世界を旅する その十九 アイルランド その7 ガリヴァー旅行記 その1 遭難

ルミュエル・ガリヴァー(Lemuel Gulliver)という主人公の16年7か月にわたる航海を描いた奇想天外な冒険小説です。実はこの小説は1700年代のイギリス人の社会や慣習に批判的な視点からの風刺文学でもあることは前稿で述べました。当時、イギリスの統治下でアイルランドは極度の貧困にあえいでいたという事情を知っておく必要があります。

この物語は、おいおい展開していきますが、第3話には、ガリヴァーはラグナグ(Luggnagg)という港を出航して日本の東端の港、ザモスキ(Xamoschi)に上陸し、江戸で「日本の皇帝」に拝謁を許されるという場面があります。オランダ人に課せられる踏み絵の儀式を免除してほしいと申し出る、といった挿話もあります。日本の地名としてザモスキという地は「東端の港」という記述から横須賀の「観音崎(Kannonsaki)」ではないかという説もあります。ガリヴァー・ファンタジーは風刺とは別な世界ですが、作家スウィフトの空想力を楽しむことができます。

さて、本題のガリヴァー旅行記ですが、4つの渡航記からなります。ガリヴァーは船医となって旅に出ます。しかし、猛烈な嵐に見舞われ船は難破してしまうのです。目が覚め周りを見回すと、岸辺で小人に手足や体中を縛られているのです。ここからガリヴァーの不思議な国々での冒険が始まります。

世界を旅する その十九 アイルランド その8 スウィフトとアングロ・アイリッシュ文学

アイルランドが英語による文学、つまりアングロ・アイリッシュ文学(Anglo Irish literature)のすぐれた作品を生み出したのは、イギリスの統治が進み英語が十分に日用語化した17世紀後半といわれます。18世紀以降に現われたアイルランド人による英語で書かれた文学作品は、皮肉にもイギリスに対する痛烈な批判や社会風刺でありました。

ブリタニカ百科事典によりますと、19世紀初頭のアングロ・アイリッシュ文学は、民族主義と自由主義、そして革命がこの時代の空気であり、一方ロマン主義の影響も現われ初めていたといわれます。長い間、イギリスの統治という忍従に耐えてきたアイルランドは自らの足で立ち上がり、特異な生き様を文学作品において語り初めたのです。

Jonathan Swift

ケルト民族の伝統を継いだ文学者で、アイルランド古典文学再生の先駆をなしたのが、ジョナサン・スウィフト(Jonathan Swift)といわれます。スウィフトはアイルランドで生まれダブリン大学で教育をうけます。そして不朽の名作「ガリヴァー旅行記(Gulliver’s Travel)」を世に送ります。

この冒険小説は、我が国でも童話として広く紹介されるほど、面白いストーリーと展開です。しかし、全体を読んでみますと単なる空想的な冒険談でないことがよく分かります。スウィフトが選んだテーマはイギリス政府の過酷なアイルランド政策による屈辱であり、それを痛烈に非難し、イギリス社会にどっぷりと根ざした精神性や伝統を冒険談にくるんで風刺しようとしたことなのです。

世界を旅する その十八 アイルランド その7 独立戦争とアイリッシュ

アイルランドは、1650年代にクロムウェル(Oliver Cromwell)による過酷な植民地支配を受けます。クロムウェルはイングランドの政治家であり軍人でありました。彼はイングランド共和国(Commonwealth of England)初代の護国卿(Lord Protector)となります。その後、プロテスタントによるカトリック教徒であるアイルランド人への迫害が長く続きます。さらに1845年から4年間にわたって起こったジャガイモの疫病による食糧不足でアイルランド人が大勢亡くなります。

Boston Tea Party

アメリカに移住したアイリッシュの歴史は東海岸のボストンにみられます。1700年代の初頭、植民地支配が続くボストンあたりでイギリスからの抵抗運動が起こります。植民地時代のアイリッシュのイギリスからの独立運動はボストン市内の各所にある旧所名跡に残っています。例えばボストン茶会事件(Boston Tea Party)です。当時、植民地であったNew Englandの中心、ボストンは紅茶や綿花の本国へ送る港でした。抑圧されていたアイリッシュは独立のために立ち上がったのが、バンカーヒルの戦い(Bankerhill) 、レキシントン・コンコードの戦い(Lexington & Concord)などです。やがて独立をなしえたのは1789年です。

Bankerhill
Lexington & Concord

司馬遼太郎は「愛蘭土紀行」において、アイルランドだけでなくアイルランドと関係のある国、関連する歴史を掘りおこし、アイルランドの人々に流れる精神にスポットをあてます。独自の史観や文化観によって、その地の歴史や地理や人物を克明に描写するのが特徴です。「街道をゆく」という名前から、司馬遼太郎は人や物が交流する「街道」や「海路」にこだわり、日本や世界の歴史を展望しているといえましょう。

世界を旅する その十七 アイルランド その6 ケルト人とガリア人

ヨーロッパの先住民族は、ケルト人(Celtic)と呼ばれていました。Celticは、「ケルト人の」とか「ケルト語の」を意味する形容詞です。名詞としてはケルト語を意味します。別名ケルティックとも呼ばれます。ローマ帝国のローマ人はケルト人をガリア人(Na Gaeil)と呼んでいたといわれます。昔、フランスやベルギー、スイス、オランダおよびとドイツの一部はガリア(Gallia)地域といわれ、そこに住む諸部族はガリア語あるいはゴール語(Gaule)を使っていました。

Celtic

ブリタニカ百科事典によりますと、ケルト人はローマ人からは野蛮人と見下され、ローマ帝国の支配を受ることによって独自性を失い、さらにゲルマン人(German)に圧迫されたためアイルランドやスコットランド、ウェールズなどの一部に移住を余儀なくされたとあります。その間のケルト人の歴史や生活、宗教、神話などは後日取り上げていきます。

Celticがいたころのヨーロッパ

ケルト人はもともと精悍な騎馬民族として行動してきました。中央アジアの草原から馬と車輪付きの馬車を持ってヨーロッパに渡来した民族です。彼らは木で作った車輪の寿命を延ばすために、動物の皮や木のタイヤの代わりに鉄のタイヤを取りつける方法を発明します。4輪の馬車を考案したのもケルト人です。しかも前輪によって舵取りができるようにしたといわれます。戦車や馬車が武器とが使われていきます。

Galliaの古地図

世界を旅する その十六 アイルランド その5 「アイリッシュ・ディアスポラ」

「アイリッシュ・ディアスポラ」 (Irish diaspora) は、アイルランド島外に移住したアイルランド人をさす言葉です。「ディアスポラ」の語源ですが「散らされた民」といって、イスラエルを離れて異邦の地で暮らす離散したユダヤ人を指すギリシア語です。典拠はイザヤ書(Isaiah)。その49章6から9節などに記述があります。『 わたしは捕えられた人に「出よ」と言い、暗きにおる者に「あらわれよ」と言う。彼らは道すがら食べることができ、すべての裸の山にも牧草を得る。』Isaiah49:9

1845年から起こった国難にジャガイモ飢饉(Potato Famine)があります。この食糧事情などの悪化によってアイルランド人口の少なくとも20%が餓死および病死したといわれます。ジャガイモ飢饉によって、人口の10%から20%が世界各国に移住します。移住先としてはアメリカ合衆国、イギリス、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドです。現在の合衆国では、アイリッシュは約3,600万人、総人口の12%を占めるといわれます。今でいえば難民といえるでしょう。

Potato Famine

現代の「ディアスポラ」の一例は、モン族(The Hmong)でしょう。軍事政権初期にミャンマー国内が内乱状態に陥いると、独自の王国を復古させようとする運動は弾圧され、タイ北部に逃れた数多くのモン族が難民がタイ側へ脱出します。その後アメリカのミネソタ州やウィスコンシン州に難民として受け入れられています。

モン族

世界を旅する その十五 アイルランド その4 街道をゆく「アイリッシュの気質」

アイルランドはイギリスを含む周辺諸国からの侵略や差別などの苦難に耐え抜いてきた歴史があります。17世紀にイギリス本土での清教徒革命(Puritan Revolution)で実権を握ったオリバー・クロムウェル(Oliver Cromwell)が行なったアイルランド侵攻もそうです。プロテスタントによるカトリック弾圧から続いてきた「アイルランド人に対する抑圧」が前回登場したIRA成立の背景にあります。

Oliver Cromwell

そうした逆境の影響からか非常に辛抱強く負けん気も強く、大胆で誇り高い民族という見方もできそうです。アイリッシュには努力家の人も多い傾向があるといわれます。民族意識や民族性は、歴史により育まれた産物であるともいえそうです。

司馬の「愛蘭土紀行」では「アイルランド人の気質」について次のようなことが書かれています。アイルランド人としての典型的性格は、映画化しやすいというのです。例として、クリント・イーストウッド(Clint Eastwood)が演じている映画「ダーティ・ハリー」(Dirty Harry)という刑事ものをあげています。非常に頑固な性格で、正義感や責任感も強く、情に深い一面があり、自分を曲げない芯の強さがあるというのです。ダーティ・ハリーの名はHarry O’Callahanといってアイルランドの名前です。チームワークを嫌い、悪をはなはだしく憎み、独力で悪に挑戦し、時に法さえ超えてしまう行動です。

Dirty Harry

アイリッシュをステレオタイプ化した性格でとらえるのは、はなはだ危険ではありますが、一般には組織感覚が少なく、統治されることを忌み嫌うもといわれます。「ダーティ・ハリー」は、その典型のようなところがあります。「演劇化しやすいのがアイリッシュだ」というのも、あながちうがった見方ではなような気がします。

世界を旅する その十四 アイルランド その3 街道をゆく「愛蘭土紀行」

司馬遼太郎の「街道をゆく」シリーズは、日本国内はもとよりアイルランド・アメリカ・中国・オランダ・韓国・モンゴル・台湾など旅の紀行集です。その30巻が「愛蘭土紀行」です。「愛蘭土」という漢字を誰がどのような理由で付けたかはわかりません。司馬は、国々の特徴や民族や文化などについて幅広い知識で記録しています。「雑学」に長けていると揶揄する評論家もいますが、そうした評論家が果たして「街道をゆく」のような紀行文を書けるかとなると疑問です。それほど司馬は知的な好奇心が強く、かつ博識だったといえましょう。

アイルランドの首都はダブリン(Dublin)。アイルランドの歴史の中で重要な役割を果たしてきたところです。スコットランドの対岸に面しています。ジェイムズ・ジョイスは小説「ユリシーズ」においてダブリンの街を克明に記述しているため、ジョイスは「たとえダブリンが滅んでも、ユリシーズがあれば再現できる」と語ったという逸話があります。

司馬遼太郎

もともともアイルランドはイギリス領でした。1916年4月24日といえば、キリスト教でいう復活祭(Easter) の時期です。「イースター蜂起」と呼ばれる7日間に渡る武装蜂起をきっかけに独立運動が起こります。これがアイルランド独立戦争(Irish War of Independence)のきっかけで、1919年から1921年まで続きます。このイースター蜂起で主要な役割を担ったのがカトリック系武装組織であるアイルランド共和軍(Irish Republican Army) 、略称IRAです。「愛蘭土紀行」にはアイリッシュの気質に触れている箇所があります。アイリッシュの典型的性格、チームワークを嫌い、組織感覚がなく独力で戦うという記述もあります。こうした描写はなぜか読者を惹き付けるものです。そういわけでアイリッシュの気質は次号で触れます。

Dublin, Irland

世界を旅する その十三 アイルランド その2 親父とジェイムズ・ジョイス

父親は96歳で八王子は高尾の地で他界しました。趣味の中でことの他、読書が好きで書斎に閉じこもってはお気に入りの小説を読んでいました。疲れたときはクラッシック音楽を聴くのがおきまりの日課でした。なぜか親父はアイルランド人、アイリッシュ(Irish)である作家ジェイムズ・ジョイス(James Joyce)の「ユリシーズ」(Ulysses)を読んでいたようです。私と会う度に、「ユリシーズは難しい小説だ」といっていたのを記憶しています。不肖の私はまだこの小説を読んでおりません。

James Joyce

ジョイスの他にアイルランドの文芸復興を促したといわれ、日本の能の影響を受けた詩人に劇作家のウィリアム・イェーツ(William Yeats)がいます。同じくアイルランド出身の劇作家、小説家、詩人にサミュエル・ベケット(Samuel Beckett)もいます。ベケットはフランスのレジスタンスグループに加入。ナチスに対する抵抗運動をしたという経歴を有します。1923年にイェーツはノーベル文学賞を、ベケットは1969年に同じく文学賞を受賞します。童話でも知られる強烈な風刺作品「ガリヴァー旅行記(Gulliver’s Travel)」を書いたジョナサン・スウィフト(Jonathan Swift)もアイリッシュです。

Samuel Beckett

日本で知られるアイルランド出身の小説家でジャーナリストといえばラフガディオ・ハーン(Patrick Lafcadio Hearn)でしょう。父はアイルランド出身でプロテスタント・アングロ=アイリッシュ(Angro-Irish)です。両親とともに首都ダブリン(Dublin)で幼少時代を同地で過ごします。あちらこちらを遍歴し、さまざまな職業に就きますが、1890年に来日し、欧米に日本文化を紹介する著書を数多く遺したことで知られています。1896年に日本に帰化し奥方の姓で「小泉八雲」と名乗ります。

Lafcadio Hearn

アイリッシュがなぜ不朽の傑作を世界中に残したのか、それが知りたくなります。

世界を旅する その十二 アイルランド その1 St. Patric Day

今年はアイルランド(Ireland)に行きそびれました。長男の家族4人、そして嫁さんの両親が7月上旬にアイルランドの西海岸方面で避暑を楽しんだようです。彼らの結婚50周年記念の旅でした。嫁の母親、Dianeはアイルランド系で、この旅はいわばセンチメンタル-ジャーニー(sentimental journey)というわけです。言い忘れるところでしたが、私はまだアイルランドを旅したことがありません。

家族等が滞在したのは、アイルランドの西海岸にあるゴールウェイ(Golway)という街です。名前の由来は、ガリヴ (Gallibh)という外国人という意味のアイルランド語であるといわれ、今は「外国人の町と呼ばれているようです。アイルランド語は、ゲール語(Gaelic)とも呼ばれ、アイルランドにおける第一公用語となっています。

私とアイルランドのちっとしたつながりです。ルーテル教会の礼拝にいったときです。親しくしていた夫人からキスをされました。たまたま私は緑の服装をしていました。「今日はセント・パトリック・デイ(St. Patric Day)だというのです。」 私はそんな風習を知りませんでしたが、心地良い気分になりました。そういえば、周りの信者さんは緑色の物を身につけていました。アイルランドにキリスト教を広めた聖人、聖パトリックの命日、3月17日がSt. Patric Dayとなったとあります。アイルランド共和国の祝祭日となっています。

世界を旅する その十一 ポーランドと日本の移民の歴史

19世紀中葉にかけては、アメリカ合衆国への移住者が最も多い時期です。英語以外の言語を母国語とする人々のうち、ドイツ系、イタリア系の人々に次いで多いのがポーランド移民です。1960年代には637万人がポーランド系と推定され、そのうち75万人がポーランド生まれといわれます。

こうした移民の特徴は、ポーランドにおける政治や経済の不安定、農業形態や経済構造の変化にともなう農村部を中心とする余剰労働力の増加という事情が指摘されています。ポーランドからの海外への移動は「出稼ぎ」ではなく「定住」という移民形態でありました。それゆえ家族を同伴した移動が主流でありました。

我が国における移民の歴史にも触れることにします。最初の移民は、1868年で、当時スペイン領であったグアム島(Guam)へ農業移民42人が渡ります。これは「出稼ぎ」でありました。ハワイへ(Hawaiʻi)の移民も1868年に始まります。横浜在住のアメリカ商人で元駐日ハワイ総領事のバンリード(Eugene Van Reed)が斡旋した「出稼ぎ移民」で150人の日本人労働者をハワイのサトウキビのプランテーションへ送りだします。

1885年には、ハワイ王国(Kingdom of Hawaiʻi)との間で 結ばれた「移民条約」によってハワイへの移民が公式に許可され、946人の日本人が移民します。さらに沖縄からは、1899年に26人がハワイのサトウキビ農場へ「出稼ぎ移民」として渡ります。

少しさかのぼり、1880年代よりカリフォルニア(California)に日本人移民が渡り、 1900年代に急増します。1905年には 約11,000人がハワイへ、1920年に 6,000人がアメリカへ移住します。日米開戦当時、アメリカ本土には日系1〜3世含めて約128,000人が住み、そのほとんどがカリフォルニア州を中心にオレゴン(Oregon)、ワシントン(Washington)といった太平洋岸の州に住んでいました。