島の戦いを日米双方の視点から描いた「硫黄島プロジェクト」で日本側の視点による作品です。クリント・イーストウッド(Clint Eastwood) が監督を務めています。1944年に本土防衛最後の砦として硫黄島に降り立ったのが栗林忠道陸軍中尉と日本兵たちです。圧倒的に不利な戦況、絶望の中で、家族の元に生きて帰りたいと願いながら死闘を繰り広げた兵士がいます。届けられることのなかった家族への膨大な手紙やそこに込められた兵士一人ひとりの姿と、戦線の壮絶な戦いを描いた作品です。

懐かしのキネマ その17 映画音楽の多様化

無声映画の撮影中にムードを醸し出し場面を盛り上げるために、音楽がしばしば演奏されていました。専属の楽団を持っていたところもあります。フル・オーケストラの演奏とともに撮影されたともいわれます。やがて、音楽をあらかじめ録音しておき、それを撮影中に流すことによって、シーンのムードを高め、サイレント時代の音楽による演出方式を再現する試みが定着していきます。

トーキーの時代になると、1933年にハリウッドの音楽監督の草分けといわれたマックス・スタイナー(Max Steiner)の「キングコング」(King Kong)が音楽を担当し、この作品を皮切りに映画音楽の一般的なパタンが作り出されます。オープニングで音楽が映画のムードを醸し出し、その後は監督の意図や嗜好によって、音楽がサウンドトラックに見え隠れし、アクションを高めるのです。映画音楽は、ヴィクター・ヤング(Victor Young)、ディミトリ・ティオムキン(Dimitri Tiomkin)、ヘンリー・マンシーニ(Henry Mancini)、モーリス・ジャール(Maurice Jarre)といった作曲家に受け継がれていきます。

映画音楽も多様化していきます。大編成のオーケストラ演奏によるドラマチックな音楽が世界的に定着する一方で、チターやギターだけの独奏で新鮮な効果を醸し出すことに成功していきます。英国映画「第三の男」、フランス映画「禁じられた遊び」のような名作も生まれます。1950年代には雅楽や能、謡いを絡ませた黒澤明監督の「羅生門」、「七人の侍」、「用心棒」なども生まれます。独特の響きが画面上の臨場感を高めるの一役かっています。

エニオ・モリコーネ(Ennio Morricone)という作曲家も従来の音楽のスタイルを一変させます。その音楽の使い方は革命的ともいわれます。マカロニ・ウエスタ(Spaghetti western)映画で響いたシンプルで記憶に残るメロディが特徴です。アコースティックのリズムに、強い口笛が重なり、銃声や馬の蹄の音、教会の鐘、そしてひときわ激しいギターの調べなど予想外のサウンドが彩を加えています。「続・夕陽のガンマン」(For a Few Dollars More)では、ハーモニカ、コヨーテの遠吠え、ヨーデル、口笛、鞭を鳴らす音が鮮烈な雰囲気を生んでいます。映画の重要なシーンも音楽のお陰で臨場感や迫力が生まれてきます。