ウィスコンシンで会った人々 その3 「お口に合いましたでしょうか」

そう沢山ではないが、いろいろな航空会社を利用して旅をした。思いもよらないことが機内で起こったことが何度もある。生温い珈琲を飲まされたり、服に水をこぼして無頓着のフライト・アテンダントもいた。忘れられないのはこうしたハプニングの後の対応が冷淡だったことだ。

機内のフライト・アテンダントとかキャビンクルーの業務は繰り返しである。マニュアルがあり、その通りにこなすことが要求されるのだから、さして仕事に工夫は必要ない。あとはアテンダントの性格や仕草が少しは反映される。それにひきかえ作家、音楽家、画家などの芸術家はマニュアルのない職業といえる。己の動機や資質、そして表現力が欠かせない。

教師だが、同じ内容のことを毎日、毎週生徒や学生に向かって伝えている。虎の巻がある。幸いに教え方の工夫は教師の資質が加わる。大学では用意した資料は毎年学生が違うのだから、そのまま使える。教師の端くれとして、こんな楽な職業はないと思ったことが何度もある。しかし、大学が法人化され運営交付金なるものが減ってくるにつれ、それまでのような生温い研究や指導に危機感がでてきた。職階による研究費の自動配分が実質無くなった。そのためそれまで眠っていたような教師が、尻を叩かれて科学研究費補助金を申請し始めた。

フライト・アテンダントのことに戻る。国際線の乗客は様々な人種や年代の人で一杯だ。300人も400人も乗る狭い機内に皆は暫しの忍耐を強いられる。乗客は一回のフライトだが、アテンダントにはフライト後は二日の休暇はあっても、また同じ仕事が待っている。時差ボケと体調管理はさぞ大変だろうと察する。

今回の旅行で始めて経験したことがある。それはアテンダントが食事の後、「食事はお口に合いましたでしょうか」と訊いてきたことだ。このなにげない一言は、大きな驚きであった。食事の内容は、もちろん何千円もするようなものではないが航空会社は、相当自信をもって用意していることがこの一言に込められているような気がする。

かつてフライト・アテンダントはスチュワーデス(stewardess)とかスチュワード(steward)と呼ばれていた。 「The steward of God」というフレーズが新約聖書の「テトスへの手紙」などにある。もともと 「steward」とは仕える者、僕、執事、世話役という意味である。アテンダントの口から出た言葉、それはマニュアルにあるとは思えない。今や消えたような 「steward」を考えながら、アテンダントの一言が「おもてなし」なのか、と感じ入ったのである。

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ウィスコンシンで会った人々 その2 「ヴァンクーヴァー朝日」

長い飛行機の旅の楽しみに機内での映画を観ることである。葡萄酒を飲みながらしばし退屈な時間を楽しむ。今回は4本を見ることができた。その内の一本が「ヴァンクーヴァー朝日(Vancouver Asahi)」という佳作である。

戦前、北アメリカの西海岸沿いに多くの日本人が移住していった。カナダへの移民は、1877年にブリティッシュ・コロンビア州(British Columbia)に渡ったのが最初といわれる。移民の多くは製材業、農業、漁業に従事した。西海岸は豊かな天然資源に恵まれているところである。だが、苦しい移民生活を強いられたことも事実である。それは移民につきものの人種偏見や差別である。そのことを題材とした小説に「ヒマラヤ杉に降る雪(Snow Falling on Cedars)」というのがある。この小説を書いたのはガターソン(David Guterson)。1995年にフォークナー賞(Faulkner Awards)を受賞している。フォークナー賞はアメリカの小説家、William Faulknerを記念して作られた賞だ。ヘミングウェイ(Ernest Hemingway)と並び称される20世紀アメリカ文学の巨匠といわれる。

「ヴァンクーヴァー朝日」だが、このタイトルは日系カナダ移民の二世を中心とした野球チームのことである。このチームは1914年から1941年までヴァンクーヴァーで活動していた。チームの監督は、ハリー・宮崎である。宮崎はブリティッシュ・コロンビア州の各地から選手を集め、小さい体格の選手に堅い守り、バントやエンドランなどの機動力を植え付ける。こうしたプレイは「Brain Ball」、頭脳的野球と呼ばれた。この戦術を駆使して地元のチームを破っていく。

頭脳的野球の他に、監督の宮崎は選手に対して、ラフプレーを禁じ審判への抗議も一切行わないよう指導した。人種偏見の強かったブリティッシュ・コロンビア内で、日系人と白人との軋轢を考えての対応だったと思われる。こうした真摯な野球に対する姿勢が白人の共感をえて、彼らも朝日を応援するようになっていく。そして朝日は1926年にリーグで優勝を果たし、その後1930年と1933年にもリーグ制覇を打ちたてる。

だが第二次世界大戦が始まると、選手も含めて日系カナダ人は、戦時捕虜収容所や強制収容所などに送られ朝日はチームとしての歴史を閉じる。

Japanese_internment_camp_in_British_Columbia ブリティッシュ・コロンビア州の日系カナダ人強制収容所
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ウィスコンシンで会った人々 その1 古いミシンのこと

短い旅をウィスコンシンで楽しんできた。いくつかのエピソードを紹介したい。

長女はマディソン(Madison)のダウンタウンで洋装店を母親から継いで経営している。彼女のパートナーは日系米国人で、葛飾は柴又の出身である。店はウィスコンシン大学と州議事堂との中間にあってState Streetという最も人気のある通りに面している。人通りが多くひっきりなしに客がやってきて、洋服の加工や修理を依頼していく。丁度卒業式のシーズンなので華やかなドレスやガウンの修繕で大童である。

店内には誠に時代物のようなミシンが三台ある。どれもBERNINAというスイス製のものだ。その一台は100年前のものだというが、今も立派に現役である。洋服の修繕だが、客は昔の洋服も大事に使うようで持ち込んでくる。「まさかこんなものが、、」というのもあるという。こうした客は、金持ちや立派な職業についている人だというのだ。古い洋服でも愛着が強いのだろうとこのパートナーは語る。貧乏人は安い者を買い、古くなればすぐ捨ててまた新しい安物を購入するのだと。

洋服の修繕業はアメリカでは廃業することはないだろうという。こうした古いが質の良いものを購入する人が多い限り、洋装店は立派に生業をたてられるという。日本では修繕業はなかなか大変だと云われる所以は、安いものを買い換えることが多いせいだろう。

同じことは家具についてもいえる。最近は安い家具を揃えた店があちこちで増えている。高価な家具はなかなか売れないようである。そんなこともあってか、新聞紙上で大手家具店の経営が話題になった。住宅の造りも変わり、クローゼットつきのマンションやアパートが多くなったので、家具の置き場がない。そのため高価な家具は売れないのだそうだ。結局合板の安く小さな家具を購入する。

衣と住の購入の変化が著しいのは、生活様式の変化と消費社会の流れによるものだろう。だが良いものは結局すたれることはない。

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